「その手があったか!」
こんな場所でも案外眠れそうで、体から力を抜けそうになっていたところだった。それわ、キバナの大きな声で意識を引き戻される。
キバナの様子からすると、この閉じ込められた地下室から救援を呼ぶ方法を思いついたようだ。私が聞くまでもなく、彼は得意げに話し始める。
「ロトムはでんきだけじゃなく、ゴーストタイプのポケモンだ! ロトムだけになれば壁でもなんでもすり抜けられる!」
確かに、言われてみて再確認する。スマホだけじゃなくロトミに入っていたり中継もこなしたり。身近すぎて忘れがちだが、ロトムは元々物体をすり抜け、様々なものに入り込むゴーストタイプらしいポケモンだ。
「なるほど。でも壁をすり抜けられても、その後は? どうやって人を呼んでもらうの?」
「オレさまのデスクにサブのスマホがある。そこに入ってもらうんだ。部屋の外のスマホなら通信もできる!」
「……なんで2台持ってるの?」
「あると何かと便利なんだよ」
「………」
こんな高度でややこしいものをふたつも欲しいなんて。まるで異世界の話だ。1台あっても使いすぎてしまう時があるのに2台もあるなんて、やっぱりキバナはスマホを使いすぎている。というかシンプルに依存症の気配がある。
私の呆れ気味の視線には気づかず、キバナは興奮したように自分のスマホロトムに話しかけている。すぐにロトムはキバナの言うことを飲み込んでくれたのだろう。彼の性質そのままに、ロトムは天井の電球に吸い込まれ、そのまま見えなくなった。
「……誰か来てくれるかな」
「まあオレさまのロトムならやってくれるだろ」
「うん、そうだね」
実際、私もキバナのロトムなら充分信じられる。
だって毎日のようにキバナのことを最高の角度や画角で撮っているのはキバナじゃなく、ロトムだ。キバナの最高の表情を多分誰よりも知っていて、息ぴったりに飛び回って一瞬を逃すことなく切り取る。それができるのは唯一、あのスマホに入っているロトムなのだ。
キバナもあのロトムがいてくれるから、思いっきり彼らしさを伸ばして表情を変えられたりするのだろう。バトルにこそ出ないけれど、あの子も立派なキバナの相棒なのだと、私は勝手に思っている。
「よし、あとは待つだけだな。オマエはちょっとでも寝てろ」
「いいの……?」
もう少しでここから出られるのなら、起きていようかと思っていた。けれど体は正直で、言ったそばからあくびが出てしまう。
「大丈夫だ、任せろ」
キバナの深く落ち着いた声色を聞けば、実感できた。もう大丈夫なんだ。そう思うと余計に体から力が抜けていく。キバナの言葉に甘えて、私は自ら瞼を閉じたのだった。
「……い、。おい、起きろ」
大きな手が私の肩を優しく揺すっている。それから、普段寝起きに聞くことのない声、キバナの声がする。
目をどうにか開こうともがいている横で、ありがとう、リョウタ、という声が聞こえた。どうやらロトムは無事に目的をやり遂げ、夜中にも関わらずリョウタさんが駆けつけてくれたようだ。
「ほら、帰るんだろ。家まで送ってやる」
「んー……」
「自分で歩かねえなら担ぐぞ」
キバナはそんなことを言っているけど、私を立たせようとする手は優しく広げられ、待ってくれている。私が手を空中で彷徨わせていると、しっかりと握り返してくれたくらいだ。その手に力を借りながら私は立ち上がった。
「カバン……」
「オレさまが持ってる。行くぞ」
「はい……」
目をこすりつつキバナが引っ張る方向に歩く。ゆっくりと視界が定まってくるけれど、頭の目覚めはまだまだ時間がかかるようだ。あれ、キバナ、何か違和感がある。上半身の雰囲気が何か違う、妙に首元がスッキリしていて見慣れない。なんでだろう。
ここに来て何時間経ったのだろうか。ようやく私はナックルジムの外に出る。
外界はまだ暗く、朝までは時間があるようだ。辺りはしん、と静かな夜に未だ包まれている。
冷たい夜風に吹かれると次第に頭が起きてきて、ようやく私はキバナに抱いた違和感の正体に気がついた。
「キバナ、パーカーどしたの……」
「オマエが着てる」
ゆるゆるの頭で思う。ほんとだ。心地よい重さで肩に引っかかり、落ちないように自然と手で握りしめているもの。それこそがキバナのパーカーだと気づいた。
「気に入ってくれて嬉しいぜ? これから空を飛ぶし、体冷やさないように着とけ」
「うん……。え? うん……?」
いつの間にかキバナのパーカーを着せられている。私が事の重大さに気づいたのはフライゴンの背中に座り、キバナとともに夜空に飛び立った瞬間だった。
さーっとかいた冷や汗がフライゴンの滑空で吹き飛んでいく。
風を受けてはためくのはいつもはキバナの顔まわりを彩っているあのフードだ。私が落ちないよう、両サイドを支えるキバナの腕は、見慣れない地肌をさらけ出していた。とても、とても心臓に悪い。本当なら今すぐパーカーをキバナに突き返したいし、風が冷たいだろうからちゃんと着てもらいたい。だけど全てが空中にいるせいで叶わない。
唯一幸運だったのは、ものの数分でわが家にたどり着いたことだった。体は冷え始めていたが、地面に足がついてすぐ、私は彼のパーカーを脱ぎ、突き返した。
「あー、びっくりした……」
「何がだよ」
キバナは私の反応の意味がわからないらしい。キバナに一体自分がどう見えているか分からないけど、こっちは髪の毛が爆発していそうな気分だ。
多分恋する女子的には憧れのシチュエーションだった気がするのだけど、生憎と驚きすぎで思考停止してしまい、感触も匂いもうまく思い出せない。ただ眠りの中で、ひたすら落ち着きをくれる何かを握っていた記憶がぼんやりと残っているのみだ。
ちゃんとパーカーを着直して、見慣れた姿に戻ったキバナが言う。
「明日、頑張れよな」
「あ、えっ?」
「応援はしている。だが、無理すんなよ」
「うん、這ってでも行く」
「そうか」
フッと口元では笑うのに、キバナは私に困り果てた時のような視線を向けた。なるべくしっかり寝ろよ、と言い残して去ろうとする広い背中。
気づけばその問いかけは、口からこぼれ落ちていた。
「……キバナは、来る?」
ほんの小さな呟きだったのに、しっかり届いてしまったらしい。フライゴンの元へ戻ろうとしていた背中がぴくりと止まって、ゆっくりと振り返る。
「来てって意味じゃないよ。疲れてるなら、忙しいならいい。ただ、キバナがいつになったら来るのかは知りたい、かな」
彼が忙しい日々は何度だってあった。そして繰り返され、またいずれ必ずやってくる。そういうものだ。だから寂しいとか、思っても仕方がないことは考えたくないのだ。私が知りたいのは、いつまで堪えればいいか、ということ。ゴールがわかっていれば、いずれ終わることだと分かっていれば、耐えられる。
私にはどれだけ長くなっても我慢する用意はあるというのに。キバナはすぐさま答えをくれた。
「明日行く! っ這ってでも行く!」
無理はしなくてもいいと言ったばかりだ。いつもの私なら反射的に「別にいいよ」と応えていた気がする。だけど今夜は間違えなかった。
キバナが来てくれるかもしれない。その期待だけで寝ぼけた頭が一層ふわふわしてくる。嬉しくて、待っているね、と頷いた。
私たちが再び顔を合わせたのは、時間にしてみればほんの数時間後となった。シャワーを済ませ、睡眠は数時間。へろへろの体でも意地で開店準備をこなして立っていれば、キバナはカウンター越しに現れた。
這ってでも行く、と言ったように足取りは非常に重たげだ。
「あー……、今日はノンカフェインで頼む」
変なキバナだ。カフェインのためじゃなかったらなんでここまで来たんだろう。
でも少しだけ安心した。ノンカフェインにしておくということは、キバナはこの後、少し休めるのだろう。眠れる時間があるということだ。
キバナが来てくれたことでそんな小さな情報を仕入られた。ちょっとでも顔が見られると、やっぱり違う。少しだけ口の端っこが上がってしまう。
今日の自分が指先の力が入りにくい自覚がある。細心の注意を払って、キバナにテイクアウトカップを渡すと同時に彼に吹き込んだ。
「キバナ、寝られてなくて目つき悪いよ」
オマエもな、と牙の見える笑みで返されて、すぐに二人して吹き出した。後から後から溢れてきそうな笑いを堪えながら、彼を見送って感じ入る。ああしばらくぶりに心の底から笑った。