うなじにかかる髪を自分から払いのける。なぜならこれからそこをキバナが触るから。髪があっては邪魔だろうと指先でかき分けて首の後ろをさらした。彼が手を動かしやすいようにと、シャツのボタンもひとつ外すと胸元も緩んだ。けれど体は緊張にこわばっていて、吐く息が震えた。
「お願い、優しく触って……」
これから体に走る刺激を思うと、それだけで涙が出そうだ。
そっと彼の手が持つ熱が私の首筋を撫でたのを感じて、私は目をつぶった。
「あ〜〜〜!! いた、いったい!!」
「触ってるだけだ」
「いや! 嘘! 絶対力入れてる!!」
「ははは」
「笑いながら揺するな! あっあっ、あ゛ーー!!」
反射的に私が体をひねって痛みから逃げようとしても、キバナの手は巧みだった。笑いながら私の肩や首筋をとらえて離してくれない。
ことの始まりは、カウンター越しに顔色の悪さをキバナに見抜かれたことだった。「具合悪いのか?」と見るなり心配されて、私は素直に自分の状態をキバナに伝えた。
『肩こりがすごくって……』
最初はごまかそうと思った。けれど、たかが肩こりだからこそ私もキバナに軽い気持ちで言えたのだ。
昨日深夜まで眠れないからとノートに向き合って、寝不足のせいか朝から体が硬かった。それに季節限定ドリンクに使うフレーバーシロップが瓶入りで入荷したせいもある。搬入作業は本当に体力勝負だ。重い段ボール箱を何箱も積み上げ、レジに立った時には相当疲れを感じていた。
正直、キバナを見上げることすら首に負担がかかっている気がしていた。実際彼から目線を下げると少し楽になる。
『でも、大丈夫!』
嘘じゃなかった。笑顔でそう告げて、彼の心配を振り払ったつもりだった。けれど私が上がる時間に同じく帰り支度をしたキバナが現れて、まだ辛そうにしている私を呆れた目で見下ろした。
ちょっとマッサージしてやると言われて、迷ったものの言葉に甘えた。
確かに肩こりからは逃れたかった。けれど荒療治すぎた。苦しみもがいて、本気の抵抗を見せたところでようやく離してもらった。へなへなと地面に座り込んでしまった。
「優しく触ってって! 言ったのに……! し、しぬかと思った……!!」
死ぬかと思ったは冗談ではなく、本気で視界が潤んでしまった。思わず睨み上げると、手を開いたままキバナが意地悪く笑っている。
「気持ちよかっただろ?」
「すごすぎてだめなやつだったよ……」
凝り固まった血管が一気に動かされるのと、目の前が真っ白になって、意識を奪うくらいのものがあった。キバナの指先の感覚が、悪い意味で体に残っていた。
酷い目にあった。立ち上がることもできない私を見て、キバナはまだ機嫌よく笑っているのを見ると悔しくなる。
「あ……、でもちょっと楽になってきたかも」
「そういう顔してるぜ。顔に血の気が戻ってきたな」
痛みが引いてくると、確かに血の巡りが良くなっていて、指先までじんわりと温まりだしたのを感じる。動かすのも辛かった首がようやく動くようになって、疲労が宙に溶けていくようだ。地べたにへたり込んでいたのが、立ち上がると明らかに体の軽さを感じた。
「おおお……! 効いたよ、キバナ! ありがとう!」
「本当に肩こりだったのかよ。鍛え方が足りてねぇなあ」
「そ、そう? 私はしがない店員だからこんなものじゃない?」
「いや、筋肉が落ちてるな」
昔より下半身に肉がついた自覚があるので思わず口を噤むと、キバナが言及したのは全く予想外の部分だった。
「前は右のほうが太くて、ポケモントレーナーの腕だなと思ってたけど」
「ああ、右手でボールを投げてたから?」
「指示も利き腕でやりがちだから、案外差が出るもんだぜ」
「そんなところよく見てたね……。キバナは?」
「オレさまは調整してるからな。まあわずかに右のほうが太いが」
興味を示せばキバナはすぐパーカーを腕まくりして見せてくれる。彼は見せたがりな一面があるから、この辺のガードはゆるいのだ。
本人の言う通り、利き腕じゃないほうもちゃんと筋肉がついている。やっぱり人目が気になるというか、かっこいい自分をわかっているというか。
思わず自分の腕を見る。青白い肌で、見るからにひ弱そうだ。隣にキバナの腕があると、さらに実感が強まる。まあ旅をやめて日焼けの機会も減った上に、毎日店内で働いているわけだし、当たり前なのだけど。
「少し筋トレでも見てやろうか?」
「そんな、いいよいいよ」
今日、肩こりが重くなってしまったのは悪条件が重なったせいだ。季節商品の瓶入りフレーバーシロップはどうしようもないにしても、寝不足の方はすぐ自分で対処できる。
「今日は暖かくしてちゃんと寝る」
「なんだ。最近寝られてないのか?」
「ちょっと、ね」
理由は明確。あの日からだ。お店についにファンの子が現れて、情けなくも私のイメージトレーニングが惨敗した日。泣いたことなんて彼には絶対に言えないのだけど、以来、キバナがお店に来ると勝手に心苦しくなったりもしていた。
キバナが来るたびに、彼がカウンターの上から私を見下ろすたびに、横から誰かが話しかけてくるんじゃないかと考えてしまう。
一日を過ごすたびに、また人気のある彼と、なんでもない自分を見せつけられる時が近づくような気がして、自分に大丈夫を言い聞かせる。ここ数日の私は、傷つく日を迎える準備ばかりをしていた。
「キバナとこうしている時間は楽しいんだけ、ど……」
キバナのすごすぎるマッサージで、頭は予想以上にふわふわしていたらしい。気づけばそう言い出していて、自分の耳を疑った。まずいと瞬時に思ったけれど、あまりに不自然に言葉を途切れさせてしまった。
「やっぱり、なんでもない」
「なんだよ、言え」
言えって促したのはキバナだから。そんな言い訳は通じるだろうか。
「……、あまりお店に来すぎないで」
キバナがお店を気に入ってくれているのは知っている。そこでコーヒーを買うのが、日常のルーティンに入っているのも知っている。彼にとって必要な日常だとわかっている。
でもこのまま通って、ファンの人たちが来るようになれば、キバナの憩いも消えてなくなってしまう。だから彼のために言うのだ。
「その方がいいよ」
いいや、そうではなく。私にとって、その方がいいのだ。わかっている。勇気が、ないこと。
キバナといると時々あることだ。距離をとるしか方法が無くなることが、今まで何度もあった。
ほんとは楽しくくだらなく、優しくしたりされたりする日々を繰り返していたい。いい距離感でもって、いいことばかりの関係でいたい。キバナにとって害の無い私でいたい。それを自分に言い聞かせては、何重にも自衛してきた。
だけど、今回もそれらたくさんの守りは無残に破かれてしまった。全ては私が醜い心を飼っているせいで、キバナは何も悪くない。けれど、限界が訪れてしまったら、こういう手段しか残らない。彼にお願いするしかなくなるのだ。私から少し遠ざかって、と。
キバナが立ち止まった。私はなんでもなさそうな仮面をかぶって彼を振り返ると、キバナはもう私に背中を向けていた。
「……明日、6時に家の前行く。動きやすい服装で待ってろ」
「は?」
「30分走って30分筋トレ。メニューはオレさまが考えておいてやる。じゃあな」
「え?」
え?
「ほんとに筋トレ!?」
ナックルシティのど真ん中。去って行く背中に驚きをぶつけたのだけど、もう小さく見える大きな背中は振り返らなかった。
(筋トレ編です!)