キバナのパーカーが早々に売り切れたことは、私にとって意外なくらいショックだった。
だって、キバナがSNSに宣伝を載せてたのは今朝だ。まだ一日も経っていない。キバナが好きなひとは買い求めるだろうなとは思っていた、数量限定であることもわかっていたけれど、まさか半日も迷ってる時間が無いだなんて思わなかった。
気分が沈んでいくのを感じ、あえて明るく考える。たとえ迷う時間が一週間伸びたとしても本当に買ったかはわからないじゃないか! 買っても毎日着て出かけたりは恥ずかしくてできなkっただろう。となると部屋着になるのが関の山だけれど、部屋着にするにはお高いパーカーだった。私はしがないカフェ店員で、今ではポケモンバトルの賞金も全くもらうことがないので、パーカー代は私の財布にとってはかなり重い。きっといつまでも買うのをためらっていただろう。
でも、売り切れてしまった今、胸にぽっかり穴が空いた感じというのだろうか。不思議な喪失感が拭えないのだ。
「さん、大丈夫……?」
「あ、大丈夫です。ケーキ補充ですよね、もう解凍してありますよ」
「えっ解凍しちゃったの? いやもうティータイム過ぎちゃったからケーキそんなにいらないよ」
「大丈夫です、大丈夫です」
と言いながら、自分が上の空になっている自覚はあった。
ヒイラギの飾りが刺さったショートケーキをひとつずつディスプレイしながらも、ぐるぐると考えてしまう。
私にあのパーカーを買う勇気はなかった。でも、買えなかった今、もう手に入れることができない触ったりできない。その上、街中で買ったひとを見かけることもあるかもしれないと思うと、自分でも思っても見なかった後悔が背中にのしかかっているのだ。
「そっか……」
そっか、私はキバナのパーカーが自分で思うよりずっと、欲しかったのか。手に入れても仕方がないものなのに。そんなに私の中に育った好奇心が強いとは思わなかった。
こんな気持ちになるくらいだったらお金や使用頻度なんて気にせず買えば良かった。けれどもう気づいた時が遅かった。
引き続き、ぼーっと考えを狼狽させているうちに閉店時間が近づいてくる。自然に動く身に任せて、清掃などを終わらせていると私は気づいた。
「あ……」
さっき無心で解凍してショーケースに入れてしまったケーキが、1ホール分よりさらに多く、しっかりと売れ残っていたのだった。
自分で解凍しすぎてしまった生クリームのケーキは、結局いくつか買い取った。店長は気にしなくて良いと言ってくれてたが、反省の気持ちが抑えられなかったのだ。テイクアウト用のケーキ箱に入れると二つ分にもなってしまった。流石に多いので、キバナに連絡入れる。
「ロトム、キバナにボイスメッセージをお願い」
まだまだ文字を打つのが遅く、すぐに疲れ切ってしまう私にはボイスメッセージはどうかとキバナが教えてくれた。ロトムにお願いして、画面にマイクのマークが出て来たら喋るだけだ。自分の声は恥ずかしいものなのでまだ慣れないけれど、10分前後、メッセージの入力に格闘していた時間がなくなったのはとてもありがたい。
キバナはいつでも電話しても良いと言うけれど、忙しいジムリーダーさま相手に気楽に電話できるはずがないので、ボイスメッセージにとどめておいている。
「えーと、『ミスで買い取ったケーキがいっぱいあるから、少しもらってくれない? キバナが食べなくても、ジムトレーナーさんたちで食べてくれたら嬉しい』。よし、送ってもらえる?」
ロトムは笑うように体を震わせて、あっという間に私のお願いをこなしてくれた。最近このスマホロトムが私自身に慣れてきたように感じる。とにかく操作がおぼつかない主人であること、スマホロトムを壊してしまうんじゃないかと緊張してあまり決まった以外の操作をしたくないという機械音痴なりの願いをも、ロトムは理解してくれているようだ。
キバナのロトムはキバナの呼吸に合わせて、最高のタイミングで彼の写真を撮ってくれるし、とにかくスマホロトムがガラル地方で愛されている理由を最近しみじみ実感している。
キバナからすぐに返事があった。10分で来るということだった。10分で来るならお店の近くでそのまま待っていると、本当に10分後にキバナは現れた。
「お疲れ様、寒いね」
「ああ。ドラゴンタイプたちにはきつい季節だぜ」
そう言いながらも機嫌の良さそうなフライゴンが寒さなんてなんのその、と言うように寄り添って飛んでいる。
「ちょうど良かったよ、来てくれてありがとう」
「オレも。連絡もらってよかった」
「はい、これ」
「ほんとにいっぱいだな、どうしたんだよ」
「あははは……」
レプリカパーカーが買えなかったショック、言ってしまえばキバナが原因で余らせてしまったケーキたちなのだが、本人に言えるわけがない。私は無言で笑うにとどめ、ケーキの箱をビニール袋に入れなおしてなに食わぬ顔で彼に手渡した。
すると、ケーキの袋を交換するように、キバナ自身が下げていた紙袋を私に渡した。というか羽ばたき、上機嫌に尻尾を揺らすフライゴンの陰に隠れていて、彼がこんなものを持っていることに気づかなかった。
「なにこれ?」
とりあえず受け取って見たけれど意味がわからない。中を見てみろ、と彼の垂れた目で言っていので、意味がわからないなりに紙袋の口を覗いた。
紙袋の底にそっと寝かせられていたそれは、私が朝からずっと画面を開いたり消したりしていた、あのキバナのパーカーだった。透明のビニール袋にラッピングされ、タグがまだついている。目の前の男が来ているパーカーが明らかに新品の状態で、私の手の中にあった。
驚きで、思わず視線が泳いだ。
「ど、どうして私の欲し……」
浅はかにもその瞬間に期待を抱いた私が顔を上げると、キバナが、目を見開いていた。その反応で、私がひどい勘違いを口走っていたことに気がついた。
さっと目をそらす。いけない。どうして私の欲しいものがわかったの、と言うところだった。
違う。私へのプレゼントなわけない。なぜこれを差し出されて、自分がもらえるなどと思ったのだろう。買えばよかったという後悔から、あまりに自分に都合の良い妄想をしてしまった。全部言う前に気づけてよかった、本当に。とんでもなく厚かましい発言でキバナを困らせるところだった。
ああもう、今日は調子が狂ってばっかりだ。笑顔を繕いながら、私は欲望を自分の頭から必死で追い出す。
「これ、キバナの新しいパーカー?」
キバナが何か言おうとする。さっきの私の言葉、表情を追求される前にと、私は同じ路線で話を続けた。
「だよね? やっぱりこういう風に同じデザインで新しいの用意してるんだねー」
さも自分は、最初からちゃんとわかっていましたと裏付けるために、明るく畳み掛ける。
「試合でもずっと着てるもんね。すなあらしの中の試合も多いし、ヌメルゴンともよくスキンシップとってるから、地味に気になってた。あとコータスの煙も吸ってそうだな~とか!」
「………」
「洗濯してるとしても、洗ってるうちにくたびれちゃうんじゃないかなとかも思ってた。やっぱり同じものをいくつか持ってるんだね。キバナの謎がひとつとけたよ」
そういうことでしょ? と笑顔でキバナを見上げると彼は、険しいともひどく困っているとも言える表情をしていた。
「あー……、……そういうことにしといてやるか」
キバナは長い長い溜息を吐いた後、妙に含みあることを言った。
そういうことにしておいてやる、とは。だけど今度のキバナは目元は垂らしたまま、尖った歯を見せ笑みを浮かべている。それはバトルで自分の強さを教え込みたいと意気込むときの表情に似ている。
私が考え出す前にキバナは、腰を折ると一気にパーカーを脱ぎ去った。
あ、久しぶりに下のウェア姿をはっきり見た気がする。いつもはラフサイズのパーカーに隠れているキバナの体の線は、私たち人間の中では異質なくらいしなやかだ。急に目の前に立つのがよく知った仲のいいキバナではなく、トップジムリーダー・キバナであることを思い出させる。
こっそりと目を奪われてる私から、キバナは紙袋を取り上げた。
彼のものが、彼の手に戻る。元から自分のものではなかったものを、私は快く手放す。代わりに、今しがた脱ぎ去ったパーカーが、私の手の中に放られた。
「えっ?」
どっしりと乗った、自分の服とは明らかに違う布の重み。袖部分をしっかり抱えないと地面についてしまいそうで、慌てて抱え直す。
キバナは新品のパーカーを取り出すと、ビニールのパックを乱暴に破り捨てる。そのまま長い腕やしなやかな背骨を新たなパーカーで隠してしまった。
「やっぱりちょっと生地が硬いな……」
自分の手の中にあるパーカーを見下ろし、キバナを見上げ、またパーカーを見下ろしを繰り返す。判断に困って恐る恐るキバナに返そうとすると突き返されてしまった。
「ああ、オレさま着用済みのパーカーがネットオークションに出回らないように上手くやってくれ」
「う、売るわけないよ。っていうか、私にネットオークションなんてできるわけないよ」
「知ってる。でも手離すなよ。返品も受け付けねえ!」
光沢がまだ馴染まないパーカーを揺らしてキバナは笑った。
あの後、仕方がないので紙袋にキバナのパーカーを入れて、家に帰ってきた。上着を脱いで、グラスに注いだ水を飲みきってから、家の中に増えた異質なそれを私は睨みつけた。
帰り道では考えないようにしていたけれど、けっこうとんでもないものを渡された気がする。確かに機械音痴の私に渡せばお金のために転売される心配はないけれど。本人の着用済みは価値があるのは、まあ事実だけど、それを堂々と自負する姿はキバナらしい。が、それを人に渡すか? 有名人の考えることはズレている。
「………」
キバナの風変わりな価値観に悪態をついても仕方がない。それ以上の問題が、私の目の前には横たわっている。
日中ずっと欲しかったなぁなどと思っていた、それ以上のものを、なぜか手に入れてしまった。こうなるならやっぱりレプリカの方が欲しかった。私の本来、キバナのパーカーに興味を持ったのは着心地を知って見たかったからだ。
だけど手元のあるのはレプリカではなく、本人着用済の本物である。そもそもキバナに気軽に着てみたい~なんて言えないからレプリカを所望したのに、どういうことだ、話が違う。
家の外に誰の気配もないことを確かめてから、紙袋からそっとキバナのパーカーを取り出してみる。やはり手どころか腕に余る大きさだ。紺の布地は柔らかくて、着慣れているのがわかる。肩の部分を持って広げてみると、目に飛び込んで来た光景はさながら手の届く距離に立ったキバナの胸であった。
「無理だ、これ……」
めまいがしてきた。そのまま倒れそうになる前に、私はパーカーを紙袋へ戻した。一枚のパーカー相手に、我ながら感受性が豊かすぎるが、色々と考えることが多すぎて、自分の好奇心を満たすまでに疲れ切ってしまう。
それに、キバナもこういう風に扱って欲しくなくて私に渡したのだろう。自分の私物を、私欲を満たすために使われるのはきっと気分が良いものではない。
一人暮らしの家の中、私がこのパーカーをどう扱おうと誰かに知られる可能性は低い。それでも、キバナを裏切ってはいけない気がした。
自分の願いはわからないものだ。ちょっぴり欲しいと思っていたものは、手に入らないとわかると”すごく欲しい”だったと後から気付かされ、いざ本物が来ると偽物の方がよかったと思うなんて。
シャワーを終えて、明かりを消して、シーツにくるまって、私は早々に目を閉じた。今日抱いたいくつもの邪な考えを遠ざけたくて、丁寧にしまったキバナのパーカーがある方は見ないようにして、強く強く目を閉じた。