後日談


 冷えた一日だった。季節の変わり目を示すように、陽も早々に沈んで、夜が来ている。今日の気温に体は動きにくさを訴えたものの、清冽な空気は寒い日の良いところだ。冷たさが私に目を覚ませ、と言うようだ。
 それに、寒いとホットコーヒーの売り上げも良い。思わず暖まりたくなったり、一息つきたくなったお客様が不意に入店してくるのだ。寒さでこわばっていたお客様が、マホイップが手から出したホイップクリームの乗ったホットドリンクを一口飲んで、顔をほころばせるところを目撃して嬉しくなったりもして。しっとりと静かながら忙しい一日だったなと私は振り返った。

 本日久しぶりに下ろした厚手の上着を脱ぎ、いただいたお菓子をテーブルの上に置く。このお菓子は店長から、マクワさんぬいぐるみに対するお礼だ。
 店長の奥様は結局キルクスまで行くことは叶わず、また家の用事で手が空かず、マクワさんぬいぐるみを買うことはできなかったらしい。つまり、私が送ったひとつしか、入手できなかったということだ。
 『すごく喜ぶと思う。ありがとう』。店長に感謝されて、あの日、ぬいぐるみひとつのためにキルクスまで遠出した甲斐があったと思った。と同時に、そういう人もいるんだと知った。人生の様々な事情で、他の物事を優先させなければならない人もいる。開店前に並べた私はやっぱり幸運だった。

 外の寒さに家の空気も冷え込んでいる。ホットコーヒーがよく売れる季節が来た。と同時に、寂しさが忍び寄ってくる季節が来たのだと、思った。
 一人暮らしの、暗い家に帰る。明かりと暖房をつけて待ってくれる家族も、帰るなりお互いの様子を確かめ合うポケモンも、今の私にはいない。文句を言うつもりはない。その代わり自由と自立を得ているのだから。だけど、寂しい気持ちになることもまた否定しない。

 部屋着に着替えたり、届いていた手紙を確認するものと捨てるものに選別したり、ランチボックスをシンクに出したり。私は夜のルーティンを無言で遂行する。
 不意に目があった気がしたのは、私が先日手にすることができたキバナのぬいぐるみだ。どこに飾ろうか迷って、今は本棚にちょこんと座らせてある。

「……ただいま」

 ぬいぐるみに、思わずそう話しかけたくなっていた。いや話しかけていた。まるでこのそら寒い部屋で、この子が私を待っていてくれたみたく思えたのだ。
 自分に都合が良い考えだと思う。でもキバナの特徴をうまく閉じ込めたぬいぐるみは意志を持たないまま、私のつぶやきを吸い込んでくれた。

 そのままちょん、とほっぺを指でつついてみる。彼のすべすべとした薄い頬とは違い、ふわふわと柔らかい。
 こういうものは久しぶりに買った。大人になるとプレゼントされることもほとんど無い。
 キバナは私に聞いてきた。はオレさまのぬいぐるみを買って、これをどうするんだ、と。キバナは意地悪にいろんな勘ぐりをしてきたが、実際私はどうするつもりもなかった。
 ただ、いて欲しかった。近くにあって欲しかった、私の所有物であって欲しかった。存分に眺めて、好きなだけかわいいなぁと胸をときめかせていたかった。それだけなのだ。

 しん、と静かな部屋。じっとぬいぐるみに視線を注ぐ私を咎める人もいない。だけど、不意に私を引き戻したのはコール音。顔を上げると同時にスマホロトムが私の近くに翻って、画面を見せてきた。
 キバナからだ。
 発信者の名前を確認して、珍しいなと思いながらも戸惑いなく応答した。

「どしたの」
『いや……』
「今は家?」
『いや外だが、もう着く』
「私も帰ってきたところ」
『だろうな』

 キバナは私の退勤時間、というかお店のシフトパターンを粗方知っている。というか勝手に覚えてしまった。そこから予想がついたのだろう。
 今日のキバナはなぜだか歯切れが悪い。だけども電話を切ろうとも、話題を切り出そうともしないので、私は肩をすくめて雑談をなげかけた。

「ダンデのぬいぐるみに続き、キバナのも在庫切れになったんだってね。おめでとう、かな?」
『まぁリーグ委員会の方は喜んでるんじゃないか?』

 これがファンだったら「ありがとうな」くらい言って愛想よく手でも振るのだろうけど、キバナは率直にそう言った。

「大人気で嬉しい反面、大変そうだよね。オンラインで再販予約受付開始って聞いた」
『今回のは相当すごかったとはオレも聞いてるな』
「やっぱりさぁ、人気トレーナーのぬいぐるみを一挙に売り出すのは無茶だったんだよ」
『ほんとだよな』

 スマホの向こうの息が笑う。なんだかそれを聞いて、私までホッとしてしまった。自然と唇の形が笑みへと変わる。
 一人暮らしだと無表情になりがちなのが、キバナからの一本の電話、いや一回の息遣いによって空気を入れ替えてもらった気分だ。
 自分の息も微笑に震えたことで、こわばっていた感情がゆるりと流れ出すのを感じる。お店でキープしている笑顔と、こうやって笑顔にさせてもらうのはやっぱり違うなと、痛感してしまった。

 彼の気配の奥で物音がする。キバナがキーを扱う音。ドアを開ける音、閉まる音。それからボールから出だがった彼のポケモンが飛び出してあげた声。

「キバナ、おかえり」

 私の”ただいま”は彼のぬいぐるみに聞いてもらった。私と同じく一人で暮らすキバナの”ただいま”を私が聞いてあげても良いだろう。

『……ああ、ただいま』
「今日は、寒かったよね。お疲れさま」

 私とキバナはお互いにもう大人で、自分の面倒を見ながら暮らしていける。それぞれが選択した生活を、続けていける。同じように、不意に受け止めてもらえる存在を求める気持ちも持っているのかもしれない。
 彼も寒い一日に、私みたく寂しさの存在を見つけてしまったのかな。だから、電話してきたのかなと考える。

 誰かこういう人、実は他にもいるんじゃないかな。もしかして今日じゃ無い日は私以外の人にかけていたりして。なんて考えもふと頭に過ぎったが、寒さのせいにして、私はネガティブな気持ちを振り切ることにした。今は、この電話の向こうがキバナに繋がってることを慈しもう。

 こういう後ろ向きな気持ちがすり寄ってくるのもまた、寒い日だなぁ。それを理性的に考えられるのも、またいくつもの季節が過ぎ去ったことの証拠なのだと思った。