想定通りにはいかない


 イメージトレーニングなら何度もしてきた。
 自分に都合のいいような妄想や、寝不足から来るネガティブな想像の類じゃなくて、いつか絶対あることとして何度も思い描いていた。
 頭の中で思い描いて、何度も自分から傷ついた。その方が、ある日無防備に傷つくよりずっと良いと思えたから。だから私はイメージトレーニングを繰り返したのだ。



「あのっ」

 レジカウンターを離れ、店内清掃をしていた私を呼び止めたのは可愛らしい声だった。可愛らしいと感じたのは、女の子らしい元の声の性質もあった。けれど、何よりも声に宿る上擦った緊張の感情が、同性の私さえもどきりどさせた。
 振り返るとその声にふさわしい、可愛らしいが苦しげな表情の女性が目を潤ませている。

 声には出なかったものの、あっ、と思った。
 彼女が着る服の色使いが、紺にオレンジで、察してしまった。この人、キバナのファンだ。私と同じ、キバナが好きな人。
 案の定、二言目には彼の名前が出た。

「あの、キバナさんって、いつも何時くらいにお店に来るんですか」

 き、きた。ついに来てしまった。この問い合わせが。
 ごくりと唾を飲む。思わず手に持っていた、テーブル用布巾に力を込めてしまった。

 このお店の店員としてキバナについて聞かれる日は、いつか来るだろうと思っていた。
 キバナはほとんど毎日このお店に来ている。テイクアウトすることが多いから、滞在時間は基本的に短い。店内で居座るのは閉店間際や、私もカウンターを離れて相手をできるくらい空いている時くらいだ。
 けれど来店回数は多い。私の出勤日には必ず見るのだから、ほぼ毎日来ているのと言っていいだろう。なのでいつかファンの誰かが気づく時がくると思っていた。

 やっぱりこうなった。キバナにはあまり頻繁に来ると待ち伏せされるよとは言ったのに。
 内心冷や汗をかきながら私は申し訳なさそうに笑顔を作る。
 もしこんな場面に遭遇したら店員として言うことは決めていた。イメトレ通りに、イメトレ通りに。何度も自分に言い聞かせる。

「えっと……申し訳ないのですが、お客様のことはお答えできま」
「私、キバナさんのことが本当に大好きで……!」

 私が何度も練習したフレーズを遮り、それから彼女は大きな瞳を潤ませ、赤い頬で語った。
 キバナの存在が、どれだけ遠くても眩しくて、自分の人生の中でかけがえのないものであるかを。

 定型通りの断り文句で彼女が引いてくれなかったことは予想外だった。
 でももっと予想外だったのが、見知らぬ彼女の気持ちが私の心を動かしたことだった。 
 思わず棒立ちになって彼女の語りを受け止めてしまったのは、彼女の抱くキバナへの気持ちは、私とそう、変わらないせいだった。

「本当にずっと憧れてやまない人で、トレーナーとしてももちろん尊敬しているんですけど、人間としても知れば知るほど、尊敬というか、いつだって元気や勇気をくれる存在で!」

 わ、わかる……。心の中で思わず同意してしまった。キバナって周りの人を上へ引っ張っていく、持ち上げていくところがあると思っている。本人にそれを伝えたことはないけれど、ジムトレーナーさん達のエリートぶりを見ているとキバナのジムリーダーとしての才能がわかると思っている。

「キバナさんのバトルの動きひとつひとつがもう無理って感じで!」

 どうしよう、めちゃくちゃわかる。
 バトルも見どころだけれど本人の表情なども手伝ってよりバトルに引き込まれるんだよね……。これもキバナに言ったことはない。

「マイナーリーグを駆け上がった頃から落ちてしまって、もうずっとファンで……!」

 それもわかる、わかりすぎてしまう。
 私はジムチャレンジャー時代から見てるけど、マイナーリーグを一瞬で駆け上がった頃のキバナは飛ぶ鳥落とす勢いというやつだった。そして、輝いていた。
 今から思い返すと少年っぽいキバナも今とは違う層に刺さるかっこよさがあった。あの頃のリーグカードがレア物として価値が上がっているのも頷ける。

 どうしよう。店員として冷静に断りを入れようと決めていたのに、私は、気持ちで彼女に負けそうになっている。強く握りしめすぎたテーブル用付近がぽたりと滴を垂らした。

「ご迷惑とはわかっているんですが、キバナさん宛のプレゼントを預かってもらうことってできませんか……?」
「あ、え、あの、その……」
「物が無理なら、手紙だけでも、お願いします!」

 可愛らしくラッピングされたプレゼントを下げて、彼女は白い封筒を私に差し出した。
 そのプレゼントだってキバナに少しでも気持ちを伝えたくて、僅かでも力になりたくて用意したものだろうに、それを諦めてまで差し出された一通の封筒は、紙とは思えないくらい重いものに見えた。

 イメージトレーニングなら何度もしてきた。私が言えるのはここの店員としての言葉だ。
 キバナさんも確かに有名なジムリーダーです。でも彼もこのお店に、ひととき休みにいらっしゃる大事なお客様なのでお店としてお客様の安らぎを奪うようなことはできませんと、店員として伝えればいいのだ。

「キバナ、さんは……」

 慣れない呼び方に喉がひきつった。

 彼女の気持ちを、断らなければ。店員として。
 違う。ここは一人のカフェ店員でいなければならない。店員としてしか私に断る資格はないのだ。だって実際の私は何も持たない、”なんでもない私”なのだから。

 感情が私の手を離れていってしまったのは、一瞬だった。

「あっ」
「あ……」

 驚いた声は彼女のもので、呆然と言葉をこぼしたのが私だった。
 彼女の丸い瞳が私の顔を、そこに伝う涙を凝視している。

「店員さん……」
「す、すみません、あの気にしないでください」

 自分でも混乱の中にいた。まさか泣いてしまうと思ってなかったのだ。なのにぽろぽろと涙腺が言うことを聞いてくれない。思わずテーブル用付近で涙を抑えてしまった。とても消毒液臭い……。

「……さん!」

 どうして私の名前を? と思ったら、制服についているネームタグを見たらしい。彼女は切なげに眉を寄せる。

さんもキバナさんのファンだったんですね……」
「え、え……?」
「私の語りを気持ち悪がらずに聞いてくれたから、わかっちゃいました。っすみませんでした。さんもファンなのに、店員として色々我慢していたところに私、無神経なことを言ってしまって……!」

 全く話についていけていない。訂正の言葉も、確認もできずに喉を詰まらせていると、彼女は「何も言わなくてもわかってる」と言うように首を優しく振ってくれた。

さんがこのお店の店員としてキバナさんに迷惑かけないよう頑張ってるの、同じファンとしてとても立派だと思います。なのに私は……。
 キバナさんはここにリラックスしに来ているのに、それを脅かすのは、キバナさんのためにはよくないことですよね。ファンとして恥ずかしい行動でした。もう、やめます」

 彼女の中で勝手に話が進んでいて、やっぱり全く話についていけない。とりあえず、”やめます”と言ってくれたのは
 私はあわあわと手を振るだけで

さん、大丈夫?」
「店長……」
「ああ、もしかしてキバナさんについてのお問い合わせかな」

 あまりに私がフロアから戻らないせいだろう。店長が様子を見にきてくれた。店長は彼女と私の間に入ると、優しくも毅然と対応をしだす。
 そして落ち着いた声で店長は伝えてくれた。私が本当は言おうと決めていたことを、全て。

「申し訳ありません、お客様。キバナさんは確かに有名なジムリーダーで、大変人気のある方ですし、お客様のお気持ちもお察しします。でもお店にとっては一人の大事なお客様です。彼もこのお店に、ひととき休みにいらっしゃっているかと思いますので、お店としてお客様の安らぎを奪うようなことはできないんです。どうかご理解をお願いいたします」
「はい、すみませんでした……」

 元からトーンダウンしていた彼女は、何度も頭を下げて、手早く荷物を片付け始めた。キバナに贈りたかったであろう差し入れ、手紙もしまいこんで。

さん、ご迷惑おかけしてすみませんでした。一緒に、キバナさんをたくさん応援しましょうね!」

 彼女は申し訳なさそうにしながらも微笑んで私に手を振り、最後まで頭を下げ、退店していった。

「店長、すみませんでした。なんか、いろいろと……」
「休憩、前倒しでとってくる?」
「いえ、大丈夫です。仕事はできます」

 鼻がすん、と鳴るけれど、今はお店の裏で一人になるより仕事をして気を紛らわせたい。そっちの方が、私の中の動揺を遠ざけられる気がした。
 やり残していた清掃を手早く終わらせて、カウンター内に戻ると思わず溜め息が出て、肩が落ちた。

 恥ずかしい、あの一瞬で泣くまで行ってしまった自分が。いつか来ると想像して、こうならないようにってずっと考えて来たのに、無駄な努力だった。

 私は彼女を迷惑なお客様だとは思っていなかった。お店としてはお断りするしかなかったけれど、店内で勝手な行動はしないで、店員にちゃんと確認をとってくれたのだから、マナーを守ってくれていると思えた。
 キバナのことは応援している。いつだってかっこいいと思っている。でも彼女のような殊勝な心がけなんて私にはない。自分が辛いからというエゴでキバナ本人から誘われても、スタジアムにも行かないような人間だ。
 思い出せば出すほど、自分の情けなさが際立つ。
 彼女の方こそ、良いファンだった。

 私は彼女を嫌いでもなんでもない。けれど、こうなってくるとキバナに言わなくてはならないだろう。すぐにではなく、タイミングを見計らって伝えたい。お店に来るのを控えてほしいことを。

 それにしても。

「店長。私、さっきのお客さんにキバナさんファンなんですねって見抜かれたんですけど」
「へえ」
「私、そんなに顔に出やすいんですかね……」
「いつもはそんなことはないかなぁ」
「ですよね……?」
「でもたまに、ね」
「え?」

 その続きを、店長はニヤと笑って結局最後まで教えてくれなかった。




(キバナさん出てこなくてすみません〜!!)