スパイクタウンのシャッターから数メートル外へ出て、9ばんどうろ。草むらから万が一ダダリンが突撃してきても、全速力を出せばどうにか逃げ切れる距離に私は立つ。キルクスの入り江から吹いていくる風は冷たい。身動き少なく、ずっと立ち尽くしているのは辛い。けれど、なんてことない。寒さも指先の痛さも、全て最後には吹き飛ばされるって分かっているからだ。
 今日は特に冷える日のようだ。上空も押し黙った灰色で、きっとこのまま真夜中になれば雪が降り出すだろう。川から立ち上げた靄が私の視界にかかる。それでも絶対、あの人は現れるからと指先を擦って私は耐えた。
 そして恋い焦がれてたシルエットが世界に滲み出して、私は走り出した。

「ネズさん、おかえりなさい!」

 待ち人来たり。灰色の世界に溶け込みそうなネズさんの白と、彼を縫い止めてくれる黒のコントラストに、私は全身がじんと痺れたようになる。
 私が待っていたことにもう慣れてくれたネズさんは、ただいまの挨拶もくれず、額に手をやっている。

「シュートスタジアムでのリーグ、お疲れ様でした! 今回も勝ちましたね!」
「第二回戦までは、ですけどね。……やっぱり待つなら、ポケモンセンターにしてくれませんか?」
「えっ、私のこと心配してくれるんですか!?」

 はぁ、というため息と共に、額に当てられていた手がだらりと下がる。隠されていたネズさんの眉根は複雑に寄っていて、険しい表情が露わになった。
 けれど残念なことに私はネズさんに呆れられるのは慣れっこなのだ。むしろ前はもっと迷惑そうにされたものだ。でもめげずに身勝手なお迎えを繰り返した結果、ネズさんも諦めてくれたらしく、もう”待つな”とは言われなくなった。全人類刮目せよ、そしてひれ伏して欲しい。これがネズさんの貴重なデレポイントなのである。へへへ、と顔を緩ませているとネズさんが冷たい目で言う。

「鼻水、垂れてますよ」
「えっ。ズッ、ずみまぜん」
「きたねえ……」
「えへへ、今日は一段と寒くて」

 慌てて鼻から垂れてるものを吸い込もうとするも、やっぱり後から後からたらりと出てくる。私は慌ててティッシュを取り出して鼻をかむ。冷え切った鼻の頭にはティッシュのざらざらすら痛くて、涙が出そうだ。でも、辛くはない。ネズさんの言葉、ひとつひとつが嬉しいからだ。

「心配してくれてありがとうございます! でもここまで出て来た距離の分、ネズさんに早く会えたから、私は平気です!」
「………」
「あとですね、ネズさん!」
「……、はい」

 ネズさんがスパイクタウンを出て行ったら、帰ってくる日にシャッターの外まで出て彼を待つこと。それは私が欠かさず続けて来たライフワークみたいなもの。どんなに寒くてもネズさんを待って、彼が私を呆れるのはお決まりの流れ。そしてここからも、毎度のお決まりだ。

「私とこのデザートビュッフェ、行きませんか!?」

 赤くなった指で、ずっと隠し持ってたチケットを私は突き出した。チケットに印刷された美味しそうなケーキたちがネズさんの目に入るように。必死の形相でネズさんの表情を伺うも、ネズさんは顔色ひとつ変えない。しかしここでへこたれる私ではない。

「有名ホテルのデザートビュッフェです、最高に美味しいに決まってます! しかもこのカップル優待券を持っていくと、なんとォ!! この限定エレズンぬいぐるみペアセットが!!」
「行きません」
「この可愛い限定エレズンぬいぐるみがペアセット……」

 チケットの端っこに載っている、ぬいぐるみの写真をネズさんにもよく見えるよう角度を調整してみたものの、やはりネズさんの顔色は変わらない。今回も、結果は変わらないのだろうか。

「だめ、ですか……?」

 諦めが悪い私に、ネズさんは呆れてるのを隠さないで肩をすくめている。なんとなく結果はわかっているけど、念のため。私は返事を伺う。

「おまえ……」
「は、はい」
「セールストークが随分上手くなりましたね」
「え!! それって!!」
「行くとは言ってねえ」
「じゃあ意味ないじゃないですかー!? 販売実績ゼロのセールストークなんて、上手いって言わないですよ!」
「それもそうだ」

 今日も鉄壁のブロックを受けてしまった。お誘いを断られたことはもちろん悲しい。だけど、全力でぬか喜びした、惨めでバカな私を見て、ネズさんがフ、と息を漏らす。惚れ惚れする凶悪な微笑を浮かべてくれたその瞬間、自分のかいた恥なんて記憶する必要がなくなってしまった。
 全人類、好きなだけ高みの見物をするがよい、そして大いに笑え。これが惚れたら負け、というやつなのだ。







 その後、やっぱり体を冷やしすぎたせいか、拭いても拭いても鼻がズビズビ言ってしまう私を、ネズさんは見かねてポケモンセンター併設のカフェへと誘ってくれた。エネココアでも一杯飲んで、体を温めてから帰りましょう、というわけだ。
 お代はネズさんが持ってくれた。女性への気遣い、というよりは多分年上としての行動だ。ネズさんは昔からそうだった。
 外の寒さに呼応するように、今日のポケモンセンターもやけに静かだ。カウンターに二人並んでカップからの湯気を浴びていると、ネズさんがじっと私の方を見てくる。
「な、なんですか?」
「でっかくなったなぁ、と」
「えっ私まだ巨乳は名乗れない自覚があるんですけど許されますか……!」
「身長の話ですよ」
「アッ、スミマセン……」
「昔はただのマリィのいい友達と思ってたんですけどね」

 そう。ネズさんは元々、私にとっては”友達のお兄さん”だった。マリィちゃんに優しい、年上のお兄さんだ。二人で遊んでいると、ネズさんが必ずマリィちゃんを迎えに来た。手を繋いだり、おんぶされて帰るマリィちゃんが羨ましいな、と思ったそれが私に埋められた初恋の種だった。あんまり笑わないけどポケモンといるとふと素顔を見せる。そんなお兄さんを、私はいつの間にか好きになってしまった。時に親友にまで嫉妬しかけたこの初恋は、破られそうになりながらも首の皮一枚でつながり続け、今日に至るまでの時間を入念に吸い込んでしまった。結果、見事に拗れて救い用のない片思いになった、というわけである。
 エネココアの甘さと、切ない記憶。両方でほろろと泣きそうになっていると、隣でバイブ音が鳴る。ネズさんのスマホに連絡が入ったらしい。バイブ音の長さ的に、通話のようだ。

「すみません、ちょっと」
「どうぞどうぞ」

 一言断りを入れて、ネズさんが席から立つ。通話に出たネズさんの「はい」という言葉が少しだるそうなあたり、多分ポケモントレーナーとしての仕事の話のようだ。
 離れていったネズさんの背中。ネズさんが私を見なくなったことを確かめてから、私はずっと堪えていたため息を吐いた。

「はーあ」

 さっき、ネズさんに差し出したもののバッサリ断られてしまったカップル優待券を眺め、うなだれる。
 今日もだめだった。やっぱり今よりもさらにちんちくりんな頃を知ってるから、今更恋愛対象に入らないんだろうか。本気になるわけないと思われてたらさらに泣けるなぁ。

「行きたかったなぁ……」

 今まで断れれてきた様々なデートプラン、もちろん全てネズさんと行けたら最高だろうな、と思っていた。だけど今回のはいつも以上に、ネズさんと行きたかったお店だった。スイーツビュッフェ、それに限定のエレズンぬいぐるみがやっぱり可愛くてたまらない。甘いものをネズさんと一緒にいっぱい食べて、その記念に可愛いぬいぐるみを持ち帰れたら最高の思い出になったのに。
 けれど、ダメ元でしかけた誘いでもあった。なにせネズさんは一度も私とデートをしてくれたことがないのだ。何度もスパイクタウンからはみ出した場所で彼を待って、その度にすてみタックルでデートの申し込みをしているものの、それら全てネズさんにばっさりブロッキングされている。あまりに容赦なく断られるので、攻撃の手も、やる気も弱く小さくなりそうだけれど、それでもやっぱりネズさんが好きで、諦めきれずにいるのが私だ。

 未練は大いにある。だけどあんなにハッキリ断られてしまったのだから仕方がない。落ち込んでじめじめしてたらただでさえ低いネズさんの好感度が下がってしまう。ため息もネズさんがいない間だけにとどめて、気分は切り替えよう。よし。
 気分の方は気合い次第でなんとなかなる。でももう一つ片付けたい問題があった。私の手の中のチケットだ。この優待券、どうしよう。誰に譲れば、有効活用してもらえるだろうか。
 悩みながらも、ふと私は左隣に意識を吸い取られた。チケットに印刷されたエレズンの写真をつつく指先に刺さる視線を感じたからだ。見れば、隣に座る男性が私の優待チケットに目を奪われてるではないか。しかもその目は興味を宿して光っている、気がしたのだ。

「あの」

 隣から盗み見ていることを気づかれてると思わなかったらしい。私の声に男性はびくりと驚いた。

「もしかして、このデザートビュッフェに興味あったりしますか?」
「あ、いや! 違うんだ!」
「じゃあもしかして、エレズンぬいぐるみの方、とか……?」

 今度は図星だったらしい。男性は両手を振って慌て出したものの、否定する言葉は出てこない。

「可愛いですよね、このエレズンのぬいぐるみ!」
「う、うん。そうだね。ペアで飾っても、二人で行って一体ずつ持ってるのも、いいよね……」
「そうですよね!」

 私は思わずはしゃぎ出す。実を言うと私はデザートビュッフェで甘いものをたらふく食べることよりも、特典のエレズンぬいぐるみの方に心惹かれていたのだ。ペアのぬいぐるみを恋人同士で持ち帰るときめきを、ネズさんは絶対わかってくれないだろう。けど、好意的な男性は存在するのだ。多分珍しいタイプなのだろうけど、それがわかって私は一気に嬉しくなってしまったのだ。
 喜びの勢いに乗って、私は隣の見ず知らずの男性に、チケットを差し出した。

「あの、良かったら行きませんか?」
「ええっ?」
「本当は他の人を誘ってたんですけど、見事に断られちゃいまして。だから他の誰かに、って思ってたんです。あなたがこのエレズンの可愛さをわかってくれて私嬉しかったので、もし行けそうだったら」

 その続きは言えなかった。私の名前を呼ぶ、ネズさんの声がしたからだ。それは普段通りの声色に思えたのに、ぎくりと体が固まってしまったのはなぜだろう。やや考えて、私は理由に思い当たった。ネズさんが私の言葉を遮るように呼びつけたからだ。
 声だけじゃない。ネズさんは私が向く反対の席に座っていたはず。なのに、なぜか男性との間に体を差し込んで、チケットを差し出す手も遮られてしまった。

「待たせてすみませんでした。もう良い時間ですから帰りますよ」
「え、あ、そうですね。でもこれ……」

 私は手の中で宙ぶらりんになったチケットと、ネズさんの向こう側で慌ててる男性を交互に見た。せっかくのお得なチケット、良かったらもらって欲しいんだけどな。私はネズさん以外と行く気になれないし。だけど結局、彼にチケットを手渡すことは叶わなかった。なぜか男性は慌てた様子で立ち上がって、挨拶もそこそこにポケモンセンターを出てしまったのだ。飲み物も、半分以上残ってる、もったいない。残念な気持ちで彼を見送ろうとすると、それさえもネズさんの体が壁となって立ちふさがる。

「あの、ネズさん……?」
「なんです?」

 どうしたんですか、なんでこっちを見ろとばかりに睨むんですか。そう聞きたいのに、聞かせてくれない迫力をネズさんは静かにまとって、やはりまっすぐに私を見据えてくる。視線に射止められて、私はぴくりとも動けない中、ネズさんは這い寄るような声を喉奥から響かせた。

「おれは嫉妬なんてしないから。無駄なことはしてんじゃねえですよ」
「……え?」
「帰りますよ」
「っあ、待ってください!」

 ネズさんがどうしてだか怒っているように見える。なぜそこまで顔をしかめてる理由のか、私は何もわからずにいるのに、ネズさんは一人立ち上がって先に行ってしまう。「はやく」と私を追い立てる声も忍び寄る低い振動を持っていた。
 嫉妬させたいなんてと考えたこと、一度も無いのに。だってしてくれるわけないと思ってるから。
 さっき様々なものを遮ってはじき返したネズさん。ポケモンセンターの自動ドア前に立つ彼はやっぱり青白い顔で私を見据えて、スパイクタウンの路地にまで吹き込んだ、今夜のふぶきを背にしていた。



(企画 甘く囁かれるリリックにずっと溺れていたい。様に提出いたしました。ありがとうございました。)