ふらりと言うか、はらりと言うか。ダイゴさんは気が向いた時にだけ、わたしの家の庭に現れる。事前に知らせをもらったことはない。わたしは庭先にて、仕立てのいい背中がポケモンを手慣れたように、でも相手への眼差しを絶やさずに扱っているのを見つけるのだ。
 まるで不意に届く恩師から便りを受け取った時に似ていた。姿を見つけた時の驚きは、まだ覚えてもらっていたのかという驚きと同時に湧いた。

「ダイゴさん、来てたんですね」
「うん、キミたちの様子が気になってね」

 ここへ来たダイゴさんは庭には何の連絡もなしに立ち入るけれど、決してその先へは進まない。草木の生い茂る周りと、私の家の敷地の境界。そこに立ったまま、自分からは入れてくれとも言わない。
 わたしが部屋の片付けや、冷蔵庫の中身なんかを思い出し、彼を受け入れられる状態であることを確認した後。「せっかくだからお茶でも飲んで行きますか?」と恐る恐る聞くと。

「ありがとう」

 そう言ってダイゴさんはようやく、庭の中に置いてある鉄とガラスのガーデンテーブルの元へ向かった。
 雨ざらしのガーデンチェアにそのまま座らせるのは忍びないと、急いで室内からクッションを引っ張って来たけれど、ダイゴさんは気にせず背もたれに体を預けて空と、そっと青葉の裏を伏せてるくる庭で1番大きな木を見上げていた。

「何が飲みたい気分ですか? 麦茶にコーヒーに、最近暑いから水出しアイスティーもあります。氷も、たくさん」
「おや。今日は選べるんだね?」
「はいっ」

 ささやかなおもてなしをダイゴさんに出来ると期待したが、ダイゴさんはさらりとわたしの見当違いなことを言った。

ちゃんは何を飲む? 今日はキミと同じものが飲みたい」
「え、ええ? わたしと同じ、ですか?」
「うん」
「でもわたしとダイゴさんの好きな味って、きっと違うと思います」
「いいんだよ。今日はちゃんと同じにしてみたいんだ」

 わたしが飲もうと思っていたのは、水出しアイスティー。飲みきれないからと譲ってもらった紅茶のフレーバーが、わたしには美味しさがわからなかったので、あえて水出しにすることで消費しようと思っていたものだ。
 苦手なものでも無駄にしないため、我慢して飲みきるための水出しアイスティー。それは決して一番いい選択肢ではなくて、そんなものをダイゴさんに出せるはずもなかった。

 困りながらも私は結局、麦茶をグラスに注いだ。それにおやつをつけた。冷蔵庫の奥に冷やしておいたゼリーだ。先月もらったものを、特別な日のためにととっておいたゼリーは今日、ダイゴさんに出すのにぴったりだ。
 早くも汗をかきはじめたグラスとお茶菓子と、銀のスプーンが二人分が揃った。お盆を携えながら、お庭に戻ると、ダイゴさんの膝の上にはキノココが登って、安らいでいた。

「この子は新入りだね?」
「いいえ。ダイゴさんが前回来たときもいましたよ。ただ、ものすごくおくびょうなので姿を見せなかっただけで」
「そうだったんだね」

 お盆の上からグラスたちをテーブルに移しながら、キノココを見る。

「ふふ、ダイゴさんに甘えてる」
「キミが大切に面倒を見てあげたからだよ」
「………」
「キミが、人間に甘えられるようにした」

 ダイゴさんは冴える瞳の色でわたしを見据える。反射的に、わたしはその眼差しから逃げてしまっていた。


 祖母から引き継いだ、シダケの隅っこに位置するわたしの家。見た目は多少古いだけの家なのだが、ここにはなぜか、やせいのポケモンたちが現れたりする。それも傷ついたポケモンや、仲間の姿が見えないポケモンなど、何らかの事情が垣間見えるポケモンたちばかりだ。
 祖母が生きている頃からそうだった。どこからかポケモンたちがやってきてこの家で過ごすのだ。
 やせいのポケモンのままなのに、ポケモンたちはみんな祖母の友人のようだった。わたしはそんな祖母とポケモンたちの関係が不思議で仕方なかった。訪れるたびに、どうやったら祖母みたいにポケモンたちと仲良くなれるのだろう、と首を傾げたものだ。

 祖母が亡くなったあとに、その謎は解けた。
 祖母は別に、ポケモンたちに好かれる体質だったわけじゃない。なぜだかこの家に逃げ込んできたポケモンたちを、それぞれに助けてあげていた。元気になったポケモン、人間に慣れたポケモンだけが幼かった私の目の前に姿を現していただけ。傷ついたポケモン、人間に姿を見たくないポケモンは私を恐れ、どこかに小さくなって隠れていただけった。
 たまに訪れる、部外者の前にも現れることのできるポケモンたちはもう、心も体も癒されつつあるポケモンたちだった。だから、みんなが祖母と仲良く見えただけだったのだ。

 そしてダイゴさんも、そうだった。このキノココと同じだった。
 もう何年も前だ。ある日、ふらりと彼はわたしの家に現れた。スーツをまとった、明らかな成人男性だったけれど、一目見た瞬間に、なぜだかここに迷い込んでくるポケモンと同じだと気づいてしまった。
 そしてやはり、彼は身を寄せたポケモンたちとほとんど同じようにここで隠れながら過ごして、やがて出て行った身だった。


「キミはおくびょうなせいかくなのかい? 大丈夫。おくびょうさも立派な武器だよ」

 キノココを可愛がるダイゴさんの横顔にあの頃の、私の家に隠れ住んでいた頃の面影はない。むしろ顔を形作るラインが全て綺麗で見入ってしまう。表情を変えても彼の綺麗さは崩れない、なのにどこか荒々しくて、精悍だ。

 口に含んだ麦茶。吞み下すと、すうっと全身に染み渡っていく。体の熱が風に解けていくと同時に、胸が軽くなっていくようだ。香りがちょっと苦手な水出しアイスティーより、体は素直に喜んでいる。
 特別な日のために、と言いながら貧乏性で手をつけられなかったゼリーにあやかっている。何もかもダイゴさんのせいで、ダイゴさんのおかげだった。

「ずるいなぁ」
「それはボクの話かな」
「はい。このゼリー、大事にとっておいたのに。ダイゴさんが来たから解禁しちゃいました」
「それは良かった」
「そうなんですよ、もう、すごく美味しくて」

 素直にこぼすと、ダイゴさんは肩を揺らして笑った。

「ボクにはキミの方がよっぽどずるくて、強いって思うんだけどな」
「そんなことないですよ」
「なんでもない顔をして、誰にもできないことをしている」

 それは私がこの家で、ひっそり暮らしていることを言っているのだろうか。私には、その他に特に何もせず生きているので、多分そうなのだろう。
 なんでもないような顔で、誰にもできないことをしている。それこそダイゴさんの方だ。

 シダケの隅っこという田舎の中の田舎に住むわたしは、世間の話題に疎かった。なのでダイゴさんが、彼がこのホウエン地方のチャンピオンだと知ったのは、出ていった後のことだった。
 でもわたしの前に現れた彼は、チャンピオンたるトレーナーではなかった。さまよえる命だった。だからわたしは今も、彼の肩書きなどについては知らないフリをしている。

 なんでもないような顔でわたしの元に時々顔を出して、今日も誰でもないような顔で庭先に座っているダイゴさん。

「うん、決めたよ。ボクも此処を守る」

 わたしはしばし、何も言えなかった。ダイゴさんの決意のような言葉に、良いも悪いも、うん、とも困る、とも言えずに固まった。

「守るって……、何からですか?」

 わたしは肩をすくめた。そもそもわたしはこの家を守ろうと生きているつもりはなかった。ただ祖母の遺品整理をしているうちに、ここで過ごす時間が増えていき、結果的に住み続けてるだけだ。

「色々やりたいことはある。でもまずは、キミの家の雨漏りを直してあげたいかな」
「うっ」

 ダイゴさんはここでしばらく暮らしていた身だ。部屋の一部が雨漏りしたのが女性ひとりでは直すことはできずにカビが生えてきていることは当然知っていた。
 じめっとした部屋はパラスやキノココたちが好きな環境ではあるものの、古い家の一部が湿っているのは家自体へのダメージが気になっている。

「家を修繕するには資金が必要だろう」
「あの、まあ、お金の問題もありますけど……」
「それにここには、ポケモンたちが身を寄せている。事情の知らない人を呼ぶわけにも行かないだろう。それについても、ボクには考えがあるよ」

 自身に満ちたダイゴさんの声。チャンピオンだから多分ポケモントレーナーとしてはピカイチ稼いでいるのだろうし、この家に住んでいた人だからこそ、私とポケモンたちへの理解はある方だ。でも、わたしは素直に頷けないでいる。なんとなく、この人に頼るのが怖いと思ってしまっている。

「雨漏りが直ってくれたら、それは嬉しいですけど……」

 そう言いながら私は最大限に柔らかい、断りの言葉を探していた。

「……気にする必要、ないですよ?」
「うん。ボクはもう決めたんだよ、ちゃん」

 そんな行為は、厚意はいらないのに。柔な拒絶は、硬い彼にすぐ弾き返されてしまう。
 受け入れてもらえなかった願い事が草の上に落ちる音。それはダイゴさんのわがままによって、わたしの孤独に知りたくなかった熱が入り込む、合図だった。