次の日が休みで助かった。昨晩急に私の中に生まれた、爆発的な恥ずかしさ。それらは全て、キバナのせいだ。私は昨日、本気で初めて、キバナが私に会いに来ていることもなくはない、なくなくもない的なことに気付かされたのだ。
いまだにその言葉をどう受け止めたらいいか分からないものの、キバナは確かに言ったのだ。私に会いに来てるんだ、と。
「ああ〜……」
まずい。鏡の中の私がまた変な顔をしている……。目と眉は困っていて、でも口元はニヤニヤうねうねしている。まるでヌメラみたいだ。鏡の中の自分にドン引きしてるのに、それでも勝手に動き出す様を見ていると、出勤なんかしていたら。仕事の時間になってもカウンターでにやにやを押し殺す、気持ちの悪い私がいたことだろう。本当に今日が休みで良かった。
鏡を睨みつけているとその鏡面にするりと入り込むポケモンがいる。スマホロトムだ。パシャリと音がする。どうやら鏡越しに、一枚写真を撮られたようだ。
「もう。それ恥ずかしいからあとで消してね」
聞いているのかいないのか。ロトムは体を揺らして笑うのみだ。そんなこの子の茶目っ気のあるせいかくは、正直好ましく感じている。いたずらっ子ではあるけれど、ロトムに笑顔をもらったことはもう一度や二度じゃない。
このスマホの中にロトムがいてくれるかは、ロトムの機嫌次第だ。私へのプレゼントとしてこの子を連れてきたキバナは確か、そう言っていた。だからもし不意に、このスマホが空っぽになって、うんともすんとも言わなくなっても仕方がない。というか、中身がロトムという自由に生きているポケモンなのだから当たり前だと思っていた。
だけど今日もロトムは私のスマホを居場所に、笑ってくれている。そして機械音痴の私を助けてくれている。そんなロトムを私は憎むことはできない。理由もわからないままキバナがブロックされていも、だ。
不意に通知音が鳴って、キバナからのメッセージが届いた。
キバナのことを考えていたのとちょうど同じタイミングだ。けれど、別にときめくようなことではないそもそもこの男はマメなタイプなのだ。さささっと打った短いメッセージを、気負うことなく送ってくる。基本的に返信も早くてリズミカルだ。好意を持ってる人からのメッセージなら短くとも普通に嬉しくなるから、長さより気にかけられてるという気持ちが大事なのだとキバナも知っているのではないだろうか。こういうところが人を引き寄せるんだよな、と思いながら中身を見る。
『ロトムはどうだ?』
どうだ、と言われても。
「……ロトム、どう? えーと、元気?」
私の問いかけにロトムは私の周りをぐるりと飛んで、そのまま私に頬ずりをした。ちょっと固い。けど可愛い。
「元気そうだね。よかった」
こうしてみると、ロトムもずいぶん私に慣れてきた、なんて思う。
ロトムは至って元気そうだ、私との仲も良い。だけど、キバナが求めている答えはロトムのコンディションとかなつき具合ではなく、ブロックを解除してくれそうかどうか、だ。
「あっ」
まあ頑張ってみるとかなんとか、適当な返事を書こうとした。だけど、ロトムが私の指先からわざと外れる。おかげで私の指は何もない空間をタップしてしまった。
「もう、ロトムったら……」
元はゴーストタイプも入ってるのだから、人間をからかったりするのも楽しくて仕方ないのだろう。
その調子でキバナのこともおちょくっているのだろうか。まあ確かに、昨日のキバナは少し可愛いところがあった。ブロックされる、というのがキバナのプライドに障るのだろうか。自分が送ったプレゼントにやきもきさせられている彼の姿はガラルが誇るトップジムリーダーとは思えないくらい親近感があったのだ。
けれど、可愛いと思うと同時に、蘇る声がある。
『オマエがいるからここまで来てるんだろうが』
「っうあああ!!」
引きずられるようにまたリフレインする、キバナから放たれたこうかばつぐんの一撃。どうせまた私、変な顔をしている。
自分の様子のおかしさを突きつけられるのはもう嫌で、私は鏡の前から逃げ出した。
「ろ、ロトム! どこか出かけよう! ロトムも楽しいところに一緒に行こう!」
ブロック解除のためにもロトムに日頃の感謝を伝えるためにも、今日はロトムに付き合ってみよう、そうしよう。家の中で悶々としていたら、きっとまたキバナのことを考えてしまうだろうから。私が上着を羽織ると、ロトムはひゅるりとポケットに入り込んだので、そのまま私は恥ずかしさを振り切るように玄関から飛び出したのだった。
私はまず、ポケモンセンターに行った。スマホ内のロトムが元気なことを確認してもらい、そのあとは公園に向かう。公園に行けば、ほかのトレーナーとポケモンたちに会ったり、大道芸なんかも見られると思ってのことだった。けれどその日の公園には、大道芸なんて目じゃない、もっとすごい存在が来ていたようだった。
公園の奥にはすでに人だかりができていて、今も人が集まり続けている。
すれ違った人々が、熱っぽく口にする。
「ほんとか? ルリナさんが撮影してるって」
「うわ、すげー人が集まってる」
「え、見にいこ! 生のルリナさん絶対に見たい!」
ルリナさん。その名前を聞いて私も驚いた。今はバウタウンで二番目のジムリーダーを務めている彼女はポケモントレーナーとしてはもちろん、その美しさで有名だ。ルリナさんのすごいところは顔だけじゃなく、全身が整っているところだ。遠目でも、一眼見ればわかるルックスの普通じゃ無さ。
撮影、ということは今日の彼女はモデルとしてナックルシティに来ているらしい。
生のルリナさんかぁ……。私は目を閉じ、数秒堪える。うん、やっぱり私もちょっとだけ見たいかも。スタジアムじゃなく、同じ平地に立ってるルリナさんはレアだ。そうして私も人だかりに吸い寄せられ、群衆の一部になった。
「う、わ……」
人と人の隙間から、かろうじて見えたルリナさん。私は思わず息を飲んだ。
ヘルシーな美しさだというのだろうか。人間的な存在感を放ちながらも、手足の長さと綺麗さが本当に同じ人間かどうか疑ってしまうくらい現実味がない。
生で会えた。しかもやはりスタジアムで見るよりずっと近い。ルリナさんの美しさに感動して、感動しすぎて私は震える以上の行動をとれなくなってしまった。
でも私が身動きとれなくなってしまったのは、ルリナさんの美しさだけじゃない。
オーラがすでに、只者じゃないと語っているせいだ。一瞬で視線を奪われる、なのに近寄りがたい。そしてこちらを騒つかせる、嫌じゃない不穏さ。その空気感こそが彼女がジムリーダーである証明のような気がした。
私の視界は必死にルリナさんを追っている。なのに、また、キバナの顔が思い浮かんで来る。
キバナも本当は、ああなのだ。遠巻きに眩しく見つめるしかできないような存在。思わず惹かれて近づいても、自分の方から恐れ多い気持ちになって、こちらが勝手に距離を決めてしまう。
あなたのファンです、あなたのバトルを見て感動したんです、あなたは私の目標です。そんなことを伝えた瞬間に、ファンとジムリーダーとして、自分から相手を突き放してしまう。そういう高みにいる人物なのだ。
輝かしさに惑わされて、一瞬、閃きのように近づいて。けれど瞬く間に遠い遠い場所の人間と化すはずだった。
「………」
再度、リフレインするキバナの声。に会いに来てるんだ。そう、言っていた。
おはようございます、よろしくお願いします。そんないつもの挨拶の後。店長の視線が私に突き刺さる。
「さん」
言われそうなことはもうわかっている。なので店長が何か言う前に自分から申告した。
「あ、すみません。今日の私、顔怖いですよね」
「ああうん、怖いと言うか、なんというか……不自然だね」
だって仕方がない。キバナが落とした予想外の爆弾は、一日で治るような代物じゃなかった。でもこれでも、心を落ち着けた方だ。今はバックにいるので顔が緩んでいる。けれど、仕事モードに切り替えればなんとななりそうなくらいにまで持って行けたのだ。昨夜、気持ちの切り替えに全力を注いだ自分を褒めてあげたい。
「何かあったの? 悩みがあるなら僕でよければ聞くけれど……」
「そんな大したことじゃないんです。実はですね。あの、こんな理由で申し訳ないんですけれど」
「うん」
店長がごくりと喉を鳴らしたのが見えた。本当に、そんな大層なものでもないので、私はまた申し訳なくなりながら店長に打ち明けた。
「キバナにですね、このお店に来るのは私に会いに来てるんだみたいな、そんな風にとってしまってもまあおかしくはないかな?そういうニュアンスはなくもないかな?みたいなことを言われまして」
「……、うん?」
「私、そんな風には全くおもってなかったので、正直かなり衝撃で……」
やっぱり店長からしてもかなり意外な事実だったらしい。ワンテンポ遅れて、店長が声を上げる。
「えええ!?」
「やっぱり、店長もびっくりしますよね!? 常連客がいても普通、『私に会いに来てるんだ〜』とか思わないですよね!?」
「いやいや、まさか……。いや……そりゃキバナさんは普通の常連客だったらそうは思わないけどさ……」
「やっぱりそうですよね!?」
「いやいやいや……、うん……」
僕はもう、なんて言ったら良いかわからないよ……。そうぼやく店長も、まるで昨日の私みたいにおかしな表情を浮かべていた。
出勤前のコーヒーを買いに来るお客さまの多い、モーニングタイム。まだ混じり気のない店内の空気に、エスプレッソから香りが立ち上る。
今日は早めに来るのではないかと思っていたキバナは、私の予想通りに姿を現した。
「おはよう」
「おはようさん」
本当は、昨日見かけて圧倒されたルリナさんみたいに、遠くなっても仕方がないキバナ。彼は今日もカウンター越しに、私からコーヒーを受け取る。
「どうしたんだよ。ロトムは」
そうなのだ。昨日の夕方、私はなんと、ロトムを納得させることに成功した。
キバナが朝早く顔を出すのではないかと思ったのもそれが理由だ。彼なら朝のうちに自分のブロックが解除されていることに気づいただろう。そして早めにお店に来て、直接私に「どうしたんだ」と聞きに来ると思っていたのだ。
「あー、やっぱり気になる?」
「オレさまはあんなに粘ったのに、オマエに任せたらあっという間だったんだ。気になるに決まってるだろうが」
「そう、だよね」
「どうやったんだよ」
私は曖昧に笑う。焦らしているわけではない。少し、言いにくいだけだ。やはりキバナは私が言うまで動く気はないようだ。カウンター越しに送られる、じっとりした視線に負けて私は口を開いた。
「キバナ、これから言うことに対して怒らないでね?」
「それは聞いてからオレさまが決める」
その返事、キバナらしいや。私はなんとなく、キバナの反応を想像しながら、昨日の自分を再現した。
「ロトムに言ったの。キバナなんかより、ロトムの方がずっと好きって」
「……、は?」
「ロトムのことが大好き、ロトムいつもありがとう、ロトムは私にいなくちゃいけない存在だよ、だからもうキバナなんか相手にするのやめよう? って伝えたんだよ」
「………」
「ね、ロトム」
そう言うと、私のポケットからスマホロトムが飛び出して、私に可愛い笑顔を見せて来る。大好きだと何回も伝えたおかげか、昨晩から私にべったりなのだ。仕事中はカバンの中で休んでもらうつもりが、離れてくれないので仕方なくポケットに入り込んでもらっている。もちろん、仕事中なので絶対に触ることはできないよ、と厳重に伝えた上でのことだ。
「ロトムは多分、キバナにやきもち妬いてたんだよ」
随分私になついてくれたロトムが、キバナだけをブロックした。おとといの店内でも、呼べば、キバナの前に立ちふさがるようにふゆうしていた。私がキバナにメッセージを返そうとすると、それを妨げた。
ポケモンにやきもちを妬かれるのには身に覚えがある。実際にロトムには毎日感謝しているので、それをちょっと盛って伝えれば、ロトムは快くキバナを許してくれたのだ。
「そういうわけでした」
「なんだこの敗北感は……」
がっくりと項垂れるキバナに共感する。蓋を開けてみればなんてことない、可愛い理由だったのだから。
「でも、なるほどな」
ぐっ、とキバナの顔が近づいて来て私は思わず息を詰めた。一瞬どきりと心臓が痛くなった。けれどキバナは私をではなく、私の肩近くにいたスマホロトムを視線で射抜いていた。
「オマエもの近くが良くなっちまったんだな」
至近距離で見た、キバナの好戦的な笑みには、さすがのロトムも驚いたらしい。ひゅん、と私のエプロン下のポケットに戻ってしまった。
「じゃあな」
「う、うん、がんばってね」
キバナが後ろ手に手を振る。モンスターボールを握るため、専用のグローブをつけた手だ。
あのグローブ、私はもうしばらく使ってないな、なんてことを思った。
私はもはや、ポケモントレーナーではない。そもそもポケモンとも暮らしていない。そんな私とキバナは、本来ならもう、他人同士に戻ってる方が普通だ。
キバナの立場なら、彼の周りは同じ高みを目指すポケモントレーナーがふさわしい。なのにそうでなくなった私が、まだキバナの友人を続けていられるのは、キバナのおかげなのだ。
自分がキバナにふさわしくないと思うことは多々あった。仲良く過ごしながら、彼の貴重な時間が私との間に流れることに、何度も後ろめたくなっていた。
だけど、キバナが言った、言ってくれた。理由はわからないけれど、彼自身が選んで、ここに来ている。私がいる場所を選んでくれている。
選ばれている。そう思うだけで、背筋が伸びる思いがした。
『オマエがいるからここまで来てるんだろうが』
あの言葉がリフレインする度にわき起こるのは戸惑い。そして、言うなれば勇気みたいなものが私にそっと寄り添ってくれる。
たとえ私のいるお店を選ぶ理由が、砂つぶみたいなものであっても。キバナがここに選んできてくれている限り、私は彼の目の前に立っていていいのだ。世間話をして、他愛なく笑っていていいのだ。
そんな安心感を、今日になって初めて手に入れたなんて、キバナは知る由も無いだろうな。またきっと私は変な顔をしそうになった。今回ばかりは湧き上がる気持ちのままに、笑ってみた。嬉しくなって見た。
だけどすぐにこのお店の喧騒と日常が押し寄せる。そして私はまた、しがない一人のカフェ店員に戻ったのだった。
いまだにその言葉をどう受け止めたらいいか分からないものの、キバナは確かに言ったのだ。私に会いに来てるんだ、と。
「ああ〜……」
まずい。鏡の中の私がまた変な顔をしている……。目と眉は困っていて、でも口元はニヤニヤうねうねしている。まるでヌメラみたいだ。鏡の中の自分にドン引きしてるのに、それでも勝手に動き出す様を見ていると、出勤なんかしていたら。仕事の時間になってもカウンターでにやにやを押し殺す、気持ちの悪い私がいたことだろう。本当に今日が休みで良かった。
鏡を睨みつけているとその鏡面にするりと入り込むポケモンがいる。スマホロトムだ。パシャリと音がする。どうやら鏡越しに、一枚写真を撮られたようだ。
「もう。それ恥ずかしいからあとで消してね」
聞いているのかいないのか。ロトムは体を揺らして笑うのみだ。そんなこの子の茶目っ気のあるせいかくは、正直好ましく感じている。いたずらっ子ではあるけれど、ロトムに笑顔をもらったことはもう一度や二度じゃない。
このスマホの中にロトムがいてくれるかは、ロトムの機嫌次第だ。私へのプレゼントとしてこの子を連れてきたキバナは確か、そう言っていた。だからもし不意に、このスマホが空っぽになって、うんともすんとも言わなくなっても仕方がない。というか、中身がロトムという自由に生きているポケモンなのだから当たり前だと思っていた。
だけど今日もロトムは私のスマホを居場所に、笑ってくれている。そして機械音痴の私を助けてくれている。そんなロトムを私は憎むことはできない。理由もわからないままキバナがブロックされていも、だ。
不意に通知音が鳴って、キバナからのメッセージが届いた。
キバナのことを考えていたのとちょうど同じタイミングだ。けれど、別にときめくようなことではないそもそもこの男はマメなタイプなのだ。さささっと打った短いメッセージを、気負うことなく送ってくる。基本的に返信も早くてリズミカルだ。好意を持ってる人からのメッセージなら短くとも普通に嬉しくなるから、長さより気にかけられてるという気持ちが大事なのだとキバナも知っているのではないだろうか。こういうところが人を引き寄せるんだよな、と思いながら中身を見る。
『ロトムはどうだ?』
どうだ、と言われても。
「……ロトム、どう? えーと、元気?」
私の問いかけにロトムは私の周りをぐるりと飛んで、そのまま私に頬ずりをした。ちょっと固い。けど可愛い。
「元気そうだね。よかった」
こうしてみると、ロトムもずいぶん私に慣れてきた、なんて思う。
ロトムは至って元気そうだ、私との仲も良い。だけど、キバナが求めている答えはロトムのコンディションとかなつき具合ではなく、ブロックを解除してくれそうかどうか、だ。
「あっ」
まあ頑張ってみるとかなんとか、適当な返事を書こうとした。だけど、ロトムが私の指先からわざと外れる。おかげで私の指は何もない空間をタップしてしまった。
「もう、ロトムったら……」
元はゴーストタイプも入ってるのだから、人間をからかったりするのも楽しくて仕方ないのだろう。
その調子でキバナのこともおちょくっているのだろうか。まあ確かに、昨日のキバナは少し可愛いところがあった。ブロックされる、というのがキバナのプライドに障るのだろうか。自分が送ったプレゼントにやきもきさせられている彼の姿はガラルが誇るトップジムリーダーとは思えないくらい親近感があったのだ。
けれど、可愛いと思うと同時に、蘇る声がある。
『オマエがいるからここまで来てるんだろうが』
「っうあああ!!」
引きずられるようにまたリフレインする、キバナから放たれたこうかばつぐんの一撃。どうせまた私、変な顔をしている。
自分の様子のおかしさを突きつけられるのはもう嫌で、私は鏡の前から逃げ出した。
「ろ、ロトム! どこか出かけよう! ロトムも楽しいところに一緒に行こう!」
ブロック解除のためにもロトムに日頃の感謝を伝えるためにも、今日はロトムに付き合ってみよう、そうしよう。家の中で悶々としていたら、きっとまたキバナのことを考えてしまうだろうから。私が上着を羽織ると、ロトムはひゅるりとポケットに入り込んだので、そのまま私は恥ずかしさを振り切るように玄関から飛び出したのだった。
私はまず、ポケモンセンターに行った。スマホ内のロトムが元気なことを確認してもらい、そのあとは公園に向かう。公園に行けば、ほかのトレーナーとポケモンたちに会ったり、大道芸なんかも見られると思ってのことだった。けれどその日の公園には、大道芸なんて目じゃない、もっとすごい存在が来ていたようだった。
公園の奥にはすでに人だかりができていて、今も人が集まり続けている。
すれ違った人々が、熱っぽく口にする。
「ほんとか? ルリナさんが撮影してるって」
「うわ、すげー人が集まってる」
「え、見にいこ! 生のルリナさん絶対に見たい!」
ルリナさん。その名前を聞いて私も驚いた。今はバウタウンで二番目のジムリーダーを務めている彼女はポケモントレーナーとしてはもちろん、その美しさで有名だ。ルリナさんのすごいところは顔だけじゃなく、全身が整っているところだ。遠目でも、一眼見ればわかるルックスの普通じゃ無さ。
撮影、ということは今日の彼女はモデルとしてナックルシティに来ているらしい。
生のルリナさんかぁ……。私は目を閉じ、数秒堪える。うん、やっぱり私もちょっとだけ見たいかも。スタジアムじゃなく、同じ平地に立ってるルリナさんはレアだ。そうして私も人だかりに吸い寄せられ、群衆の一部になった。
「う、わ……」
人と人の隙間から、かろうじて見えたルリナさん。私は思わず息を飲んだ。
ヘルシーな美しさだというのだろうか。人間的な存在感を放ちながらも、手足の長さと綺麗さが本当に同じ人間かどうか疑ってしまうくらい現実味がない。
生で会えた。しかもやはりスタジアムで見るよりずっと近い。ルリナさんの美しさに感動して、感動しすぎて私は震える以上の行動をとれなくなってしまった。
でも私が身動きとれなくなってしまったのは、ルリナさんの美しさだけじゃない。
オーラがすでに、只者じゃないと語っているせいだ。一瞬で視線を奪われる、なのに近寄りがたい。そしてこちらを騒つかせる、嫌じゃない不穏さ。その空気感こそが彼女がジムリーダーである証明のような気がした。
私の視界は必死にルリナさんを追っている。なのに、また、キバナの顔が思い浮かんで来る。
キバナも本当は、ああなのだ。遠巻きに眩しく見つめるしかできないような存在。思わず惹かれて近づいても、自分の方から恐れ多い気持ちになって、こちらが勝手に距離を決めてしまう。
あなたのファンです、あなたのバトルを見て感動したんです、あなたは私の目標です。そんなことを伝えた瞬間に、ファンとジムリーダーとして、自分から相手を突き放してしまう。そういう高みにいる人物なのだ。
輝かしさに惑わされて、一瞬、閃きのように近づいて。けれど瞬く間に遠い遠い場所の人間と化すはずだった。
「………」
再度、リフレインするキバナの声。に会いに来てるんだ。そう、言っていた。
おはようございます、よろしくお願いします。そんないつもの挨拶の後。店長の視線が私に突き刺さる。
「さん」
言われそうなことはもうわかっている。なので店長が何か言う前に自分から申告した。
「あ、すみません。今日の私、顔怖いですよね」
「ああうん、怖いと言うか、なんというか……不自然だね」
だって仕方がない。キバナが落とした予想外の爆弾は、一日で治るような代物じゃなかった。でもこれでも、心を落ち着けた方だ。今はバックにいるので顔が緩んでいる。けれど、仕事モードに切り替えればなんとななりそうなくらいにまで持って行けたのだ。昨夜、気持ちの切り替えに全力を注いだ自分を褒めてあげたい。
「何かあったの? 悩みがあるなら僕でよければ聞くけれど……」
「そんな大したことじゃないんです。実はですね。あの、こんな理由で申し訳ないんですけれど」
「うん」
店長がごくりと喉を鳴らしたのが見えた。本当に、そんな大層なものでもないので、私はまた申し訳なくなりながら店長に打ち明けた。
「キバナにですね、このお店に来るのは私に会いに来てるんだみたいな、そんな風にとってしまってもまあおかしくはないかな?そういうニュアンスはなくもないかな?みたいなことを言われまして」
「……、うん?」
「私、そんな風には全くおもってなかったので、正直かなり衝撃で……」
やっぱり店長からしてもかなり意外な事実だったらしい。ワンテンポ遅れて、店長が声を上げる。
「えええ!?」
「やっぱり、店長もびっくりしますよね!? 常連客がいても普通、『私に会いに来てるんだ〜』とか思わないですよね!?」
「いやいや、まさか……。いや……そりゃキバナさんは普通の常連客だったらそうは思わないけどさ……」
「やっぱりそうですよね!?」
「いやいやいや……、うん……」
僕はもう、なんて言ったら良いかわからないよ……。そうぼやく店長も、まるで昨日の私みたいにおかしな表情を浮かべていた。
出勤前のコーヒーを買いに来るお客さまの多い、モーニングタイム。まだ混じり気のない店内の空気に、エスプレッソから香りが立ち上る。
今日は早めに来るのではないかと思っていたキバナは、私の予想通りに姿を現した。
「おはよう」
「おはようさん」
本当は、昨日見かけて圧倒されたルリナさんみたいに、遠くなっても仕方がないキバナ。彼は今日もカウンター越しに、私からコーヒーを受け取る。
「どうしたんだよ。ロトムは」
そうなのだ。昨日の夕方、私はなんと、ロトムを納得させることに成功した。
キバナが朝早く顔を出すのではないかと思ったのもそれが理由だ。彼なら朝のうちに自分のブロックが解除されていることに気づいただろう。そして早めにお店に来て、直接私に「どうしたんだ」と聞きに来ると思っていたのだ。
「あー、やっぱり気になる?」
「オレさまはあんなに粘ったのに、オマエに任せたらあっという間だったんだ。気になるに決まってるだろうが」
「そう、だよね」
「どうやったんだよ」
私は曖昧に笑う。焦らしているわけではない。少し、言いにくいだけだ。やはりキバナは私が言うまで動く気はないようだ。カウンター越しに送られる、じっとりした視線に負けて私は口を開いた。
「キバナ、これから言うことに対して怒らないでね?」
「それは聞いてからオレさまが決める」
その返事、キバナらしいや。私はなんとなく、キバナの反応を想像しながら、昨日の自分を再現した。
「ロトムに言ったの。キバナなんかより、ロトムの方がずっと好きって」
「……、は?」
「ロトムのことが大好き、ロトムいつもありがとう、ロトムは私にいなくちゃいけない存在だよ、だからもうキバナなんか相手にするのやめよう? って伝えたんだよ」
「………」
「ね、ロトム」
そう言うと、私のポケットからスマホロトムが飛び出して、私に可愛い笑顔を見せて来る。大好きだと何回も伝えたおかげか、昨晩から私にべったりなのだ。仕事中はカバンの中で休んでもらうつもりが、離れてくれないので仕方なくポケットに入り込んでもらっている。もちろん、仕事中なので絶対に触ることはできないよ、と厳重に伝えた上でのことだ。
「ロトムは多分、キバナにやきもち妬いてたんだよ」
随分私になついてくれたロトムが、キバナだけをブロックした。おとといの店内でも、呼べば、キバナの前に立ちふさがるようにふゆうしていた。私がキバナにメッセージを返そうとすると、それを妨げた。
ポケモンにやきもちを妬かれるのには身に覚えがある。実際にロトムには毎日感謝しているので、それをちょっと盛って伝えれば、ロトムは快くキバナを許してくれたのだ。
「そういうわけでした」
「なんだこの敗北感は……」
がっくりと項垂れるキバナに共感する。蓋を開けてみればなんてことない、可愛い理由だったのだから。
「でも、なるほどな」
ぐっ、とキバナの顔が近づいて来て私は思わず息を詰めた。一瞬どきりと心臓が痛くなった。けれどキバナは私をではなく、私の肩近くにいたスマホロトムを視線で射抜いていた。
「オマエもの近くが良くなっちまったんだな」
至近距離で見た、キバナの好戦的な笑みには、さすがのロトムも驚いたらしい。ひゅん、と私のエプロン下のポケットに戻ってしまった。
「じゃあな」
「う、うん、がんばってね」
キバナが後ろ手に手を振る。モンスターボールを握るため、専用のグローブをつけた手だ。
あのグローブ、私はもうしばらく使ってないな、なんてことを思った。
私はもはや、ポケモントレーナーではない。そもそもポケモンとも暮らしていない。そんな私とキバナは、本来ならもう、他人同士に戻ってる方が普通だ。
キバナの立場なら、彼の周りは同じ高みを目指すポケモントレーナーがふさわしい。なのにそうでなくなった私が、まだキバナの友人を続けていられるのは、キバナのおかげなのだ。
自分がキバナにふさわしくないと思うことは多々あった。仲良く過ごしながら、彼の貴重な時間が私との間に流れることに、何度も後ろめたくなっていた。
だけど、キバナが言った、言ってくれた。理由はわからないけれど、彼自身が選んで、ここに来ている。私がいる場所を選んでくれている。
選ばれている。そう思うだけで、背筋が伸びる思いがした。
『オマエがいるからここまで来てるんだろうが』
あの言葉がリフレインする度にわき起こるのは戸惑い。そして、言うなれば勇気みたいなものが私にそっと寄り添ってくれる。
たとえ私のいるお店を選ぶ理由が、砂つぶみたいなものであっても。キバナがここに選んできてくれている限り、私は彼の目の前に立っていていいのだ。世間話をして、他愛なく笑っていていいのだ。
そんな安心感を、今日になって初めて手に入れたなんて、キバナは知る由も無いだろうな。またきっと私は変な顔をしそうになった。今回ばかりは湧き上がる気持ちのままに、笑ってみた。嬉しくなって見た。
だけどすぐにこのお店の喧騒と日常が押し寄せる。そして私はまた、しがない一人のカフェ店員に戻ったのだった。