危険な夢を見たA


 カレーパーティーが始まる前、一足先に来てくれたホップくんと私はキッチンの電子オーブンを目の前に二人で難しい顔をしていた。最終的にホップくんをカレーパーティーに誘う決断をさせたのも、わが家の電子オーブンである。
 借りた部屋にもともと備え付けられていたオーブンを、私はまだ一度も使ったことがない。電子パネルがついていてボタンも何個もついている。それだけで頭が拒否反応を示してしまう。料理を焦がしてしまうだけならまだいい。もし借りた部屋をオーブンごと爆発させてしまうなんてことがあったらと思うと、とても動かす気になれなくて、わが家のオーブンは鉄板の寝床と化していた。
 だけどオーブンが鉄板を寝かす場所じゃないことは私もよくわかっている。お店ではオーブンだって、店長の丁重なサポートのもと毎日使っているのだ。そして私は意を決して、オーブンの掃除をして、ホップくんにカレーパーティーのお誘いと、この機会に家のオーブンをどうにか使いたいことを申し出たのだ。

「余熱180度で、40分焼きたいんだけど」
「今まではどうしてたんだよ? レンジとかは使わないのか?」
「レンジは目視確認でチン。ずっと見てれば大丈夫!」
「………。できたぞ」
「ありがとう、ホップくん!」

 無事に動き出した電子オーブンにほっと胸をなでおろす。

「ほんと、下手なボタン触ったら壊しそうで」
さん、器用だし平気だと思うけどなあ」
「実際にやらかした経験があるから警戒してるんだよ」
「そ、それって爆発したってことか……?」
「んー?」

 笑顔でごまかしつつ、とんとんとまだ生の生地を叩いて空気を抜いていると、ピーピーと音がなる。余熱が完了したようだ。わたしはこれからケーキになるものをオーブンの鉄板に乗せた。
 焼いている間に調理道具の洗い物をする。水がカトラリーの上を跳ねる音ばかりだったキッチン内で、ジュースを飲んでいたホップくんがぽつりと言った。

「どうしてさんはジムチャレンジを一年でやめちゃったんだ?」

 誰よりも早く私の家に来てくれたホップくんは、家に着くなり私が元ポケモントレーナーだったことを確信していた。
 別にひたすら隠していたことでもないけれど、家にポケモンの姿がなくても、自然と揃った道具や資料から見抜いたようだ。さすがダンデの弟だと頷ける観察力だ。

「一年でジムリーダーを7人も倒せるくらいなら、次の年にチャレンジする手だってあったぞ。トレーナーとしての人気があれば、スポンサーだってつく人もいるらしいし」
「うーん、まぁそうだね」

 確かに、スポンサーの打診はあったなと懐かしく思い出す。スポンサーの話が上がるということは、私のバトルを印象良く思っていた人たちがいた証拠なのだろう。でも、あの頃の自分をあまり思い出したいとは思わない。

「そんなにジムリーダーが強かったのか?」
「うん、強かったね。やっぱりトップジムリーダーなだけあったよ。でも私のポケモンたちも、最高だった」
さんはどんなポケモンを育ててたんだ?」
「私の手持ちはね、ほとんど幼い頃に私と遊んでくれてたポケモンたちで構成されていたの。ホップくんはトゲチックっていうポケモンを知ってる?」
「トゲピーの進化系だろ!」
「そう。最初、私は二匹のトゲチックと旅立ったの」

 私が語り出すと同時にホップくんの瞳が輝き出す。私のストーリーに向けられた琥珀色のスポットライトに、笑みを返す。

「兄弟のトゲチックで、おねちゃんトゲチックは旅の途中に進化してトゲキッスになった。私のエースだったよ!」

 私はキッチンの天井に、トゲキッスの翼を思い出した。丸い線で構成された白い羽が、魔法のように風をすくい上げていた。あの翼は太陽どころか月光さえも味方にして飛ぶのだ。

「弟のトゲチックはしんかのきせきを持ったトリックスターだった。トゲチックのことを進化前のポケモンだからってあなどってきたトレーナーを、驚かせるのが大好きだったなぁ」

 もう一匹のトゲチックは、進化を選ばなかった。未熟なトレーナーだった私に、進化ばかりが強さじゃないとその生き様で示してくれた。彼はなかなかかっこいい心意気をもったトゲチックだった。

「聞いてるだけで楽しそうだぞ!」
「うん。私を思いやって、集まってくれたポケモンたちとするバトルは本当に楽しくて、お互いに成長し合えるのが嬉しくて……! ……輝かしい日々だった。でも、当時のトップジムリーダーに負けて、悔しくて」

 ホップくんがこれからそれを迎えるのか、それとももう出会ったのかは知らない。だけど残酷なスタジアムの上で、いずれ皆が直面する事実だ。自分の過去を伝えるのに、戸惑いはなかった。

「勝ちたくて、勝ちたくて、我を失いそうになって。なんていうのかな、なりふり構わないようになってしまった自分が自分で怖くて、やめたの」
「………」
「一緒に強くなろうという気持ちじゃなくて、ただ自分が勝ちたいだけ、私が強いって言いたいだけのためのバトルなんだって気づいてしまったら、ポケモンたちにバトルさせることも怖くなった。弱かったのは、ポケモンじゃなくて、私」

 勝ちたくて、でも勝てなくて、何を足せば、何を引けばわからなくて、何を捧げればいいのか、何を犠牲に捨て去ればいいのかもわからない。容赦ないプレッシャーを与えてくる当時のトップジムリーダーを前に、目の前が赤くなった。今も時々見る悪夢の内容がそれだ。

「もう大人だから、自分でほぼコントロールできるけれど、元からそういうところがあったの。頑固というか、夢中になりすぎると手段を選ばなくなってしまうというか」
さんのイメージからは想像できないぞ」
「幼い頃からの悪い癖なんだよ。だからスタジアムに立てるポケモントレーナーたちを、私はみんな尊敬している。もちろんホップくんもね」

 私は執着から生まれるあの類の狂気にはめっぽう弱い。
 ホップくんに語っているうちに、気づかされる。私が結局スタジアムが苦手になってしまったのは、キバナばかりが理由じゃないようだ。あそこに行くと、私は自分の狂気に向き合わなければならないから、避けて通りたいと願っているのだろう。

「……トゲキッスたちは、今どこに?」

 ひどく言いにくそうにホップくんに問われる。確かに私とトゲキッスたちは今離れて暮らしている。ポケモンとトレーナーが離れるというとシリアスな状況だと思われがちだ。でも私たちのは悲しい別れじゃない。

「トゲキッスがね、ルミナスメイズの森にいる、とあるギモーに一目惚れをして」
「ひ、一目惚れ?」
「そうなの。その恋をおっかけたいって言うから、トゲキッスたちのことは母親に預けたの。私の母は、今アラベスクタウンで暮らしてるからね、ルミナスメイズから近いでしょ?」

 私の愛するエースは、森のやせいのポケモンに恋をした。弟のトゲチックも姉についていくというので、ポケモンたちの気持ちを尊重した結果、皆で暮らすために借りたこの家はがらんとしてしまった。

「……あ。お砂糖のストック、なかったのか。ちょっと足りないかな?」
「オレが買いに行こうか?」
「じゃあ一緒に買いに行こうか。お砂糖以外もジュースとか、買っちゃおう! ケーキももう焼けるし、オーブンから出したらあとは冷まして寝かすだけだから」

 まだキバナたちが来るまで時間もある。火の元を軽く確認してから、一枚羽織って玄関を出る。

「オレもオレのポケモンたちも手伝うぞ!」
「ありがとうね、ホップくん、本当に頼りになるね」

 そんな風に話して道を歩き出した先。男の子が、目を鋭くさせて私をじっと見つめて来ることに気がついた。
 ふわふわの髪、オーバーサイズのコートから少年らしい細い足が地面を突っぱねるように生えている。

「あなた、どこかで……」
「ん?」

 自然の中では見かけない紫の瞳が私をいまだに睨みつけている、けれど私の知らない男の子だ。
 不思議に思いながら私から話しかけるべきか迷っていると、背後のホップくんが大きな声をあげた。

「あっ、ビート!」
「ホップくんのお友達? じゃあ彼も今日のお客さんかな?」
「はい……?」

 そして道端でばったり合った彼が、最後のカレーパーティー参加者となったのだった。














 柄にもない時間を過ごして、ホップくんに危うい過去なんかを語ったせいだろうか。その晩、私は危険な夢を見た。恐ろしく幸せな夢。私が、キバナを自由にしている夢。

「キバナ……」

 自分の発した声から、私はその夢へと繋がった。こんな熱をもって彼の名を呼ぶことなんて、しない、できないくせに、自分の口から流れ出た彼の名は私の気持ちの全てが乗っていた。

 背中から捕まえて、手をすくい上げても、そしてそれを噛んでみても彼は何も言わないで、笑みを浮かべていてくれる。
 体格差でいつもは簡単に手の届かない耳なんかにも触れられる。目線の高さも同じでいられる。
 彼の手の大きさに溺れていると、くっきりと残った噛み跡を頬へ擦り寄せながら、もう一度「キバナ」と、彼の名前を呼んだ。
 キバナは甘く笑っている。でも私はぴくりとも笑えない。

「ごめんなさい」

 キバナの手につけてしまった歯型に謝罪をした。
 同時にぎりりと奥歯が鳴る。彼の全部が自分のものである、この時が夢の中だなんて。気をぬくと嫉妬に狂いそうになる。
 でも我を失う心配はしていない。現実はいつも、幼子のような私を容赦なく打ちのめしてくれるからだ。

 一歩引けば瞬く間に身長差も距離感も、現実の身長差、そして日常の距離感に戻るだろう。だけど、離し難い。
 幻想の体温。心地よさに泣きそうになる自分と、夢はもう終わりでいいと思う自分がいる。

 迷っているうちに、どこからか声援が聞こえて私を包もうとする。スタジアムに満ちるそれと同じ、声の波。誰も彼もがキバナを呼んでいる。私は自分の耳をふさぐのではなく、必死にキバナに抱きついた。自分の大きくない体では到底不可能なくせに、彼を隠したいと思った。

 意味をなさないとわかっていて、叫びたくなる。
 私は誰よりもキバナを知っているはずだ。誰よりも彼を見てきたはずだ、好きな気持ちは誰にも負けない。
 溢れ出す感情は両腕に抱えきれない。
 幼い頃からの悪癖だ。私は激情の持ち主なのだ。

 閉じ込めようとしていたキバナの服や肌や髪の感触が薄れて行き、シーツと朝日を体が感じ始めた。キバナの全ては私のものだ。そう言えない現実へ、目が覚めようとしていた。
 嫌だとは言わない。受け入れて生きている。大丈夫、現実は必ず、私を打ちのめしてくれる。そう思い出して、私は安堵してその甘くて恐ろしい夢を意識の底へと手放したのだった。