「うそ、当選し、た……?」

 スマホに届いたメールを見て、誰に聞かせるでもない声が出た。私の全身はメールの文面を受け止めることに必死で、おそろかになった足からへなへなと力が抜ける。ロトムの入っているスマホは空中に残って、私だけがその場にへたり込んだ。
 ベタだけど誰かに頬をつねってもらいたい。メールの中身を見せて、現実であることを確かめたい。でも画面を他の人にみすみす見せることは憚られた。
 だってこれは、最愛の人に会うためのチケットなのだから。

 およそ半年前だ。ポケモンリーグが主催する大々的なチャリティーイベントが告知されたのは。
 元々は人気トレーナーたちが無償で参加する、ポケモンバトルをメインにしたイベントだった。けれど私が湧いたのは合わせて発表されたもうひとつのイベント。
 一定額の寄付をすると、応募した中から抽選で希望のジムリーダーと夢を叶えられる。そんな嘘みたいな企画がリーグ委員会から発表されたのだ。
 おそらく、ダンデさんとポケモンバトルがしたい少年とか、ヤローさんに初めてのポケモンゲットを手伝ってもらいたい少女だとか、そういう純粋な人々のためにある企画なのだとは思う。私みたいなただのネズさんファンに向けられたものではないのだろうと想像はついた。だけど、もしかしたらネズさんと。そんな希望が捨てきれず、私は募金と共に願いをリーグ委員会に送ったのだ。
 ネズさんとただ食事がしたいです、と。

 最初は詐欺を疑った。だけどメールには私の「ネズさんと食事をしたい」という願いがきちんと書いてある。願いの内容を知っているのは、応募先であるリーグ委員会だけだ。
 信じられない。そう思いながらも震える指で当選メールに返信をすると、リーグ委員会の人が仲介役として手続きの案内を再送してくれた。
 死ぬ気で予定を空けて、無理なダイエットも強行して、胃を気持ち悪くさせながら迎えた当日。私は叫び出しそうな気持ちを抱え、指定されたレストランにたどり着いた。
 事前に渡された誓約書にサインしたものをスタッフさんに渡し、再び注意事項を確認。荷物のチェックもされ、ようやく私は会場へと案内されたのだった。 

 説明によると、個室の出入り口に座ってるのはリーグ関係のスタッフさんだそうだ。
 ワンルームほどの広さをとってある贅沢な部屋にテーブルがひとつに、椅子が一対。私の向かいの席にネズさんが座るのだと思うとそれだけで心臓を吐き出してしまいそうだ。
 個室のテーブル席に座って、待つこと数分。ネズさんは少し遅れてやってきた。

「ネズさん、いらっしゃいましたー」

 スタッフの掛け声が刑罰執行の合図みたいに思えた。私は上から釣り上げられたみたいに立ち上がる。

 待たされる時間もファンにとってはご褒美だった。いつ現れるのだろうとどきどきして待っていられることに感無量の幸せを感じていた。だけど本人が現れて、限界は見事に破壊された。
 だってまさか、バトル用ウェアじゃないなんて思わなかった。今日のネズさんは派手な襟付きシャツに、黒いネクタイを締めている。下はこれでもかというくらい細いスキニーパンツだ。彼の存在を引き立たせるようなごついシルバーアクセはそのままなのに、重たいグローブのない素肌の右手なんてレアすぎる。
 びっくりにびっくりを重ねて畳み掛けられた。レストランに合わせたネズさんの私服を拝めるなんて、目を見開きすぎて乾きだした眼球が痛い。

「あ、あああああの、ネズ、さん! 今日は、っよろしくお願いします……!」

 痺れたようになる私は多分、巷によくいるネズさんファンだ。ネズさんははぁ、と重たいため息をついた後、とても気だるそうに言った。

「……よろしく」




 個室レストランで食事をするのは、初めての経験だった。料理もすごく美味しいはずなのに、脳はその味を覚えることには使えない。憧れのネズさんという存在が全てをうわまって塗り替えて行く。
 ネズさんは冷めた様子で静かに食事を進めている。対して私は、叫び出しそうになるのを喉奥に押し返そうと、絶えずフォークの先を口に運び続けていた。
 無言でガツガツと、味わうこともせずに口に物を運び続ける私。見かねてネズさんが言う。

「もっとゆっくり、味わって食ったらどうです?」

 話しかけられた。ネズさんから。その驚きでフォークを落としてしまいそうだ。品のない音を立てる前にと、私はすぐカトラリーをお皿に休ませた。

「す、すみません」

 口の中を飲み込んでから私がペコペコと謝ると、ネズさんは呆れ顔を隠さずに肩を落としている。

「緊張してるのかもしれねえけど、見てて心配になりますよ」
「いや、ネズさん絶対こういうの早く終わらせたいだろうなって!」
「ハァ? きみが望んだんですよね? おれと食事がしたいって。なのに早く帰りたいと?」
「はい。でももう、こうして座ってるだけで感無量というか……」
「……今回の企画、知ってます? 夢とやらを叶えてきみが幸せそうなところをあそこに立ってるリーグスタッフたちも見たいんだと思いますよ」

 ネズさんの言う通りだろう。事前の説明や誓約書の中に、写真撮影の許可が入っていた。おそらく「夢を叶えました!」感のある、チャリティーイベントにふさわしい心温まる一枚を撮影し、それを宣伝などに使いたいのだろう。

「わ、私の夢はもう叶ってます。ネズさんとこうしてお食事、できてますから……だからもう、他は全部いらなくて」

 本心を話したまでだった。だけど、めんどくせえ、と思ったようだ。ネズさんの痩けた頬にそう書いてある。
 多分、このファン心理は言葉にしないと本人には理解されないものだろう。そう思って私はつっかえる喉でどうにか説明を試みる。

「あ、あの。えっと。今回の企画ってリーグ委員会主催じゃないですか? だからローズさんが企画したのかなって私は思ってるんですけど!」
「はあ」
「ダンデさんや、メジャー入りしたジムリーダー全員がこの企画に起用されてて、まあキバナさんとかだったら応募数とかしれっとSNSに載せて自慢しそうだなって感じですよね! でもネズさんも参加することになったのはファンとしては意外でした」
「………」
「ネズさんこういうの無視しそうなのに。でもどうして今回はネズさんが顔出してるかっていうと」

 本当に私が勝手に考えたことなんですけど。ネズさんに対して失礼にならないよう前置きをしてから、私は続きを口にした。

「寄付が、絡んでるからですよね……。そういうところ応援したくて私もお金、使いました。夢はほんとどついでに書いただけ」
「ふうん」
「あと! ネズさんへの応募が少なくて、ネズさんが人気ないと思われたらイヤじゃないですか!」

 ポケモンリーグは圧倒的人気のダンデさんばかりを持ち上げる。確かにダンデさんにはそれにふさわしい人気と伝説的な実力があるけれど、ネズさんのことだって無視させたくない、というのがファン心理だ。
 またネズさんを呆れさせてしまうな、と思っていたのだが、呆れすぎてもう呆然の極地にたどり着いたのかもしれない。意外にも対面のネズさんは口がへの字に曲がってはいるが、力が抜けた様子だ。

「心配いらねえですよ。と、言いたいところだけど、実際のところはきみみたいなのの存在がおれを支えてくれてると思うので、素直に感謝してるよ。ありがとう」
「いいいいいえいえ!!」
「きみを選んだのは、本当に偶然でさ」

 お礼を言われた、ありがとうを言われた、感謝された! 言葉の数々が受け止めきれずに私は吐きそうになるのだが、ネズさんはつらつらと語り出す。

「スタッフがバカみてえに無駄紙を持ってきて、選んでくださいっていうから、適当にとってみたんです。内容を読んでみたらただ食事するだけでいいって書いてあるから、これでいいやってなってさ。だけど思ったより、おれも面白い体験ができてますよ」

 一瞬、目を疑った。テーブルの向かいでネズさんが目を細めた。前髪の奥で控えめな笑みを浮かべたのが見えたのだ。
 あなたがいなければ私もいなかった。重たいけれどそう思ってしまう大好きな存在であるネズさんに、迷惑をかけるのではないかと思えてずっと怖かった。だけど、ネズさんがちょっぴりでも楽しそうに笑ってくれた。彼は安い愛想笑いを浮かべるようなひとではない。それが分かっているから、少し上がった口端が嬉しくて不意に涙が出そうになった。

「そう、おれも案外楽しめてるからさ、ゆっくり食べなさい」

 言い聞かせてくるのは、柔らかく優しい、見守ることを知っている声だった。セリフひとつで彼がスパイクタウンの人々から慕われている理由がわかってしまう。私が何度も頷くと、またネズさんも満足げにグラスを手に取った。

「おれに会えたら聞いてみようと思ってたことは何かないの? 楽しみにしてたんなら話題くらいは考えてくれたよね?」
「えっと……、すごく変なお願いなんですけどいいですか?」

 何を構う必要があるのか。そう言いたげにネズさんは肩をすくめ、こちらが喋り出すのを待っている。

「アイシャドウ、どこのを使ってるか聞いてみたくて……!」

 ネズさんの瞼を彩る、哀愁の薄紫。その色合いがどのアイシャドウパレットを使えば出せるのか知りたかった。自分で探したことはあるが、本人の口から答え合わせをしたいのだ。

「私の肌はネズさんのような白さはないので似合わないかもしれないですけど、同じ色をまとえたらって思ってるんです」
「アイシャドウ、ねえ……。そうですね。おまえには似合いそうにねえですね」
「うう……」
「なので、別のをあげますよ」

 ネズさんがスタッフさんに声をかける。マネージャーに近い立場の人なんだろうか、彼はすぐにネズさんのものと思われるカバンを持って来たのだった。

「ちょうどよく、新品を買ったところだったからさ」

 言いながらネズさんはカバンの中を漁っている。なかなか見つからないようで、次第にのど飴や、メモ帳、ボイスレコーダーやポケモン用の傷薬なんかの私物が机の上に並べられて、私の好奇心を刺激した。
 そうしてネズさんが取り出したのは、確かにカバンの中から見つけ出すのに苦労しそうな小ささだった。

「……リップクリーム、ですか?」
「そう。これ、ちょっと白いから、つけたら顔がおれみたくなるかもね」

 確かに。思わず視線を奪われたネズさんの生の唇は、やはり血色が薄い。その痩身ぶりから見て顔がもともと青白いのかと思っていたけれど、唇の色の印象がないのが拍車をかけているようだ。
 テーブルの真ん中に置かれた、小さなリップクリーム。もらっていいんだろうか。信じられない気持ちがありながらも、私は身を乗り出してそれを受け取った。

「教えてもらえるだけで、充分だったのに……。嬉しいです、本当に。本当に嬉しいです……」

 リップクリームが潰れて、手の内で折れてしまうんじゃないか。そう思うくらい強く握りしめると、リップクリームのプラスチックケースは頑なに反発する。手のひらに痕がついて、じんじんと伝わって来るのは多分、痛みのはずだ。だけど痺れた私の頭はこめかみを揺さぶるそれを痛みと認識できなくなっていた。

「きみ、本当に喜んでる?」
「もちろんです!」
「じゃあもっと嬉しそうな顔したら? できねえんですか?」
「幸せすぎて、辛いんです。許してください……」

 確かに今の私はどんな感情に見舞われてるかわからないほどぐちゃぐちゃだろう。暴力みたいな幸せを手渡されると人間は笑えないんだ、と自分でも新たな発見をしているところだ。
 私だって笑いたい。だけど笑おうとすると、もっと大きな何かが私にぶつかって来て、口や目を、別の形に歪ませるのだ。

「幸せすぎて辛いですか。まあわからなくもねえけどさ」
「これがちゃんと”嬉しい”なのか、わからないくらい嬉しいです。私、今日帰ったら全身赤くなるまでこすって、洗っちゃうと思います。ファンのひとって、手を洗いたくないとかよく言うけど、私は逆で、こんな幸せをずっと身にまとい続けるのは怖い、です。幸せすぎると思ってしまうんですね、明日世界が終わるのかも、って」

 明日世界が終わるかも。むしろ終わってくれてもいい。この絶頂感に殴打されて、死んでしまいたい。誤魔化せないほどはっきりと、私はそんな気持ちを抱いていた。

「明日が来るのが怖いです。それくらい、今日が幸せです……」

 私はこの日を過ごすためにどれだけの良いことをして来られただろう、どれだけ対価と呼べるような酷い体験を受け入れて来られただろう。自分がいい子だったなんて全く思えない。だから今日の幸せと引き換えに明日から何を失うのだろうと怖くて仕方がないのだ。
 恐怖。それは手の中のリップクリームから、死んでも手放せないリップクリームからも絶え間なく溢れ出て来る。

「……きみさ、怖がりすぎですよ」

 ネズさんは動揺ひとつ見せない。重たげな銀のフォークとナイフを握って、瞳に冴えた色を乗せ続けている。

「今日の幸運も明日の不幸も、全部もっと身勝手だよ。ルールなんてなくて、約束も通じなくてさ、もっと身勝手におれたちを殴りつけてくる。だからなんであんな奴が幸せにって思うこともあるし、どうしておまえみたいな子が報われないんだろうなって叫びたくなる日もある。そういうもんだって」

 ネズさんは淡々と話を続ける。聞いている途中でそんな話が、今までの彼の歌詞にもあったなと気づいた。演奏はないけれど、彼の喉から出てくるとこれもひとつの歌のように思えた。ネズさんの、生の言葉。過ぎ去ってしまう言葉たちをどうにか捉えられたらいいのに。ネズさんの歌を聴く時に何度も考えていた、脆い願いを抱いた。

「だからさ、明日、怖がらずにそれ、使うんですよ」

 彼の歌を聴く気分で座っていた。だけど彼の歌と違うのは、目の前に柔らかくて暖かなものが滲むネズさんの表情があることだった。



 定刻通りに夢を叶える企画は完了を迎えた。
 鼻がズビズビ鳴って、目はしょぼしょぼしている。そんな私をリーグスタッフは泣くほど幸せなのだろうと思ったらしい。私の惨めさに返って喜び、祝う様子でネズさんとのツーショットを数枚撮っていった。きっと、みっともない私をいずれガラル中の人が幸運な誰かさんとして見ることになるのだろう。

 会場はようやく終わったと言わんばかりのリーグスタッフさんのくだけた雰囲気に包まれていた。
 泣き疲れた私は静かに会場の隅に立ち尽くしていた。手の平はすっかりリップクリームのケースの形に凹んで、幸福感と痛みを同時に与えてくれている。
 夢のような時間は解けようとしている。私に悔いはなかった。もっと、なんて求める資格は私にはない。最後に一言、お礼だけでもネズさんに伝えられたら。そんな思いを抱えつつ、私は従順に待った。ネズさんが退室していくのを、スタッフさんに帰りの案内をされるのを。
 だからネズさんから肩を突かれ、話しかけられたのには、またも息が止まるかと思った。

「お疲れ様」
「はぃい……!」
「今日についておれは何も期待してなかったですけどね、予想外に面白かったですよ」

 声も出せないほど驚いている私を見るネズさんは楽しげだ。ネズさんは小さな紙を私に差し出した。

「ルール違反だけど、まあおれはリーグ協会のお行儀の良いルールなんて知ったこっちゃないんでね」

 見るとメモ紙にIDが書いてある。私が状況を飲み込む前にネズさんはさらに声を落とした。動きを止めてる脳に、信じられない言葉たちを吹き込んでくる。

「通話、かけてきな。今日おれといてそんなに幸せだったんなら”ラッキーだった”で終わらせず、一度くらいは自分で勝ち取りに来たら?」

 ま、構ってやる保証はしねえけど。そう最後に付け足されたけれど、絶対嘘だとわかってしまう。それは私がネズさんのファンで、彼の言葉や思想を知ろうとして結果であり、何よりも今日こんなにも近くで彼に触れてしまったせいであった。

「明日何が起こったか、おれに報告しなよ。本当に世界が終わるか、確かめよう」

 今度こそ夢のような時間は期限切れを迎え、ネズさんと私は引き離されたのだった。




 昨晩のシャワーは普通に浴びた。対価の払えない幸せを削ぎ落とそうと、自分の体を赤くなるまで擦ることはしなかった。
 本当に世界が終わるか、確かめよう。あのネズさんの言葉が私の中でリフレインを起こして、酩酊状態が途切れない。そんな気分の中では世界が終わるのはそんなに困るようなことじゃないと思えたからだ。

 朝起きて、顔を洗うと私はあのリップクリームを塗ってみた。ネズさんがアイシャドウは似合わないからとくれた、新品のリップクリームだ。鏡を覗き込み唇の様子を確認すると、確かにあまり見たことのない、血色を隠してしまう色合いだった。顔の印象が確かにネズさん寄りになり、昨日の優しかった、優しすぎたネズさんを思い起こさせた。
 やっぱり昨日の幸せを思えば、反動で私の世界は終わっているかもしれない。でも、別に良い。カーテンを引いた窓から粉々な町が見えても、太陽が失われていても気にならない。世界の秩序より、私の意識を吸いこんで行くのはネズさんだ。

 ネズさんは、あんなに優しくて大丈夫なんだろうか。そしてなんて繊細な人なんだろうか。誰も気に留めないような凡人の音まで聞き取って、ただのじゃがいもみたいなファンとして処理できなくなったネズさんが、かわいそうでならない。でもそれが私が憧れたネズさんだった。

 構われる保証はもちろんない。それでも私は確かに貴方にまた励まされましたよと伝えるつもりで、短かなメッセージを打った。

『昨日はありがとうございました。世界は、全然終わりませんでした』

 スマホの画面を落とし、私は今更カーテンに手をかけた。外から漏れ聞こえてくる騒音で、どうせ世界はいつも通りなことはわかっていた。やはり窓の外の景色は普段となにも変わっていない。行き交う人も、木々の青さも。思わず笑う。唇の上に乗っているしっとりとした、わずかな感触だけが朝に違和感を与えている。
 ほんの数秒後だった。テーブルに寝かせていたスマホが飛び上がる。

『通話かけてきなっておれ言いましたよね? メールでちまちまダラダラやりとりするの、ノイジーで嫌いなんです』

 昨日の今日でそんな不機嫌なネズさんの声が聞けると思わなかった。私はまたすぐ自分の幸福、それから払えない代償に震えたのだった。



(words by 甘い朝に沈む/告白はサブタイトルにて)
企画 甘く囁かれるリリックにずっと溺れていたい。様に提出いたしました。ありがとうございました。