あの日はもうここに無い


 開かないドアを前にしてもう2時間が経ったらしい。通信のできないスマホが無情に過ぎて行った時間を映し出している。
 ドアを叩いてみたり、どこかで電波を拾えないかと部屋中をうろうろしたものの、状況は一向に変わらない。状況を受け入れたくない一心で足掻き続けている。だけどここの主でもあり、建物の構造も他トレーナーの行動もわかっているキバナが早々に諦めてしまっているのが、私の絶望感を深めた。

 後悔。渦巻くのはそればかりだった。久しぶりに会えたキバナに、名残惜しさなんて感じずに、早く帰ればよかったのだ。
 それに、私が変な気を利かせて机の上のライトを消したから。部屋は暗く、二人して変に黙り込んでしまったから。そのせいで通りがかった誰かにこの資料室は誰もいないと勘違いされてしまったのだろう。

「ごめんなさい、本っ当にごめんなさい」

 この数時間でごめんをキバナに言うのはもう30回は超えている。キバナは飄々としたもので私みたいに焦った様子はない。

「オレさまがいるからなんとかなるって思わねえの」
「……思う」
「よし」
「なるの!?」

 やっぱりキバナだ、ナックルジムのジムリーダーだ。頼りになる。
 え、今まで私がうろたえてた2時間ってなんなんだろうという気持ちが脳裏を過ぎりつつ、自信に満ちた笑みを浮かべる彼を期待の瞳で見上げる。
 だけど期待もむなしく。キバナは肩をすくめた。言葉がなくても伝わってきたオチに私は思わず頭を抱えた。

「どうにもならないんじゃない……!」
「圏外は痛いな。それにオレさまとしばらく連絡つかなければ誰かしら探しに来ると思ってたんだがな。オレさまの声かけ通りみんなちゃんと帰ったらしい」
「つまり、ナックルジムにはもう私達以外いないってこと?」
「もうこんな時間だからな」

 確かに日付変更も近づいてきていた。加えて今日は週半ばで、明日も平日。業務が待ち構えてることを考えれば、賢明なエリートトレーナーたちなら帰宅して、シャワーでも浴びているような時間だ。

 明日は平日。休みではない。その事実は私にも重たくのしかかる。
 私はつい先ほどキバナに渡したはずの紙袋を指差して言った。

「キバナ、これ食べていい……?」



 かくして地下室に閉じ込められた私たちは小さな夜のお茶会を開き始めた。
 わずかな明かりの下、焼き菓子で口の中がパサつくのを、バッグの中に入っていたペットボトルの水をちびちび飲むことでやり過ごす。なんだか子供の頃に企てた、サバイバルごっこみたいな状況だ。

「ん、ウマい」
「ほんと。さすがキバナのおすすめだね」

 シチュエーション自体はイマイチなものの、舌に広がる味にふっと気持ちを上向きに持っていかれる。賞味期限ギリギリでなければもっと食感が良かったかもしれないと思えるのが惜しい。
 焦ってばかりいたけどここで食べ物を口にするのは我ながら良い判断だったかもしれない。お腹が満たされていくにつれ、悲壮感から抜け出せて、素直に元気がわいてくる。

「いやー、いいサボりができてオレさまは正直助かってるわ」
「うそだ。サボってる人のデスクじゃないよ」

 私は思わず反論した。デスクライトは再点灯され、資料がいくつか広がっている。
 恐らく機密情報を含むだろうし、覗くことはできない。なので私は壁にもたれかかって座り、部屋の壁に落とされるキバナの大きな大きな影ばかりを見ている。

「全然サボってるようには見えない」
「普段だったらあっちこっちからキバナさまキバナさまーって呼ばれながらやってるんだぜ。こんな静かな環境で集中してやれるのはいい気分だ。オマエもいて、久しぶりにゆっくり話せるしな」

 反応に困ることを言われ、私は逃げるように自分の膝を強く抱えた。
 私も、キバナと話せることは嬉しい。だけどこんな困らせるような状況を望んでいたわけじゃない。ただいつものようにふとしたタイミングでキバナが店先にきて、私もいつものカップを渡す。オマケのようにほんの少しだけ、たわいもない言葉を交わす。欲しかったのはそれくらいなものだ。

からの通知でトークの履歴見て、オレさま驚いたぜ。一週間以上も経ってたのか、って。忙しすぎて時間の感覚狂ってたなって気付かされたわ……」
「私もヘルプ行ってたから、ますます久しぶりになったね。実質二週間ぶりくらい?」
「どうだ、。オレさまがいなくて多少は寂しかったんじゃねえの?」
「別に、たまにあることじゃない。忙しいんだろうなって思ってたよ」

 キバナがお店のドアを開けないこと、カウンター前に立ってくれないこと、帰り道が一緒にならないこと、カフェ偵察のお誘いもこないこと。
 寂しかっただなんて、思っていない。ただキバナが来ないと、自分がナックルシティに戻って来た実感が湧かなくて、ひたすらに落ち着かない日々がそこにあっただけだ。

「……オマエは、さ」

 資料に目を落としたまま。もっと言うと感情を読ませない、薄い膜を纏ったようなキバナが言う。

「やっぱり、ずっと近くにいたものがいなくなっても、寂しいって思わないタイプなの?」
「うん?」

 含みがある言葉遣いで私は首を傾げた。まるで、私が寂しさを感じない人間であるような言い方だ。しかも今までにそういう側面を見たことがあって、まるで確かめるかのような。
 なぜ、キバナはそう考えたのだろう。私が、寂しいって思わないタイプだと。
 私が以前何かしたんだろうか。そんな、感情がないみたいに思われるような行動を。腑に落ちない気持ちを抱えながら、私はありのままを答える。

「そんなわけない、と思うけど。寂しい時は寂しいよ。もし普通に見えたなら、それは単に平気だった、ってことじゃない?」
「同じじゃねえか」
「同じかなぁ?」
「………」

 こちらから問いかけを投げたつもりだったけれど、キバナは押し黙ってしまった。
 ますますキバナが何を言いたいか、さっぱりわからなくて、私は微かな不安に見舞われる。
 二週間弱ってそんな、長い時間だっけ。ちょっと時間が空くと会話が噛み合わなくなるような、私達はそんな脆い関係だったっけ。そんなことないよねって私が言いそうになるのと同時に、信じたいと思ってるそれは幻なんじゃないと誰かが囁く。長く深く私はため息を吐いた。全く、こんな場所から出られないせいで本当に気が滅入ってくる。

「あー……、キバナ。私、もう寝るね」
「は?」
「ここから出られたら即家に帰って即シャワー浴びて、出勤したいの」

 キバナは面白いくらい目を丸める。

「本気か?」
「出られるのが何時になるかわからないし、寝られる時に寝ておかないと、明日動けないから……」

 焼き菓子を食べたのも、明日のためだ。食べられるものを多少でも食べて寝ないと、きっと明日、朝から働くことができない。
 あたりの埃を払って、私は地下室の床に寝転がった。床の上の寝心地はそんなに良くない。けれど私は元は旅するポケモントレーナーだ。様々な場所でのキャンプの経験からすれば、しっかりした屋根があるだけでいいものと思える。

「オマエ、巻き込まれた側だろ? こういう事態なんだから説明して、休ませてもらえよ」
「うん。店長は優しいから、ちゃんと理由があればいいよいいよって言ってくれると思う」
「じゃあ」
「でも私は、簡単に穴開けて平気に思われるような、その程度の仕事はしてないつもり」

 この気持ちは多分、ちっぽけなプライドでできている。きちんと休めないままお店に向かうのはきっと相応にしんどいだろう。だけど、休んでいいよ、きみがいなくてもこっちは大丈夫。そう言われる方が寂しい気がしてしまう。だから、私は明日も働く心算でいる。

「ま、それもそうか。ちょっと帰れないだけだしな」
「そうだよ。別に怪我したわけでもないし」
「頑固者のお前らしいな」
「……私って頑固?」
「絶対そうだろ!」
「ふーん」

 そうかな、私って頑固なんだろうか。なんだかんだ長い付き合いのキバナが言うなら、ある程度の信憑性はあるかも。
 考えていると、キバナがデスクのライトを弱め、寝そべった私の横に移動する。何をするかと思えば、キバナも私の横に、寝そべり始めたのだった。

「キバナも寝るの?」
「少し休むだけだ。寝られる気はしねえ」
「疲れてるんじゃないの?」
「さっきうたた寝したから割とスッキリしてるんだ。それに誰かが来た時にまた二人して寝て、気づかれなかったら嫌だろ?」
「確かに」

 言いながら、私はずりずりと床を移動する。お互いの肩の高さを合わせるように。それを見て、キバナが呆れたように目を細める。

「……なんでこっち向くんだよ」
「視線が同じ高さって新鮮な気持ちだし、ちょっと昔みたいだから」

 私が思い出すのは、二人でキャンプをした時のことだ。あの頃はお互いに体が出来上がっていなかったから身長差や体格差も今ほど離れていなかった。どちらかの眠さが限界になるまで旅のことやポケモンのことを小声で話すから、必然的に顔は近かったものだ。

 思い出をなぞっていると、変わってしまったもの気づかされる。
 目線を合わせると、下の方ではキバナの足が盛大に余っていた。私のつま先の先で、ずっと遠くまで伸びているように見えるキバナの足が、機嫌良さげに組まれている。
 あの頃はこの距離で顔を覗き込んでも、話したいことで頭がいっぱいだったのに、今は少し近いというのが気にかかって、胸が高鳴ってくる。
 キバナは少し照れくさいみたいだ。あまりこっち見るな、だとか言ってくる。いつもはその顔をも武器にして活躍しているくせに、私には見るなだなんて意地悪だ。でも照れているキバナはレアな表情をしているので悪い気分はしなくて口元がにやけそうになった。

 不意にまぶしさが私たちの目に差した。

「ん……。どうしたの、ロトム」

 圏外が続き、自分にあまり仕事は無いと思ってか、スマホから抜け出したロトムが私の顔周りで浮遊している。彼は体の光を極限まで弱めている。みんなが眠るなら自分も一緒に、と言ったところだろうか。
 おいで、好きな場所を見つけて一緒に眠ろう。そうロトムを誘おうとした時だった。隣の巨体ががばりと起き上がって吠えるように言う。

「その手があったか!」