自分はものぐさな方ではないと思っていた。かといって生真面目とも言えないけれど、ストリンダーのボールを無くすほどだらしないトレーナーではなかったはずだ。確かカバンの中に入れっぱなしにしておいたはず。そう思い込んでいたものの、いざカバンを確認してみても見つからず、逆さにしても出てくるのは塵ばかり。肝心のモンスターボールが、ない。うっすらと首を覆い始めた汗を見ないふりして、わたしは心当たりを探る。
 カバンじゃないならあとはあそこの引き出しか。ベッドの下に落ちたりしてないか。コートのポケットの中とか。そんな風に思い当たる場所をずっと探り続けている。だけど、見当たらないのだ。あのあずかりやの女性から受け取ったゴージャスボールが。

「おかしいなぁ」

 一体いつからなくしていたのだろう。それも分からないから、焦りはゆっくりと加速していく。
 最後にストリンダーのボールを見たのはいつだっけ。思い返してみると、ストリンダーと生活を続けるうちに、モンスターボールを使うことは随分少なくなっていた。一緒にあちこち歩き回ることもあるけれど、連れ歩きが許されるようになってからはストリンダーは始終私の隣を歩いてくれる。強くなったストリンダーは並みのバトルでは傷つかない。連戦だって難なくこなしてしまう。出先で疲れた時はキャンプをして、カレーを食べればストリンダーはすっかり元気になる。きのみや回復薬も使い切れないほど持っている。
 新たに買い足す時もフレンドリィショップより、ワットで交換してばかりなこともあって、気づけばしばらくポケモンセンター自体にお世話になっていない。

 意識してみて、初めて気づかされる。モンスターボールがなくたって、何不自由なく生活は続いている。
 小さな部屋でただ一緒に生活しているだけでは、ボールの必要な場面がない。ボールが不要の場面より、いつボールが必要になるかの場面を数える方が早そうだ。だから私も、ストリンダーのボールがなくなっていることに気づくのが遅れてしまったのだろう。

「ストリンダー、お買い物いくよ」

 声をかければ、ストリンダーはだらりと立ち上がった。ローのすがたとの呼び名にふさわしく気だるげだ。ストリンダーは歩き出しは体が重たそうなそぶりを見せる。けれど、動き出せばなんだかんだぴったりついてきてくれるので、彼のペースが上がってくるのを待って私も歩き出した。
 私はパン屋の前で立ち止まる。今日は食パンも買い足したい。

「あ」

 私はようやくボールを使う場面を見つけた。店内では焼きたてのパンがそのまま並んでいて、香りなどがうつると商品の風味に影響が出る可能性があり、どくタイプも持つストリンダーは入店不可となる。ボールの中に戻ってもらえてばストリンダーは連れていける。
 けれどパン屋に入るためにボールを使ったことは、そういえば、ない。私たちのやり方はこうだ。

「いつものパンだけ買ってくるからちょっと待っててね」

 ストリンダーも慣れたもので、ドアからは離れたところへ移動した。
 私は一人店内に入ると、ささっと目当ての食パンだけをトレーにとってレジに並ぶ。
 店内には美味しそうなパンがたくさん並んでいるけれど、あまり長居はできない。私の戻りが少し遅れると、ストリンダーはお店の外からじっと私を見てくる。その姿がふと、エレズンだった頃を思い出させるほどに可哀想なのだ。彼をあまり放っておけない。

「お待たせ。ほら、いい匂いするよ」

 パンが湿らないように、あえて半開きになっている口から香ばしい小麦の香りがする。二人で代わりばんこにパンの香りを吸い込んで、うっとりとしてしまった。茶色い耳の下には真っ白で、ふっくらとした身があたたかさを蓄えているのだろう。この食パンをブレッドナイフで好きな厚さに切って、サンドイッチをつくるのだ。スーパーに向かいながら、サンドイッチに何を挟もうかと私が勝手に話しかけて、ストリンダーは気まぐれに胸を弾いて歌う。ストリンダーとそんなこんなをしていると、まるで昨日のように、一日は簡単に終わってしまうのだ。
 ストリンダーのボールがないままはよろしくない。ストリンダーのトレーナーとして、見過ごすことはできない。だけど、やっぱり、モンスターボールの出番はないのだ。

 ストリンダーの背中の、煌々とした光は時々私を深く物思いに沈める。一緒に帰り道を歩きながら、ふと思った。
 ポケモンの定義とは。まだまだ不思議な不思議な生物のポケットモンスターたちを、何を以ってポケモンと呼ぶかは、諸説あるとのことだ。だけどわたしが「これは信じてもいいかも」とひとつ、思っているものがある。ポケモンとは、モンスターボールに入るかどうかだ、という話だ。
 確かに人間の私では逆立ちしてもモンスターボールに入ることはできない。それに、どこかの地方で現れた、ワームホールを通って来た謎の生命体たちも、モンスターボールに入ったことで一応ポケモンとして研究が進んでいると聞いた。
 世界にポケモンがいて、モンスターボールが生まれた。けれど、モンスターボールがあることでポケモンになる生き物もいるのだ。




「ええっ」

 ストリンダーのボールは予想外のところで見つかった。
 ハンドクリームの蓋をソファの下に落としてしまい、覗き込んだところ、暗い中でもつやつやと輝くゴージャスボールが見つかった。

「な、なんで、こんなところに」

 場所も驚きだけれど、もうひとつ驚いたのはボールがソファと床の間にぴったり挟まっていたことだ。引っ張り出すにもけっこうな力が必要だった。ということは、ここへ入り込んだときもそこそこの力で押し込まないと難しいと思われる。
 私は音もなく落ち込んだ。つまりボールが床に落ちていたのに気づかず、掃除機の先かなんかで押し込んだのにも気づかなかったことになる。
 大事なストリンダーの大事なボールなのに。あまりに不注意で自己嫌悪してしまう。

「ごめんストリンダー、動作確認したいから一度ボールに戻ってくれる?」

 モンスターボールは相当頑丈だそうだけれど、念のためストリンダーにボールを向ける。ストリンダーはだるそうな顔でそっぽを向かれたものの大人しく戻ってくれた。すぐさま出てきてもらい、ストリンダーの様子を伺うも問題なさそうだ。

 私はストリンダーのボールを胸にぎゅっと抱えた。見つかってよかった。大事なボールだ。思い出も詰まっている。それに、私はちょっぴり不安だったのだ。
 しこりのように感じていたことだ。つつがなく進んでいく日々の中にいると、人間という自我がどうでもよくなっていって、彼はポケモンだという境界が意味を保てなくなっていく。モンスターボールをなくしてしまって、探しても見つからなくて、どきどきしていた。もしこのまま楽しさにかまけて季節が変わっていったら、ますますわからなくなりそうだと思っていた。私たちはなんなのか、あなたはなんなのか、私が守っているものがなんなのか。
 私は失われていたモンスターボールの埃をもう一度払い、タオルで綺麗に拭いてから、今度こそカバンの中にしまった。



 昨日買って来たパンに、ブレッドナイフを入れる。ぶきような私が切ると厚切りになりがちだけれど、それが贅沢で美味しいのだ。やっぱり白い部分はうっとりするほどふかふかだった。
 ストリンダーのサンドイッチには何を挟もう。甘い味が好きなので、いつもどおりモモンの実のスライスで良いか聞こう。ストリンダーを探して、私は驚いた。

「ストリンダー、お散歩してたの?」

 ストリンダーが家の外から戻って来たからだ。私に言わず、珍しく一人で散歩にでも行っていたようだ。

「大丈夫だった? 技を使ったりとかしなかったよね、……」

 何もなかっただろうか。ハイな性格の子に比べれば、ストリンダーから誰かにちょっかいを出すことは少ない。それでも心配だったのだけれど、それらはすぐに霧散した。
 口ではストリンダーに問いかけて、私の視線は別のものに奪われていた。昨日、しっかりと締めたはずのカバンの口が緩んでいる。ストリンダーのボールをしまったカバンだ。カバンの中の暗がりに意識を奪われたのは数秒で、私はストリンダーに向き直る。

「なんのサンドイッチにしよっか」