はじまった時は何でも楽しかった。バッチ7個という、だめだめでもないが自慢もしづらい成績しか残せなかったジムチャレンジも、旅立った時は胸が高鳴った。
キバナへの恋を自覚し始めた時だって。今まで見ないふりしていた感情に振り回されて、でも純粋に彼を応援できていたなと、今は思う。
カフェの座席に収まりきっていない長い足。今は他にお客様がいないからこんな大胆なことができたんだろう。私は早足で近づいて、スマホロトムとキバナの間にメニューを差し込んだ。
「こら! 自撮り禁止!」
「あぁ?」
振り返ったキバナの口から覗く犬歯。そんな表情もサマになっていて、こういうのがスター性なんだろうなとつくづく思う。
「撮るだけならいいだろ」
「それでこの前撮ったらそのスマホロトムがほぼ自動でアップロードしたでしょうが」
「なんだよ。よくできてるのになぁ」
カップの中で、エスプレッソとミルクの泡で描かれたワンパチをもったいなさそうに覗き込む。その表情は気が抜けていて、私の知るキバナらしい。旅だった時はもうちょっと普通の男の子だったのになぁと思えば、ため息が出た。
「え、それ練習だよ。写真撮りたくなるできだったならよかったけど」
「なんだよ、こっちはちゃんとお金払ってるのによぉ」
「いいでしょ、キバナ相手なら。でも拡散禁止ね」
一回キバナがこのカフェにいた時、流れるような動作で自撮りをされ、流れるようにSNSに載せられたことがあった。
自分には決して真似できないなぁと感心してつい見逃してしまったが、そのあとがひどかった。
キバナに熱い視線を向ける可愛らしいファンたちが押し寄せ、「キバナさんどこに座りましたか?」「キバナさん何飲んでましたか?」「キバナさんが載せてたこのラテが飲みたいんですけど」「キバナさんの」「キバナさんが」「キバナさんは」……。正直言って辟易した。爆発的にお客さんも増えたけれど、利益倍増の喜びより無駄に疲れたという気持ちの方が強かった。店長も売り上げを喜ぶと思いきや「あれは……、参ったな……」としみじみ言われてしまい、それ以来キバナには投稿禁止を言い渡している。
「の力作をオレさまが世に知らしめてやったのに」
「あんな爆発的なのはこっちも対応しきれない、無理だよ。地道にお客さんが増えるのが一番だって痛感したわ……」
それにあの時の賑わいは、キバナの人気にあやかったものだった。私のラテアートが本当に評価されたわけではないのだ。
あ、またため息が出てしまう。
「。やるよ。今日はこれを渡しに来たんだ」
「ん?」
「今度の開会式のチケット」
「開会式の!? うわぁ高そう……」
目の前に差し出された、キバナの指に挟まれている一枚のチケット。これを望む人がどれだけいることか。
通常のジムリーダーが出る試合も毎回チケットは高額にも関わらず売り切れ必須。開会式とくれば委員長のローズさんが取り仕切り、ジムリーダーたちが集結し、チャンピオン・ダンデの出るエキシビションマッチまである。
もちろんキバナも重要な出席者だから開会式のチケットくらいなら簡単に手に入れることもできるんだろう。けど、こんなカフェの片隅で簡単に差し出されていいものじゃない。
すごく貴重なものだとわかっている。私のような一般市民にはレアすぎる一枚だ。だけど、すぐ飛びつくことはできない。
私、はスタジアムが苦手なのだ。
昔は、好きだった。興奮と情熱渦巻くポケモンバトルを生で見るのは、人生で一番楽しいことだと思っていた頃もあった。だけど私はいつからか、スタジアムに行けば行くほど、苦しくなって行った。
全ての試合がそうさせたわけじゃない。キバナを応援しようとスタジアムに通ううちに、彼を応援する人の多さに圧倒されるようになった。
キバナが勝ち進むごとに彼のファンは増え、彼はスターになっていく。どんなに胸に隠した想いが膨らんでも、私の気持ちは大多数の中のひとつでしかなかった。大歓声の中はさらにちっぽけに感じられた。
スタジアムの帰り道、楽しかったという気持ちより苦しさが勝って泣き出してしまった。あの日が私の限界だった。あってもなくても変わらない砂つぶのような私を強く感じてしまうから、キバナの応援は中継越しにすることに落ち着いた。
そんなこんなで私はいつの間にかスタジアムの歓声が苦手になった。それもこの目の前の男のせいなのだけど、キバナはそんなことも知らないで一向に受け取らない私にイライラし始めている。
はぁ、とまたため息を吐く。いつもならもっと行きたい人に渡してあげて、と断るところだ。でも開会式なら応援もキバナ一色じゃないはずだ。いろんなトレーナーのファンが駆けつけているだろう。それに、キバナもしつこいし。
「じゃあ、たまには行こうかな、予定もないし」
ずっと断り続けて、申し訳なさも覚えていたところだからと、自分にしては珍しくチケットを受け取ろうとした。だけどその手を掴まれる。
ゆらりとキバナが立ち上がる。ぐんと伸びた背丈。私とは頭一つ以上の身長差があって近くから見下ろされるとそれなりの圧がある。
「……やっぱり。ダンデが出ると来るんだな」
剣呑さを漂わせてキバナが放った言葉は耳を疑うものだった。
「はぁ!? いやいやいや、言いがかりだと思うけど……」
「いや。オレがジムチャレンジャーと戦う時は興味示さないくせに今回はあっさり行くのは、ダンデが出るからだろ!」
「違う違う!」
手をぶんぶん振って否定するもキバナに納得した様子はない。本当に、キバナが来い来いってしつこいし、たまには行こうかと思っただけなのに。ダンデは関係ないのにキバナは不貞腐れた顔でこちらを見下ろしてくる。
「じゃあなんでいつもは来ないんだよ」
「別に深い理由はないって。人多いところ苦手なんだよ」
「昔はよく来てた」
「あの頃は平気だったけど今は無理なだけだってば!」
いやあるけどね。深くはないかもしれないけど、キバナには絶対に言えないような理由が。
しかしダンデにライバル意識を燃やしてるのはキバナ自身じゃないか。私は関係ない。これはとんだとばっちりだ。
「じゃあオレが勝つ試合も観に来い」
そう言ってキバナはもう一枚のチケットを取り出した。こっちは何度か見たことのある絵柄。きっと次のジムチャレンジャー戦なのだろう。
ああ。そういう言い方をされると弱い。
「……弱気なんて、らしくないよ。こっちも。キバナの勝つ試合でしょ」
キバナの手から開会式のチケットだけを引き抜く。ダンデが強すぎるトレーナーなのは知っている。けれど、私はキバナだって最高のトレーナーだと思っている。
言外の応援を、キバナはちゃんと気づいてくれたらしい。
「ああ!」
不適で自信満々の笑み。キバナはそうでなくちゃ。彼が元気を取り戻してくれてよかったなぁと思いながらも、私は自分の手の中を見てまたため息をついてしまった。
開会式のチケット。たった一枚の紙が重苦しい。
だけど行こう。行って確かめよう。スタジアムに行かなくなって、早数年。きっとキバナへの気持ちだって、笑い飛ばせるものになってるはず。自分の恋がもう解けて石ころみたいになったことを確かめに。
「やっぱりダンデが来るから受け取ったんじゃないのか?」としつこく訝しがるキバナも笑い飛ばして、私は過去の恋から一歩踏み出すことを決めたのだ。
(こんな関係性ですってお話なのでスタジアム行った話は書かないかもしれないですすみません)