我が社の休憩スペースにダイゴさんがいることは、割と珍しい。そもそも出社していることが稀なのだけど、副社長であるダイゴさんが事務方のフロアに出没すること自体は初めてじゃなかった。
 それは社内の風通しが良いゆえであり、社長と副社長の親子両方ともが変わり者がゆえでもある。当の本人たちは家の庭を歩くようにいたって気兼ねなくやってくる。構うな、お茶出しも不要だ、気にせず楽にしててくれと軽く言ってくれるのだが、私を含め周りの事務員や研究員たちは、明らかに立ち振る舞いの違う人間が同室することに今だに慣れずにいる。
 今日の副社長も、やはり私たちとの違いをまとっていた。外の光で十分明るいからと消灯された休憩室。オフィスの白い壁に跳ね返って、ぼやけてしまった自然光に包まれたダイゴさん。髪の色や思案するように閉じたまぶたの丸みといった造形の完璧さで、座る様が直射日光を避けて眠らされている鉱石のようだ。やはり近寄りがたい。

 でも、2月14日の今日は、私から話しかけることができた。

「お疲れ様です。副社長もおひとつどうぞ」
 
 いたって淡白に、私は平箱を差し出した。深みのあるブラウンに金の箔押しで彩られた、見るからに高級感のある平箱だ。両手で支えないといけない大きさで、中身は仕切りが設けられている。収まるのはもちろんチョコレート。ひとつひとつ手間がかけられたプラリネだ。
 甘い甘いジュエリーボックス。副社長が時々仕事の合間に開いて顔を緩ませている石たちを納めているケースにも似ている。

「みんなで自由につまんでるんです。どれがいいですか? あ、こっちの紙に種類とか書いてあります」
「そうなんだね」
「ちなみに私の自腹です」

 このプラリネたちは有名チョコレートメーカーの一品であり、一粒でモンスターボール分くらいのお値段がする。私にとってはかなり大盤振る舞いだ。だけど、副社長にしたら大したことないかもしれない。しょうもない自慢をしたことがすぐに恥ずかしくなった。
 ぐらりと揺れる気持ちを隠して、私はプラリネたちをまた副社長へとすすめる。

「みんなで美味しいチョコを食べるっていうのが、バレンタインデーの一番好きな過ごし方なんです。なので、副社長もどうぞ」
「へえ。ありがとう」

 箱の中をひとつずつ視線をやり、ダイゴさんは「これにするよ」と指を伸ばしてきた。
 切り出した石みたいな菱形でコーティングの艶がひときわ目立つそれ。副社長らしいチョイスだと思っているうちに、彼の薄い唇の間に挟まれて吸い込まれていく。じきに口の中でとろけたのだろう。ダイゴさんが目を細める。よかった、と私は思う。

 私にとってバレンタインデーは非常に面倒なイベントだ。恋が叶うとか、思いを伝えるとか、誰かからチョコレートをもらえただとか。そんなのは全て吹き飛ばして、甘いものは美味しいねと笑いあえたらそれで良い。なのに、恋に破れたとか、渡せなかったとか伝えられなかったとか、誰にも何ももらえなかったとか。もっと言うならばあなたがいなければとか、あなたにはわからないとか、あなたのせいだとか。ほら、ちょっと突いただけで面倒くささが吹き出してくる。

 美味しいチョコレートを大箱で買って、みんなで食べる。それが私が見つけた、嫌いなバレンタインデーをやり過ごす手段だ。
 私に苦しさを抱かせたそれら全ての苦い記憶に蓋をするように、甘い宝石をひとつずつ舌の上で溶かしていたい。面倒ごとを言いそうな口にはチョコレートを詰め込んでやりたい。そして甘美な舌触りに酔った人の表情ばかりで埋め尽くされていたい。そうでないものは、見たくない。
 それが、私が嫌いなバレンタインデーのために安くないチョコレートにお金を投じる理由だった。

 顔に笑顔を貼り付けて、どうぞいくつでもご自由に食べてくださいねと、伝えようとした時だった。
 あれ。副社長の表情に違和感を覚える。私が知るダイゴさんにしては微笑が硬い。まるで他社の噂話なんかの、あまり興味のない話を聞いている時のダイゴさんみたいだ。
 そう思い出したところで私は気がついた。

「副社長、もしかして……甘いもの苦手でしたか……?」

 図星だったようだ。微笑していたダイゴさんは明らかに調子を崩して、誤魔化しきれないと悟ると笑顔に苦さをにじませた。

「食べられないわけではないんだ。このチョコレートも美味しかったよ。けど、口の中がさっぱりするものの方がどちらかというと、ね」
「ええっ、多分ビター強めのチョコもありましたよ?」

 私はパラパラとお品書きのページをめくる。甘くないやつ、甘くないやつ……と必死に細かい文字を追いかける私をダイゴさんは制した。

「いいんだ。今日は甘いものを感じたい気分だった。キミがとても楽しそうにしてるからね」

 苦手な甘さを堪えていた笑顔が、眩しくて嫌味のない、本物の笑顔に戻っている。しゅるしゅると、私の肩から力が抜けていった。

「副社長ってほんと、いい人ですよね……」

 単に美味しいものを食べて喜んで欲しかっただけの私に、ダイゴさんは気を利かせて乗っかってくれたのだ。甘いものが得意ではないのに。フォローの言葉は優しすぎていて、かえって重たく私にのしかかってくる。

「いい人かい?」
「はい、私の気持ちに合わせてくれたじゃないですか」
「そうか。……うん、そうだね」

 わかりやすく落ち込む私を見て、ダイゴさんは不可思議に明るく相槌を打ち言い放った。

「いい人じゃないとこわがりそうだったからね。今日のキミは、特に」

 こわがる。脈略のない言葉に、ざわりと耳の後ろがざわめいた。服の下を突くどころか、肉を通り抜けて骨に触られたような悪寒があった。
 そこまでならただの悪寒で済んだものを、ダイゴさんは滑らかに続ける。

「10の手持ちがあったら、誰かに10渡す方が効果は強い。けど、1ずつを配る方が厄介ごとに巻き込まれずに済む。だからキミは小さな贈り物をみんなに送る。不平等を感じさせないために、大きな偏った好意を買わないために。そうだよね?」
「な、何の話、ですか」
「今日のチョコレートはみんなで楽しむためのものだって話だから、ボクも食べさせてもらったけど……。でもボクとしては、いい人だから食べたわけじゃないし、いい人で収まるつもりも全くないよ」
「………」 
「ありがとう、ごちそうさま」

 去り際に、ニコ、と擬音がつきそうな笑顔を向けられた。本当に、興味を示している時の副社長の笑い方だった。

 窓も開けてない室内で、私はじっとりと嫌な汗をかいていた。ドッドッドッ、と太鼓みたいに鼓動が鳴っている。
 自惚れであって欲しい。けれど、残念ながら宣戦布告だろう。私が逃げ続けた、避けるための策も講じて来た、惚れた腫れたの傷付け合い。
 多分私が嫌がるのも無視して、彼は幕を上げてしまうのだろう。

 呆然と立ち尽くしているとガタン、と物音がする。思わず目を向けると同僚がきまずそうに私から顔を背けた。ようやく私はこの休憩室に他に人がいたことに気がついた。背後で静かにされていたので、気づかなかったのだろう。逆に、私と対面するように座っていたダイゴさんは知っていたに違いない。プライベートなスペースじゃない、他者がいると分かっていてあんなことを言ったんだ。

「……前言撤回だ」

 ダイゴさんは全然いい人じゃない。
 バレンタインデーとは、こんな1日だっただろうか。魔除けや口封じの意味を込めた甘さ、それに嫌な記憶もねじ伏せた、ダイゴさんの光るような笑顔がふと蘇り、私を叫びたい気持ちにさせた。