名前と連絡先を記入し、受付に並べてある入館証を手に取る。先ほど案内された通り、人気のない階段を降りて行く。ジムトレーナーさんの言う通り、階段横の案内板は丁寧に書いてあり、その通りに進む。
私の靴音がよく響く、古い作りの宝物庫の地下。壁などは新しい素材で補強がなされているが、地下の通路となると妙に雰囲気がある。無人であること、もう遅い時間であることもあって、まるで夜の博物館を探検している気分に近く、胸が不穏に高鳴った。
廊下にせり出したプレートを見て、部屋の名称をひとつひとつ確認しながら進む。
地下資料室。廊下の奥まった入り口に、そのドアはあった。
ガラルの歴史が眠る宝物庫。本当に私が開けていいのかな。何も起こさないよう気をつけて、渡すものを渡したささっと退散すればいいのだ。ここまで来てもつきまとう迷いを振り切って、そっとドアを押す。鍵はかかっていなかった。
「キバナー……?」
あのトレーナーの話通り、ここにキバナがいるのだろうか。彼の名前を呼びながら、後ろ手で戸を閉める。
地下資料室は資料保管のためか、かなり薄暗い。返事はなかったが奥で誰かがライトを点けているのが見えた。私はそろそろと僅かばかりの光が照らす、棚と棚の間を進んでいく。
狭い通路の奥に、広いキバナの背中が見えて来た。だが、特徴的な髪型も見えず、奥に置かれた机に突っ伏しているようだ。
どんどんと近づき、すぐさま背後に立った私にキバナは反応せず、彼の肩はゆっくりと大きく揺れている。私はようやくこの部屋の静けさの正体に気づいた。
「寝てる……」
腕に埋まった瞼はあの青い瞳を覆い隠している。キバナは気分が凪いでいる時は穏やかな表情を見せるが、一層気の抜けた、言ってしまえば大の男にしては可愛らしい寝顔がそこにあった。
本来なら家に帰っていてもおかしくない時間だ。本当なら自宅で疲労の溜まった体をベッドに投げ出したいはずだ。それもできずに、彼の体格には小さく硬い机に身を預けて眠る姿は、痛ましいの一言だった。
「お疲れ様」
思わずそう囁くと、私は彼の寝顔を照らすデスクの明かりを消した。明かりの下では睡眠の質も悪くなる。部屋を暗くして、少しでも体を休めて欲しいという思いから起こした行動だった。
だけどデスクライトのスイッチは予想以上に固かった。指で押し込めると案外派手に、パチリという音がなった。まずい、と思った時にはもう遅い。キバナが瞼を震わせ、あくびをかみ殺していた。
「……なんだ、来てたのか」
「ごめんね。寝てたのに起こしちゃった」
「寝ちまってて悪かったな。ずっと色々呼び出されたのが、部屋が静かになった途端にまぶたが重くなってきてさ」
「お疲れ様、大変な立場だね」
目を擦るキバナ。とりあえず少し寝られたことで顔色はそこまで悪くないようだ。
「来てくれてサンキュな」
「お礼を言われるようなことは特にないけど。私こそ、忙しいのにごめんね」
「それと、に謝りたいことがある。悪かったな、書き方がぶっきらぼうで」
「なんのこと?」
「”来るならはっきりしろ”は余裕がなさすぎた」
「ああ、メッセージのことか」
キバナが気まずそうに頷く。なんのことかと思えば、メッセージの言葉遣いがキツかったことを謝ってくれるらしい。あまりに些細なことで思わず笑ってしまった。それに、むしろ私はあのキバナの言葉に背中を押され、ここに来る決意ができたのだ。悪い気は全くしていなかった。
「ううん、忙しくしてる時に来るか来ないかわからないと、落ち着かないよね」
「そう、だな。期待を持たされたままは正直しんどいぜ」
「ごめんね、期待の代物だよ」
そう言って紙袋を差し出す。キバナは始めきょとん、とした顔をしていたが、すぐに先々週のやり取りを思い出したらしい。
「素敵なお店をオススメしてくれてありがとうね」
「随分色々買ってくれたんだな」
「うん、ジムトレーナーさんたちも大好きってキバナが言うから、ちゃんとみんなの分買って来たよ」
「そうか、そうか……」
キバナは笑って受け取ってくれたが、やっぱり笑顔には疲れが見える。
「あとさ。ここ、私が入ってよかったのかな。かなり不安なんだけど」
「オレさまが大丈夫だって言っておいた。ここは大事なもの置いてるんじゃなくて、過去の記録関係が置いてある部屋だ。それにオマエはその辺の奴よりよっぽど常識人だからな、そこかしこを開けたりしないだろ」
「まあ勝手に開けたりはしないけど……」
「それにここは特に機械がないからオマエの場合は心配なし」
なるほど、納得がいった。確かに、私がやらかすのは基本的に機械が絡んでいる時だ。資料をただただ保管するこの場には、温度計湿度計、それに弱いライトくらいしか見当たらない。
指摘を受けて急に安心して来た。なんだかんだ、キバナには行動というか性格を把握されているな、と感嘆してしまう。
「なるほどね。キバナの言う通り、……」
「………」
不意に、沈黙が訪れた。なぜだか、キバナと無言で見つめあってしまう。
キバナがなぜ押し黙ってしまったのかはわからない。
私が言葉を失ってしまったのは全く別の、二つの気持ちに囚われたからだ。
片方は、あまり迷惑をかけるわけにはいかない、用事は終わったのだし早く帰ろうという気持ちだ。だけど、私はここにいても大丈夫なんだという、相反する安心が私の頬を撫でるのだ。
長い仲だ。どちらも喋らない時間なんて気にならないはずなのに、私はどきまぎし始めている自分に気が付いた。
久しぶりに顔を合わせるせいだろうか。いいや、少し時間が空けることなんて今まで何度もあった。今日は、今までとは何かが違って、私を緊張させてくるようだ。だけど、その何かがわからなくて、私の混乱はどんどんと深いものになっていった。
不意に、パチン、という音がして落ちたのはこの資料室の照明だった。最後に残っていた通路の薄ぼんやりとした灯りが消えてしまったのだ。
「え」
「は?」
お互いの戸惑う、小さな声。それから重い扉の閉まる音に続いて、鍵のかかる音。通路のわずかな灯りまで消え真っ暗になった部屋でも、私はキバナがいた方を見た。キバナも私を見ていたと思う。
テーブルの明かりがつくと想像通り、私を見つめながら驚いてるキバナがいた。
「ま、まさかなー……」
「まさかって?」
「鍵閉められたわけ、ないよなーって」
「いや音してたよ……?」
僅かな望みをかけて二人で出口を確認しにいくも、無情にも施錠されたドアが口を閉ざしている。
「あちゃ……。私たちがいるって気づかれなかったんだね。どうしよう、キバナから誰かに連絡してくれる?」
「いや、ここ、地下だから無理だな」
「え。……それならポケモンたちの力を借りることは……」
「ここ、資料室だからあんまり影響ありそうなことはしたくねえ」
「じゃ、じゃあ……」
「閉じ込められたな」
あまりにあっけらかんと言うキバナの言葉を信じたくなくて、ドアを前後にゆするもびくともせず、スマホを見るも電波は拾っていない。
閉じ込められた。その事実を飲み込んだ私はへなへなと座り込んだのだった。