聞き間違い?


 お店のドアを開ける瞬間から笑顔が貼りついたキバナから、さらりと視線を外し、私はキッチンの奥に繋がっているバックヤードに声をかけた。

「ロトム、きて!」

 今は勤務中。食品を扱うため消毒した手で、自分の端末を触るなんてことはできない。なので、いつもより強めの声で自分のバッグに向かって呼びかける。このためにバッグの口も半開きにしておいた。すぐさま私のスマホロトムがまっすぐに飛んで来た。勢い余って通り過ぎかけるほどに嬉しげなのがロトムの可愛いところだ。私と満面の笑顔を貼り付けていたキバナの間に、まるで私の視界を遮るようにふゆうした。

「キバナ。この子だから」
「……は?」
「キバナのこと、ブロックした本人だよ」

 突き出されたとわかってもなお、スマホロトムはケタケタと体を震わせた。




さん」

 店長が一番奥の、人目につきにくい席を指して言う。

「あれ、キバナさん?」
「はい、キバナ、ですね」
「今日はゆっくりしていってるんだね。珍しいね」
「………」

 事情を知らない店長から見れば、コーヒーと一緒にゆっくりと自分の時間を過ごしているように見えるようだ。けれど決してはねやすめするドラゴンのようなロマンチックな代物はない。

 予想通りカウンターに直進してきたキバナはブロックの操作をしているのがロトムだと知ると、そのままスマホロトムを奥の席へ連れ込んでしまった。
 キバナは『説得する』と言っていた。その言葉通り、キバナはロトムと随分話し込んでいる。
 時計を見ると、かれこれもう一時間は経っている。キバナはいまだにスマホロトムに向かってあれこれと語りかけているので、スマホロトムも折れていないらしい。案の定、けたけたと揺れる機体にはロトムのいたずらっぽい笑顔が浮かび上がっている。

 もちろん、今回の件は私が意図したわけじゃない。私自身はキバナのSNSをほぼ毎日見ていたし、ロトムが勝手に起こしたことだ。けれど、キバナの手を煩わせてしまってることは事実だ。せめてキバナに二杯目のドリンクでもサービスしよう、もちろん私の自腹で。
 そう思い、私は一人と一匹が話し込んでるテーブルへ近づいた。キバナ、諦めないねと話しかけるつもりだった。けれど耳に入ってきた言葉に私は思わず全てを忘れた。

「オレさまはほとんど毎日に会いに来てるんだ。仲良いに決まってるだろ?」
「え」

 ロトムを見ていた青い目が私を見上げる。

「ん? どうした」
「キバナ、この店に私に会いに来てたの……?」

 聞くと、キバナは閉口した。それからヌメラみたいに唇を迷わせてから、返事をしてくれた。

「コーヒーだけなら他にも近い店はある」

 一度のど奥を詰まらせた、気がした。碧眼は私をまっすぐ見ている。

「オマエがいるからここまで来てるんだろうが」
「へー」
「なんだよその反応」
「そうだったんだなぁ、って……」
「それよりも協力しろよ。オレさまのアカウントが見られないとオマエも困るだろうが」
「困るってほどじゃないけど」
「困らないのか?」
「うーん、困るかも?」

 その感覚がわからないけれど、キバナは未だ躍起になってロトムの説得を試みている。私はふらふらとレジカウンターへと戻った。

 その後、少ししてキバナは席から立ち上がった。時間切れになったらしい。もしくはジムトレーナーさんたちに呼ばれたのかもしれない。

「また来る」
「うん」
「オマエもロトムを説得するの手伝えよな」
「うん、やってみる」
「じゃあ」
「うん」

 大きな掌が軽く私へと振られる。
 スマホロトムは全く懲りていない様子で、私の元へ帰ってきた。「さんがようやくスマホ使ってくれて僕も助かってるんだ」と、店長が可愛がってクッキーをあげるのでさらに上機嫌になったロトムが視界の端で見えた。
 私は外へと向かっていくキバナの背中をじっ、と目線で追っていた。




 仕事後の帰り道。ロトムをポケットから呼び出して、話しながら帰ってみる。

「ねえ、ロトムはどうしてキバナをブロックするの? どんな理由があるの? いたずらするにしても、もうそろそろ良いんじゃない? ……、ね、ロトム?」

 ゆっくりと語りかけるも、ロトムが聞き入れている様子はない。夜の街、明かりと明かりの間を飛ぶ様子は見ているだけで楽しんでいるのが伝わって来る。ロトムはいつでも無邪気で、自由奔放で、それでいて愛嬌があって、なかなか憎めないポケモンだ。
 ロトムを見上げながら私はぽつりと投げかけた。

「キバナは、悪いやつじゃないよ。まあ色々と思わせられることはあるけど……」

 キバナがキバナらしくあるせいで、私は時々、上手に自分の気持ちを処理できなくなる。誰かが近くにいるときは隠せても、一人になった瞬間に気が緩むこともある。スマホに宿ったロトムはそういう私を、誰よりも近くで見てるのではないか。だから、純粋に心配してくれて、私の気持ちを乱すキバナを見ないで済むようにしたのではないか。そう私は思っていた。

「うん、キバナは悪くない。悪いのは私だから、もういいよ?」

 じっとロトムに視線を送ってみる。少し待ったけれど、ロトムの様子に変化はない。

「うーん、ダメか」

 ロトムの気遣いが原因かと思ったけれど、違ったのだろうか。はぁ、と肩を落としてロトムばかりを見上げていた視線を目の前に戻す。そして私は固まってしまった。
 本当にあった。コーヒーショップ。私の働くお店より、もっとジムに近い場所に。

『オレさまはほとんど毎日に会いに来てるんだ』

 後から、急に、じわじわとそれは来た。いや、聞いた瞬間にガツンといわおとしされたみたいに衝撃は受けていて、しばらく頭の半分は固まったままにさせられた。
 さっきまでキバナの言葉は、私の思考を止めていただけだった。なのに、今更、血が指先まで巡り出す。

『オマエがいるからここまで来てるんだろうが』

 キバナはなんてことを言うんだろうか。私はただ、毎日のルーティーンでコーヒーを買いに来ているんだと思っていた。キバナの生活と私の仕事が、偶然にも重なり合ってるだけなのだと、思い込んでいた。
 幸運なことだなぁと何も考えずにいた私。対してキバナは、私に会いに来ていた? そこにキバナの意思があった?

「……っ」

 この感情はなんだ? いわゆる、何と呼ぶ? 恥ずかしい? 照れてる? 嬉しい? よくわからないけれど、とにかく熱いのがせり上がってくるのだ。

 誰も見ていないだろうに、私は両手で両頬を隠した。それでも足りずに下を向く。熱さが引いてまた歩き出せるようになれと願っているのに、反芻されるのはあのキバナの声なのだった。