よくわからない

 いつだったか、言われた。心配なんだ、と。難しい顔をしたキバナに。
 記憶の端々は欠けてしまっていて、前後のやりとりや時期なんかは思い出せそうで思い出せないが、確か、私はなんだそれ、と一笑したはずだ。だって子供に言うならまだわかる。けれど、すでに大人になり、もう一人で生きようとする私を真剣に不安がるキバナは、ちょっと、理解できなかったのだ。




 スタジアムにほぼ行くことができないという私の事情は、この職業においては案外利点となっている。皆が行きたがるリーグの試合のスケジュールには全く惑わされないし、試合を見るとしても録画派だ。なので、他の人にありがちな「その日は応援してるトレーナーの試合があるので」というシフト変更は起こさない。店長も同じように、私は安全圏だと思ってるのだろう。
 着替えをすませ、カバンを持ち、さあ帰ろうとする私を店長は引き止めて、言った。

「シュートシティ店からヘルプの依頼が来てるんだ。さんに、お願いできるかな?」

 特別手当がついてくるヘルプかつ、何度か行ったことがあるシュートシティ店と聞いた時点で私はほぼ頷くつもりでいた。
 もちろん交通費も出るし、別店舗に行って気分を変えたり、いつもと違うスタッフと働くのは良い刺激になる。それに店長は、私の腕や経験なんかを信頼して、このスタッフなら他店舗にやっても大丈夫と思ったから声をかけてくれている。だから、信頼に応えたいというのもひとつの思いだ。
 それにやっぱり手当の追加はちょっとテンションがあがる。コツコツでも追加の稼ぎは、私の家計には重要なのである。

 それでも一応条件を聞きたいので、私はワンクッションを入れた。

「向こう、大変そうなんですか?」
「うん、人手不足でどうにもならないみたいだよ。今回は四日間で、時間はいつものさんの勤務時間のまま」
「なるほど……。わかりました、行きます。むしろこっちを四日開けてしまいますが、よろしくお願いします」
「助かるよ、ありがとう!」

 店長はすぐさまシュートシティ店に当てて電話をかけ始めた。こういう連絡は早い方がいい。私も忘れないうちに、自分のスケジュール帳にシフトの訂正を書き入れる。

 シュートシティ店は、ヘルプは以前に何回か行ったことがある。確か倉庫の位置が特殊なんだよな、といつぞや行かせてもらった店舗を私は思い浮かべた。
 平時でもあの街は人が多いのに、シュートスタジアムでは大きなイベントが開かれるので、ナックルシティにあるうち以上に、なかなか大変そうな店舗だ。
 お客さんが行くときと帰るとき、両方が修羅場となる。私はそのピークより前の時間帯をヘルプして、慣れた店員をピーク時に集める方針なのだろう。

「じゃあ、よろしくね!」
「はい」

 すっきりした顔の店長に向け頷くと、私は今度こそ帰路に着いた。

 シュートシティへ、四日間のヘルプに行く。週の半分を別店舗に通うのはなかなか大変そうだ。
 でも特別手当もつくし、シュートシティで美味しいパンでも買ってちょっと贅沢してしまおう。そう考えると気持ちもわくわくしてくる。あそこは都会だから新しいお店が多くて、楽しみだ。

 もうひとつ、帰り道で考えるのはキバナのことだった。
 四日間、いつものお店を空けることを、キバナに知らせるか迷っている。普通の友人なら知らせない。だからこんなことで迷うのも、おかしい話だとわかっている。だけど、妙にあの顔がチラつくのだ。

 まだ見ぬ新しいお店や美味しいパンの想像はいつの間にやら追いやられ、今はキバナのことが頭を占領している。

 キバナという案外様々な表情を知っているあの男のことを、私はときどき、どの枠に入れたらいいかわからなくなる。基本的には、気の知れた友人だと思う。息抜きするにしても、雑談するにしても、お互いの存在が丁度良い。考え方は全部同じといかないが、お互いの差異は、丁度良い。それとタイミング良く、そこにいるのがキバナだ、ということもよくある。
 キバナもそうなのかもしれない。私であってほしい理由はさほどないけれど、でも、たまたま私がそこにいたから構っている。そんなもんなのかもしれない。

 連絡を入れないのは私としては落ち着かない。うまく言えないけど、した方がスッキリするのはわかっている。

「けど、やっぱり不自然だよなぁ……」

 たった四日間の不在を、普通友人に知らせるか? 知らせないことの方が大多数だろう。それに私がそんな連絡をしたとして、キバナに何かメリットがあるだろうか。メリットなんてなさそうだし、デメリットも皆無だろう。

 帰り道。私は胸にモヤモヤを抱えつつ、ポケットの中で何度かスマホを握りしめた。けれど、結局道端で取り出すこともなく、指先を温めるだけにとどまった。




 今日のヘルプ先であるシュートシティの店舗は席数が多い。効率を求め、席の間も詰めてたくさんのテーブルが用意されている。それも合間ってか、回転が早く忙しい。
 ハサミひとつ、布巾一枚でも、いつもと場所が違うのだ。メニューとレジシステムだけは統一されていることが救いだ。慣れない動きに戸惑うものの、それはお客様には関係のないことなので、笑顔で仕事を進めた。

 それが起こったのはお昼過ぎだった。お店のバックヤードが、急に騒がしくなったのだ。
 数人が戸惑いを浮かべて、何かを話し合っている。何かトラブルが起きたであろうことは、明らかだ。

 部外者の私が何かできるとも思わない。むしろお店自体が混乱しないように、レジやキッチンを通常通り回しておいた方がいいだろう。指示があったら従えばいい。そう判断して、私はあえて関わらないようにしていた。

 ただ、他スタッフが動揺する声は、カウンター内にいた私には聞こえてしまっていた。

「こういう場合って警察か? 迷子だもんな……」

 迷子、というワードにぴくりと予感が反応する。

「道案内しないと、多分また迷っちゃいますよね……」
「近いからリーグ委員会の人とかが来てくれたら嬉しいんですけど……、電話してみますか……?」
「にしてもチャンピオン、一体どうやって……?」

 道案内、リーグ委員会。線で結ばずともすでにもうくっつきそうな点と点たちが、会話から私の耳に入ってくる。そしてチャンピオン、という言葉に首筋にたらり、と垂れる変な汗。
 もう私の頭の中には以前にも偶然出会えた友人の顔が思い浮かんでいた。またやってるのか、でも私は仕事中なのでどうにもできない、まあ街の親切な人が彼を誘導してくれるだろう。そう考え、私は彼のことを頭から振り切ろうしたのだ。

「あー、一応連れて来ちゃいました」

 でもその言葉には振り向かざるを得なかった。バックヤードで興奮と戸惑いがない交ぜになったスタッフに囲まれている彼と、ばっちり目があう。
 この名前を迂闊に出すと、お店が大変になることはわかっている。でも全く予想していなかった遭遇に、私は思わず引きつった笑いとともに彼の名前がこぼれ出る。

「ダンデ……?」
!」

 バックヤード、キッチン越しの数メートルを挟んだ距離でも私が彼だとわかったように、ダンデが私を見つけ、笑っていた。