キバナが朝に現れるようになって一週間。最初は筋肉痛に涙が出るほど苦しんでいたというのに、悔しいけれどトレーニングの効果が私の体に出始めていた。
まず、体が軽い。夕方は特に、疲れ方が違って来ている。夜よく眠れるし、寝起きもすっきりと目覚められている。ご飯が美味しい。指先の冷えが気にならない。もちろん前回のような辛い肩こりは、あれ以来起こっていない。
体力に余裕ができてしまったので、いつもなら作業量の多さに先送りにしていたバックヤードの倉庫整理なんかが捗ってしまう。
「あ、さん、ありがとう。綺麗になってるね」
「いえいえ。そろそろやっておかないと上から物が落ちて来そうで。……よし」
種類ごとに分けられ、箱は整列している。すっかり整理のついた棚を見上げて気持ち良さに浸る。お店の裏に戻って来た店長にもありがとうを言われ、私は非常に満足だ。
でも一息つくとまた、キバナに対して苛立ちが蘇って来る。
キバナの我の強さは元からだ。時と場合によって性格の激しさを覗かせることも慣れている。それがジムリーダーとしての強さにも繋がっていることもわかっているので、受け入れて友人を続けて来た。
けれど今回ばかりは、もう少し私の話を受け入れてくれても良かったのではないだろうか。こっちはこっちで負担を感じているのにキバナは気づきもしない。
このままイライラが続くと、やつあたりでバックヤード全部を掃除できてしまいそうだ。それもいいか。なんて考えていると、私がストレスを感じているのを察してか、店長のペロリームがそっと寄ってきて甘い匂いを出してくれていた。
「ごめんね。ありがとう、ペロリーム」
目線を合わせてペロリームにお礼を言う。頭の上にそっと手を載せると、もっと撫でてと言うように背伸びをしてくる。ああ、ポケモンに気を使われている私は情けない。
でもムカつくものはムカつくのだ。
「店長、キバナを一週間くらい出禁とかって、できませんか?」
「え、さんが何かされて、どうしてもいやだっていうんなら考えるけれど……。何があったんだい?」
何があったかと言われると。ぐるりとあったことを思い出すと色々と滑稽な一週間が思い出される。
「き、筋トレを。一週間つきっきりで見てもらいましたね……」
「それは……、良かったね?」
当たり前だけれど、店長に困惑されてしまった。ほとんどプロにトレーニングを見てもらったようなものだ。感謝するのが普通の反応ではあるのだろう。
「さんが本気の理由を言わないんなら、本心はキバナさんに来て欲しいんじゃないかな?」
「………」
「あ、違うなら違うって、そこははっきり言って。でもさんも、筋トレ教えてもらったって理由じゃ出禁にできないって分かってて言ってるみたいだったから」
店長の言う通りだ。本当にキバナに会いたくなければ私は口にすれば良いのだ。彼ではなく、彼の取り巻く環境に巻き込まれるのが、個人的に嫌なのだと。それによって自らが深く傷ついてしまうのが、嫌だと言えば良い。
このガラルで誰もが親しむスタジアムのバトル観戦もできないくらいに、相容れないものだと訴えた方が、本当にキバナが出禁になるかは別としても、気持ちは店長には伝わる。
冗談交じりで言ったことを、店員からの訴えとして真剣に考えてくれた店長へ、私は頭を下げた。
「すみませんでした、すごく真面目に話を聞いてもらって」
「こっちはいつでも真面目に話を聞くよ」
「はい……」
もうひとつ、店長に言い当てられたことが、胸に刺さっている。
私は、キバナにお店に来て欲しかったのか。それは意識したことのなかった気持ちだった。
キバナがお店に顔を出すのは、決して私が誘ったとかお願いしたというわけではなく、いつの間にか当たり前に訪れて、やがて日常となった光景だった。望まなくても得られた関係だったから、私はそこに自分の意思があったことを店長に言われ、今初めて知ったのだ。
バックヤードでは倉庫整理に怒りをぶつけ、店長に諭される事で収まっていた気持ちは、翌日早朝にまた火がついた。
今朝もきっとキバナは玄関先で私を待っていて、走った後はトレーニングだと思い、私は外に出た。なのに、待っても待ってもキバナが来なかったのだ。
まだ寒い朝の中、トレーニングウェアで動かずにいると体がすぐに冷えた。一度家に戻って、上着を羽織ると私が出勤準備で戻らなくていけなくなるまでまたキバナを待った。けれど結局、彼が現れることもなかった。
本当に「オレさまの気がすむまで」だったのか。確かにそう、言われたけれど、こんないきなり打ち切られるなんて思っていなかった。
一時間以上の待ちぼうけは、ついに私の感情を「何か言わないと気が済まない」レベルまで押し上げた。
キバナはやはりお店に現れた。時間帯もいつも通り、お店が混み始める前。
怒りを抑えているせいでさらに磨きがかかってしまったスマイルで向かい入れると、キバナもへらりといつも通りに笑って、片手で軽く挨拶された。
普段と何も変わらない仕草。それこそ、朝ずっと待っていた私のことなんて、なんて思ってもいないらしい。
カウンター前にたどり着いた彼へ、私は勢いに任せて口を開いた。
「っ、キバナ!」
「ん?」
「あのさ!」
そこまで言って、言葉に詰まった。私には、キバナに言いたいことが、山ほどある。今日に限ったことじゃなくて、昔から。ちょっとずつ積み重なって来たあれやこれが存在している。
お店に来ないでと言ったのは、決して軽口話ではなかった。
私はキバナの事情に多かれ少なかれ、巻き込まれているのだから、少しの思いやりが欲しかった。事情を全て話せないのに要求するのは虫の良すぎる話だとわかっていても、自分を保つための切実な願いだった。
こっちは我慢を続けられるか、不安なのだ。そんな複雑に絡まった想いを私が持っているなんて、あなたは知らないようだけど。
「なんだよ」
「……っ」
剣呑な雰囲気で迫って来るキバナに、この散々な苛立ちをぶつけてしまいたいと思う。だけど私はこの一週間、腹いせ混じりだとしても、彼から優しさを受けとっていた。
トレーニング自体は嘘じゃなかった。辛かったけれど私のレベルに合わせてできることを提案してもらったことは素人でもわかる。たとえ一週間でも結果は出ていて、おかげで私の体調は改善された。
彼の甘い施しを思い出せば、私の判断が狂い始める。
核心に迫ったことはやはり言えなくて、私の頭は、私の立場で彼にぶつけて許される事を結局選びとっていた。
「っもうトレーニングしないならしないって、ちゃんと言って!!」
「……は?」
「私、今朝も待ってたんだから! 急に人を投げ出すな!!」
いつもの服装に着替えて、朝6時の玄関に出た。キバナが遅れる事もあるかもしれないと、そのまま30分も外で待ってしまった。体が冷えてしまったので一度家に戻るも、それ以外はずっとキバナが来るのではないかと思いその場を離れられなかった。
そんな私を知らず、いつも通りお店に現れて、なんとも思っていないように振舞われたのだ。さすがに怒っている……、というようなことを必死に説明していたのに、キバナは許せないことに私から顔を逸らした。
訴えているうちにキバナの視線が泳いだと思ったら、天井の方を向いてしまったのだ。
この身長差ではキバナが上を向くと全く表情が見えない。表情を意図的に隠された。私に顔を見せたくないと言うことだ。しかもちょっと肩が震えている。つまりキバナは、絶対笑っている。そうに決まっている。
「私は怒ってるの! 笑うな!」
「いや、笑ってはいねぇ……」
「じゃあこっち顔むけられるでしょ? ……ほら顔そらす!!」
お腹が空いたモルペコがごとく抗議したが、手のひらを広げて制される。ここでも体格差を出して来るとは卑怯である。
数分後、キバナはようやく顔を下げてくれた。笑いをこらえるのにかなり必死だったらしい、戻って来た表情はちょっと赤みを帯びていた。
咳払いと深呼吸で最後の笑いを振り払うと、キバナは落ち着いた声色で
「悪かった」
と、謝罪した。
キバナが放ったのは十中八九、私を待ちぼうけさせたことへの「悪かった」だ。
でもすとんと胸に落ちて来て、それこそ私はお腹が満たされたモルペコのようにみるみる気分が収まっていって、振り上げていた拳も自然と解けてエプロンの前へと降ろされた。
「……ちゃんと連絡する」
「うん、お願いします……」
反省したように言われ、我ながらちょろいのだけれど、私は納得してしまっていた。この一週間あまりのやってやり返されが、終焉を迎えた瞬間であった。
そのあとキバナの忙しい時期が来たとの連絡が入り、正式に朝のトレーニングはなくなった。
私は朝に走ることまではしなくても、キバナに教えてもらった筋トレをたまに行って、とりあえずひどい肩こりだけは回避している。
あれ以降、キバナの機嫌は直ったらしい。そして私の機嫌もバランスを取り戻しつつあった。
キバナの謝罪ひとつで、不安はなりを潜めた。しばらくはいつもの私でいられそうだという感覚がある。謝罪というよりどんなに小さくとも彼からの心配りを得たことが、想像以上に私を安心させていた。逆にそんな小さなものを求めて自分が暴れていたのだなと思うと自己嫌悪しかないのだけれど、どこか満たされたような気分でいるのも事実だった。
腹ペコになると恐ろしい顔を見せるモルペコを全く笑えない自分の一面が恐ろしい。と同時に、たった一言で私を落ち着けたキバナという存在の恐ろしさを知るような気持ちだ。
また耐えきれない瞬間はやってくるのかもしれない。私はあとどれくらい戦えるのかわからない。だけどとりあえず、今日も良い顔をして私はお店に、キバナの前に立てている。