起床時間、城壁の横を通る石畳の通勤ルート。朝のナックルシティの空気を胸いっぱいに吸い込むと、実感が湧いて来る。シュートシティのヘルプを無事に終え、何もかもが私の日常に戻ってきた、と。
私からのおこぼれを期待して待ち構えるクスネ、預けられたキーで開けるシャッターに、ロッカーに自分のバッグを預ける音。それから挨拶を交わす店長も。
「おはようございます、店長」
「おはよう、さん。ヘルプどうもありがとうね、お疲れ様」
「いえいえ。いつもと違う場所だったのでお役に立てたか少し心配です。あ、これお土産です」
気持ちばかりのものですけど。そう一言添えながら小さな箱を店長に差し出す。中身は小包装のパウンドケーキが5つほど入っているものなので、謙遜でなく気持ちばかりの品だ。
「いつもお世話になってます」
「お気遣いありがとうね。お、なんだか洒落たお菓子だね」
「キバナに教えてもらったんです。彼は私より流行とか新しいお店だとかに詳しいので」
まあその情報代として、彼にも手土産を買うことになってしまった。私のロッカーにはキバナに渡すために買ったお菓子がしまわれている。
どうせ今日も彼はルーティーンの一環でコーヒーを買いにくるだろう。仕事終わりの帰り道でもいい。その時にさっと渡して、まあ彼の嬉しそうだったりとか、ちょっと驚いた顔が見られたりしたらいいなと、キバナの表情を思い浮かべながら開店作業に取り掛かる。
事務室から店内への通路、手を伸ばした寸分違わぬ場所に置いてある手慣れたコーヒーマシン、レジ奥から見る外の通り、行き交うナックルシティの人々。私の日常は確かに元に戻り始めていた。
けれど、私の日常を成す最後の1ピースであるキバナは、明日になっても明後日になっても、一向に店先に現れてくれないのだった。
今日もキバナは店先に現れなかった。ふう、と吐いたため息。レジ前でこんな顔をしていれば、キバナなら真っ先に気づいて気遣ってくれる。だけどそのキバナの声も姿もないので、私は自分で自分の気を引き締めて、お客様が話しかけやすいようなスマイルを浮かべる。
キバナがお店に来ない理由はだいたい想像がついている。単純に忙しいのだ。
トップジムリーダーとして、一人のポケモントレーナーとして、ガラル指折りのインフルエンサーとして、キバナはもともと多忙気味だ。多忙の理由は、彼が統べるのがナックルジムであることも関係しているらしい。ただの凄腕ポケモントレーナーにとどまらず、ガラル地方の歴史を伝える宝物庫さえも管理する役目をもキバナは担っているらしいのだ。
多忙を表すように、彼のSNSは投稿頻度がガクンと落ちている。投稿があってもポケモンたちや風景の写真、それに過去に撮影されたワンショットばかりだ。今現在のキバナは、あまり自分を撮る余裕がないのだろう。朝、一杯のコーヒーさえ買いに来られないほどに。
それでもいずれ、お店に疲れた顔くらい見せに来るだろうと思っていたのだけど。
浮かべていたスマイルが急に剥がれ落ちて、私はまたため息をついてしまう。あっという間の二週間がすぎてしまった。
仕事終わり。私は改めてロッカーに置きっ放しだった紙袋を取り出した。
「これ、どうしよう」
私の手の中にあるのは、キバナのために買った焼き菓子だ。紙袋の中はずっしりと重い。
彼が忙しくしてることは構わない。ただ杞憂してしまうのは、渡せずに時間が経っていくこのお土産の行方だった。
やっぱり三日後だ。念のため箱の裏を確認すると、数日後に期限が迫っていて思わず肩を落とした。
『ここの茶菓子、特にパウンドケーキはオレさまもジムトレーナーたちも大好き』
メッセージでそう添えられたキバナの言葉を信じて、キバナだけじゃなくジムトレーナーさんたちも楽しめるよう奮発して買ったのだ。なので、紙袋の中身は重たく、一人で食べられる量でもない。
もっと日持ちするお菓子を選べば良かったな。キバナならそのうち会える。そう高を括ったせいで、賞味期限は刻々と迫っている。
あまり、自分から彼に近づくのは気がひける。しかも多忙を極めている時に。けれど、食べ物をみすみす腐らせて、粗末にするのはもっと気がひける。
私は帰り支度を済ませながら、ロトムを呼び出す。
「……ロトム、キバナにメッセージを送りたいんだけど」
そう言うとロトムがさっ、とメッセージ画面を開いてくれる。画面には二週間前のやりとりが残っていて、それきりで途切れている。
キバナは今、何してるんだろう。不可思議で浅い緊張を握りしめながら、私はぽちぽちとメッセージを作成する。
『シュートシティから買ってきたお土産を渡したいんだけど、いつ届けに行ったらいいかな?』
忙しいからスマホも見ないかもしれない、気づいてても返事まで気が回らないかもしれない。その覚悟もしていたのだが、私が退勤を済ませて夜道に出る頃にはロトムが光って私にメッセージの到着を知らせる。
『いつでも来いよ』
短すぎるそれが、二週間ぶりのやりとりだった。普段ならその短い返事が何も気にならないはずなのに、私は途端にむず痒さを覚えた。いつでも来い、それだけの言葉じゃ今キバナが元気にしてるのか、どんな状況なのか何も伝わってこない。
紙袋の紐を握りしめて、言葉にできないささくれ立った気持ちを抑え込むと、また返事を打つ。
『さすがに今からは困らせちゃうよね? いつがいいかな』
『まだしばらく帰れないから、来てくれて構わねえぜ。受付に言っておく』
返事を読んで血の気が引く。帰れないだなんて、やっぱり相当な忙しさだ。もしかしてナックルジムに寝泊まりしているんだろうか。それならわざわざお店に来ることもできないはずだ、と今日まで顔を見せなかった事情にも納得がいった。
夜道、スマホロトムの明かりに照らされながら私は立ち尽くしてしまった。このお土産を手に進むべきか、それとも自分の家に帰るべきか、一挙に分からなくなってしまったのだ。
本当に、お菓子の賞味期限が切れそうだからなんて理由で、私は会いに行っていいのだろうか。キバナはきっと開店するよりも先にジムに向かい、閉店したお店の前を通って家に帰ったりしているのだ。なんだか、こうしてメッセージをやりとりする少しの時間だって、キバナから奪うことに気が引けてしまう。
どうしようかと悩んでいる私へ、再びおいうちのようなメッセージが届く。
『来るなら、はっきりそう伝えてくれ』
確かに、悩んでいてうやむやにすることもまたキバナの負担になってしまう。彼の負担にならないことを一番に考えるなら、私は態度をはっきり示した方がいい。
さっと行って、さっと受け渡せばいい、それで用事を済ませればあとはお互い煩わしいことは何もせずに済む。この期限が切れそうなお菓子さえなければ、私は彼が来ないことにそわそわせず、お店でキバナをただ待つことができる、はずだ。
いくつかの方便で自分をなだめて、私はキバナに会いに行く決心をしたのだった。
私が向かうのはナックルシティの西側。簡単に言うと宝物庫がある方だ。いわゆるナックルジムと呼ばれるエリアはスタジアム機能がメインで、実質的な業務やトレーナーたちの特訓は宝物庫の方で行っている。キバナが世間話のなかで言っていたことだった。
宝物庫は閉館の時間を迎えているが、窓や受付にはまだひっそりと明かりが付いている。受付は無人状態でどうしたものかと思っていると、運良くジムトレーナーさんと思わしき男性が通りがかってくれた。
「あの、遅くにすみません。キバナさんの友人のと申します」
言ってから後悔する。他に何か無かったのか、自分。なにせあのキバナさまだ。友人と偽ってキバナに突撃をかけるファンも少なくないと聞く。私、これじゃただの不審者じゃないか。
でも他に上手い言い方がわからない。自分でも、他に何か良い自己紹介がないかと思うのだが、何も出て来なかったのだ。
「あの、本人呼び出せとか言わないので! これキバナに、じゃなくてキバナさんに差し入れです!」
このままじゃ本気で不審者扱いされてしまう、体良くあしらわれてしまうかもしれない。内心焦って取り繕おうとするとするも、ますますドツボにはまった気がする。
こういうキバナファンは多いことだろう。応援の気持ち、とかいって受け付けていないプレゼントを渡そうとするのは厄介ファン扱いをされてしまう。しかも焦っていつも通りの呼び捨てを繰り出してしまった。この見知らぬジムトレーナーさんからしたら勘違い女に見えてるに違いない。どうしたらいいんだ、これ。
「これ届けたいだけで、もう帰りますので……!」
冷や汗がだらだらと滲む私に対し、ジムトレーナーさんは疲れた顔をして、内線をかけている。その表情はまた面倒なタイプのファンかとため息をつかれているように思え、とにかく目的のお土産だけ届けようと紙袋を突き出した時だった。
「お待たせしました、キバナ様なら今は地下資料室です」
「あ、え……!?」
「お手数ですけど名前を書いて、来館証は持って行ってください」
「……、はい……」
「階段降りたらまっすぐ進めば地下資料室です。階段を降りたところに案内板もありますので。お気をつけて」
どうやら受付に言っておく、というキバナの言葉は本当だったらしい。そうじゃなきゃこうまでスムーズに話は通らないだろう。
予想外だったのは、ジムトレーナーさんが私自らキバナの元へ行くよう、案内してくれたことだった。私がここをそんな自由に歩いてもいいのだろうか。戸惑いは抱いたが、質問する間もなく、ジムトレーナーさんは書類片手にどこかへ消えてしまったのだった。