体を動かしやすい服装と言われたので、シャツにパーカーなんかを合わせて、どうにかそれっぽい服装を揃えた。指定された6時はまだ夜の寒さを残していて、凍えながら玄関から出ると、本当にキバナは私を待っていた。
ニッとキバナが笑う。
「時間通り」
「そ、そっちこそ。時間通りで驚いたよ」
「よーし、やるぞ」
キバナの言うトレーニングは準備運動から入った。関節やふくらはぎを入念に伸ばされ、私の体は温まっていく。けれど反対に背筋が冷えていく。
やばい、これは”マジ”だ。
キバナは本気で私に朝1時間のトレーニングを課そうとしている。
準備運動を終える。多分この後は、昨日のキバナの話から行くと、30分の走り。
「キバナ、本気でやる、んだよね……?」
私はもうスタジアムに立つことのない、ジムチャレンジもしない、一般人だ。カフェ店員というジムリーダーに比べればありふれた職業の人間だ。
何が言いたいかと、30分走ることなんて滅多になくなってしまった。私、走るの自信がないな〜? という視線をキバナに送ってみたのだけれど、それはばっさり切り捨てられる。
「やる」
「え、ええ……」
「ここからナックルシティの端まで行って、着いたら折り返す。30分な」
そう言うとキバナは私の横で並走、ということはなく、自分のペースで走り出す。
すぐに距離が開いてく。一応私のために早朝に時間を合わせて来てくれてるのだ。そのキバナの親切を前にサボるわけにもいかないだろう。仕方なく、私も走り出した。
自分がキバナに勝てるなんて思ってもいなかったけれど、彼の走るスピードには全く追いつけない。背中も見えないとは思わなかった。
追いつけないどころか、体格差に男女差、日々の運動量の違いなんかが重なって、わたしはキバナにあっという間に周回遅れになってしまった。
「お先にー」
「くっ、くやしー!」
周回遅れで後ろにつかれるとなんだか負けん気が出て来て、自分なりにペースを上げてみたりもしたけれどあっけなく抜かされてしまう。
先に走って行ったはずなのに私を追い抜いて行くキバナの姿を揺れる視界で捉える。足が速いとかそれ以上に、一歩の差が大きくて、敵わないなと思った。
30分で思った以上の汗をかきながら、体が冷えないうちにそのまま立ってできる筋トレをいくつか教えられた。
背中を伸ばすのは気持ちいかも? と思ったけれど気持ちいい運動も何回も繰り返すと、身体中がぷるぷるしてくる。
「あー! 無理!」
「はいラスト1セットな」
「無理無理!!!」
終わった頃にはほぼ全身がぷるぷるしていた。
待って。私これからお店に行かなきゃいけないのに。この体力の消耗はやばい。
「これ、明日もやるの……?」
「やる。オレさまの気がすむまで」
「えええ……?」
私に合わせるんじゃなくてキバナの気分に合わせるのか。なんて考えていた私は、自分がなぜこのトレーニングを課されているかの、もうひとつの理由に気づいていなかったのだ。
キバナは本当に次の日も時間通りに現れた。その時間にちゃんと着替えている私も私なのだが。
二日目は筋肉痛で、昨日よりさらに遅いスピードでしか走れないし、筋トレも度々叫びながらこなした。
朝から騒音を立てしまうと周りに迷惑なのはわかっているのだけれど、痛すぎて声が出てしまうのだ。そんな私をいたわることはなくキバナは「もうワンセット」と軽々しく私の肉体をいじめる。キバナはところどころ笑顔を浮かべていたけれど、私はちょっぴり泣いた。
三日目。まだ痛い筋肉痛を引きずって走り出す。筋肉痛だけが辛いが、走っている時の呼吸は少し楽になったように感じる。
筋トレも慣れて来たかも! と油断したところを、セット数を増やされて悲鳴をあげる。キバナは笑ってみている。
四日目。私も考える余裕が出てくる。ずっと抱いていたキバナへの違和感の正体を、息を上げながら探り始める。
キバナが私を時々無視するという気づきが、確信に到達するまで積み重なったのも、四日目だった。
世間話はできる。お店で多少話したり、時間が合えば一緒に帰ったり。そんな今まで通りの出来事もある。だけど不意に、彼は意図的に返事をしない。
「キバナ!」
今だって。また周回差をつけられて追い越して行った背中を呼んでも振り返らないのだ。
「ねえキバナ!」
こんなに大きな声を出しても、彼の足はスピードを上げていく。
無言で遠ざかって行く背中を汗の混じりそうな視界で睨みつける。彼が言わずにぶつけてくるものを見抜きたくて。
五日目。
無視される瞬間は、思ったより辛い。刃が私の胸をえぐるような痛みを知ってしまって、私は朝6時に自分の玄関を出るのが怖くなってしまった。筋肉痛よりも、キバナが私の声を聞かなかったことにする、その痛みの方がずっと強いものだ。瞬間的に私を苦しませて、怯ませている。
六日目が私の限界だった。
朝一で会えたキバナに挨拶をする。準備運動をして走り出すまでは笑顔を繕えていた。けれど例のごとく周回遅れで追い抜かされて行く瞬間、ここ数日の返事をしない背中がフラッシュバックして、私は声を上げていた。
「ねえ、キバナ!」
もちろん彼は自分の速度を崩さない。間違っているかもしれないと思いながら、私はここ数日探していた答えをぶつけた。
彼の行動が私に向けられているのだから、私が何かしてしまったのだろうと、ここ数日の行動を振り返った。あれ、これ、といくつかの出来事が浮かんでは消えた。でも、おそらく、自分でもずっと躊躇していた出来事が一番答えに近いような気がしていた。
「怒ってるんでしょ! お店にあまり来ない方がいいって、言ったこと!」
やはりキバナは返事をくれなかった。だけどゴール地点で待っていた彼はすぐに次に映らず、無言で私を待っていた。私が、喋り出すのを。
やはり私の発言が、キバナは気に食わなかったらしい。
呼吸と脈を整えるのも惜しく、私は必死になって言葉を絞り出す。
「お店に、来ないでって言ったのは、キバナが、心配で言ったことでもあるんだよ。キバナにとってはお節介だったかもしれないけど」
自分の行動で、自分が通う場所の雰囲気が変わってしまったら、キバナも苦しむのではないかと思った。彼に長く憩いの場を提供するのなら、今は我慢するのがいいと進言したまでだった。
「オレさまが決めることだ」
「ああ、そう、そうだね……」
もちろん彼の行動を縛ることなんてできない。だから結局はキバナの勝手だ。彼の引き連れたものが周りにどういう影響を及ぼしたとして、その結果を受けるのも彼だ。
だけど、こっちにはこっちの苦労があるんだけどな。私が被っている迷惑を、キバナも知る由がない。
はあはあと荒い息を飲み込む。自分の居場所を守るために少し距離をとろうとした途端に、これか。 私の行動を封じるように、仕返しが飛んで来た。無視されると苦しいことを知ってしまったから、きっとこの我慢は続く。続ける方が私は楽でいられるらしい。
やっぱり我慢を続けるのは私なのか。そう思ったら少しだけ、初めての感情が思い浮かんだ。
汗をぬぐいながら私は、キバナをちょっとだけ、嫌いになりたいだなんて思ったのだ。