店先に紺にオレンジの入った靴……、つまりキバナの靴のつま先が見えると、私はテイクアウト用カップの準備をする。働き始めの頃はそんなことはできず、毎回キバナの注文を聞いていたけれど、この時間に来るならだいたいコーヒーを持ち帰りだ。
手早く用意をしていると受け取りカウンターから顔を出して聞かれる。キバナの身長だとコーヒーマシンの上からこちらが覗けてしまうのだ。
「お疲れさん」
「キバナこそ」
「でも明日は休みだな」
「あー、いつもなら休みだったんだけどね」
キバナは常連ゆえに、だいたい私の出勤日を把握している。私もこのお店で働いて数年経っているので、出勤日もほとんど固定されている。だからキバナにはすぐ覚えられてしまった。
「違うのか?」
「実はエンジンシティでヘルプを頼まれてるから、朝から行かなきゃなんだよね」
私の務めているカフェはいわゆるチェーン店だ。大きな都市のほとんどに出店している。
スタジアムでジムリーダー戦が行われる時は、その街にたくさんの人が集まるため、お店同士で人材をヘルプし合うのはよくあることだった。
スタジアムが開場する日は私たちにとって稼ぎ時。ナックルシティのカフェ務めでありながら、ナックルジムでのジム戦にまったく興味を示さない私は、このお店にとってはすごくありがたいんだよ、といつか店長が言っていた。
私がナックルスタジアムに行かないのは、コーヒーを受け取った目の前の男にまつわる、情けないようなことが理由なのだけれど、このお店ではそれはいい方向に働いているようだった。
「……、あ!」
コーヒーカップで手から離れて、そして明日の予定を言っていしまってから気がついた。その日はキバナとカフェ勉強会をする日だったことを。
「ごめん、もう返事しちゃっ……た……」
恐ろしいことにキバナは晴れやかに笑んでいる。今、絶対に私に何か言いたいのに怒りや不機嫌さを露わにしてくれない。ということは、これは絶対別の出来事になって跳ね返って来る。今までのキバナのパターンからしてもそうに違いない。
細めた目から放つ視線を最後まで私に刺して、キバナは帰っていった。
手の中にじっとりと汗をかく。これは何かめんどくさい事が起こる。そんな予感、嫌な確信が私の背筋をぞわと走ったのだった。
案の定、キバナは翌日、私の家の前に現れた。
「本当に行くのか」
「ごめん、ごめんってば」
「………」
「本当にごめん。でも行かなきゃ、仕事だから」
「それくらいはオレもわかってる。他に迷惑をかけるようなことはしない」
「そ、そう……?」
キバナの言葉に少しほっとして、歩き出す。そしてすぐ、私はキバナが他に迷惑をかけるようなことはしないと言った意味を理解した。私のぴったり横をキバナが付いて来るのだ。
そうきたかという言葉をごくりと飲み込む。また手の中に変な汗をかく。約束を忘れ、破ってしまったのは私なのと、昨日のキバナの表情を思い出すと、下手に言い返せない。私の3歩はキバナの2歩。振り切ることも無理だった。
どこまでついて来るつもりだろうと思ったら、まさかのまさか、エンジンシティへ飛ぶアーマーガアタクシーに同乗してくるという事態に陥っている。
「せ、せま……」
そう、問題は、車内で不機嫌なキバナと二人になってしまうという気まずさではなかった。アーマーガアタクシーの車内は、大人二人には少し、いやかなり手狭だった。
大きいタイプの車両もあったのだろうけど、もちろん一人でエンジンシティ向かうつもりだったのでその点は何も考えずに乗り込んだら、キバナがあとから私を追い詰めるように乗ってきたのだ。
「本気なの!?」なんて言いつつ戸惑っているうちに余裕のない座席に二人分のお尻がおさまると、キバナがドアが閉めてしまった。アーマーガアも条件反射で羽ばたいてしまったので、今はもうワイルドエリアの上だ。
私がどんなにちっちゃく手足をたたんでも、キバナの手足が短くなるわけではない。横を見ると、頭がぶつかるのか頭を垂らすように下を見ていて、思わず同情した。
「ごめん、辛いのはキバナの方だよね」
私はキバナに圧迫されているだけ。けれどキバナは車両全体から圧迫されているので、きっとキバナの方が辛いのだろう。
「……。久しぶりに乗ったなぁ、これ」
昨日コーヒーを手渡してからようやく、ようやく返事をしてくれたので、こっそりと安堵のため息を吐く。
「私も大人二人で乗ったのは初めて。ギリギリだね」
「………」
「悪気なかった。ごめん」
「知ってる。だから腹がたつんだろうが」
「ええ……?」
「あーあ、オレさまかわいそうだ。まぁオマエにとってはただの勉強だもんな」
「そんなこと、ないけど……」
でも、そんなこと、ある。
確かに私の予定としてキバナとカフェへ出かけるのは勉強でしかない。でもそれ以上の意味を持ってしまっても、困る、気がする。むしろただの勉強じゃなかったらどうなるのとキバナに聞いて見たい。
押し黙った私へ、キバナから視線が刺さるのが感じられた。
「……やめだ、やめ! 悪いが、ここで降ろしてくれ。大丈夫だから」
キバナが前の席の運転手にいうと、戸惑いつつもアーマーガアに指示が出て、ゆっくりと地に落としてくれる。
ドアが開いて、外の冷たい空気が車内になだれ込むと、私の右側に張り付いていた熱が離れていった。と、思ったら手を引かれて、私も降車させられた。
ワイルドエリアの中途半端な場所に私とキバナは降り立ってしまった。普通ならこんなことはありえないのだろうけど、運転手も同乗したのがジムリーダーのキバナと知っていたのだろう。
確かにキバナがいれば、たとえワイルドエリアでもポケモン関係のトラブルに巻き込まれることはない。その点は私も安心だ。
「乗せてやろう、オレさまのフライゴンに」
そう言ってキバナはモンスターボールを取り出した。
彼とフライゴンの手を煩わせるのは気がひけるけれど、遅刻しないでエンジンシティにたどり着きたい。また別のアーマーガアタクシーを呼ぶこともできる。けれど、狭い車内で手足を折りたたんだキバナを思うと、その気にはなれなかった。
「二人乗りでフライゴンは大丈夫なの?」
「任せろ。フライゴンも立派なドラゴンタイプのポケモンだ」
「わかった。じゃあ……、お願いします」
フライゴンに二人で乗るということは想像して、覚悟していたけれど、やっぱり私が前に座ってキバナが後ろに座るかたちになった。
そっちの方が私が落ちにくいので助かりはするのだけれど、やっぱり緊張はしてしまう。キバナが辛そうではあったけれど、私としてはやっぱり狭くてもアーマーガアタクシーの方が良かった。さっきも近かったけれど、触れ合っているのは体の片方だけだった。背中全部と、体の側面では、全然触れる面積が違う。
フライゴンが飛び立つと上空は少し寒くて、どんどん体温が上がってしまう体にはちょうど良かった。
朝方の空の中はさらに遠くまで澄んでいて、文句なしの絶景だ。
狭い車内からの解放感。他の誰もいない空という環境。目の前に広がる美しい景色に自分の気持ち、そしてキバナの機嫌も凪いで行くのがわかった。同時に、なんとなくだけどキバナと仲直りできそうな予感が、していた。
ぽつりと、キバナが言った。
「……オレは今日の過ごし方を決めていたんだよ。それをあんまり狂わせるな」
「予定を変えたくなかった、ってこと?」
「諦めるのが嫌だっただけだ」
「そ、そう……?」
キバナの予定を狂わせて閉まったのは悪かったと思っている。けれど彼から私が奪ってしまった時間がフリーに戻るのだからいいと思っていた。キバナにとって違うらしい。
「決めた予定は、大事にしたいってことだよね。わかった」
「………。そういうことにしておいてやろう」
重い重いため息が降りかかってきた、と思ったらわたしの頭の上に顎を乗せられる。
「あと。コーヒーの用意、オレのはもっとゆっくりやれ。あれも……、調子が狂うんだよ」
「え? そうなの……?」
持ち帰りのコーヒーを早く用意できるようになったのは、私の成長の証だった。キバナは忙しいのだから、ちょっとの待ち時間でも短縮してあげたかったのだ。けれどキバナにとっては不要なサービスだったらしい。
「よくわからないけど、キバナがその方が良いっていうなら、そうするよ」
わざとゆっくり、彼の持ち帰るコーヒーを用意する。それはまた別の難しさがある。コーヒーはすでに毎回、丁寧に入れている。カップも綺麗な状態で渡している。時間を引き延ばすのなら少し喋ったりして誤魔化してもいいのかな、なんて考えているとフライゴンの翼はエンジンシティにたどり着いた。
最後まで優しく降ろしてもらって、私はキバナにお礼を言う。おかしい、最初は私はエンジンシティに一人で行くつもりで、キバナからの仕返しでこうなっているのに。でも、フライゴンの背に乗ってそらをとぶことは、とても気持ちのいい時間だった。
あと、キバナと思ったより密着してしまった。これは気持ちのいいなんて言葉で簡単に片付けられるものじゃなかったけれど、ひとつ言うなら、背中側がずっと熱かった。
でも、何よりも良かったのは、キバナに優しい笑顔が戻っていることだ。刺すような視線も、晴れやかすぎて疑わしい笑顔ももう無い。エンジンシティまでの道のりの中で、一応彼の気は済んだらしい。
これで安心してエンジンシティでのヘルプに臨める。そう胸をなでおろした瞬間にキバナが「仕事終わりも迎えに来るからな」という一言を放ったので、私は夜まで緊張することが決まってしまったのだった。