母に預けていたふたつのモンスターボール。リビングの机の上、敷物の上に丁寧に置かれたそれを改めて見ると、ずいぶんボロく見える。不思議だ。毎日扱っていた時には気づかなかった傷や汚れが、久しぶりに目を向けることでありありと感じられる。
このモンスターボールを握りしめて、森に向けて走り出したい気持ちはあるのに、私の足はこわばって動かない。
怖いのだ。もう随分会っていないトゲチックとトゲキッスが、すっかり私を忘れていたら辛い。けれど私のことを覚えていて、幸せでない様子ならば尚のこと、自分の罪が思い出されるようで恐ろしい。どちらにしても嫌だなんて、我ながら利己的すぎる考えが、消えてくれない。
震える息を吐いて、私はひとまずソファに座った。
「トゲチックとトゲキッスはどうしてるの?」
「相変わらずよ。元気にしてるどころか、ちょっと調子に乗ってるくらいよ」
「ええ?」
「あなたと旅して随分たくましくなったから、あの子たち、ルミナスメイズの森じゃ敵なしなのよ。そんなだから随分楽しそうに暮らしてるわよ」
幅を利かせているとは予想外で苦笑いしてしまったが、二匹には以前のように気ままに楽しく暮らして欲しいという私の願いはそれなりに叶っているらしい。
「。大丈夫よ、会いに行ってあげて。二匹とも喜ぶわ」
「そんなこと、あるかな……」
「あるに決まってるじゃない!」
母は明るく言うけれど、それでも私は動けない。
まるで子供みたいに駄々をこねている状態の私に、母は困ったように笑って、モンスターボールを手に取り差し出す。
「ほら、。大丈夫よ! だって夕方になったらトゲチックもトゲキッスも毎日うちの窓に来るんだもの。分かる? あなたがいないかな、いたらいいなってふたりとも願ってるのよ」
「………」
「あなたが行かなくても、夕方になったらまた二匹ともうちに顔を出すわ。必ず来るの。だって大好きなに会いたいから」
「そう、なのかなぁ……」
「そうに決まってる。あの子たちがお母さんのためにうちに来るわけないでしょう? それにほら、が今日ここまで来られたのは会いたい気持ちがあったからなんでしょう」
私は頷く。あの2匹に会いたい気持ちなら、ずっとある。そうじゃなきゃ、私の借りている部屋はあんなに広くない。
勤務してるお店から少し遠くになってでも、意地で一人暮らしには余る広さの部屋を借りた。それはいつか大好きなトゲキッスとトゲチックを連れてきて、みんなで暮らす日を期待したからだ。
「自分の気持ちは大事にね」
差し出されたモンスターボールを、私は恐る恐る握った。母のいってらっしゃいの言葉を背に受けて、私はルミナスメイズの森へと駆け出した。
それから1時間と経たないうちに私は家に戻った。用意されたランチを冷ますことなく、両脇からぴたりと隙間なく押し潰さんばかりに私を挟む弟トゲチックとお姉ちゃんトゲキッスを見て、母が破顔したのは言うまでもない。
それからトゲチックとトゲキッスは、文字通り片時も私の側を離れなかった。食事の時もどこに移動してもうたた寝の瞬間も。私に寄り添い体温を与え続け、そして私の体温を欲しがった。さすがにトイレの中までついてきそうなのには困ったが、どうにかこうにかドアの前で待ってもらった。トイレから出てくるとまた二匹は私にひっついた。
その夜、私はリビングのソファで寝ることにした。私の部屋で大きく進化したトゲチックを眠らせるのは窮屈で、かわいそうだったからだ。寝心地はベッドに劣る。けれど、私たちは体をくっつけあって眠れる場所を選んだのだ。
お姉ちゃんトゲキッスは早速私に寄っ掛かりながら眠ってしまった。気を利かせてくれた母が、動けなくなった私の代わりにリビングの明かりを落としてくれる。
「、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
暗くなったリビング。窓から入り込む、幻想的なキノコやポケモンたちの発するわずかな光を頼りに、私は膝の上で丸くなっているトゲチックに囁いた。
「お姉ちゃん、すぐ寝ちゃったね。まぁ、当たり前か。キミより飛んだり跳ねたり、すごいはしゃぎようだったもんね」
弟トゲチックも同意のようだ。お姉ちゃんを起こさないよう、小声できゅぅ、と鳴きやがて瞼を下ろしていく。彼が夢の中に旅立つのを見送りながら、私はぽつりと零した。
「かわいそうなことしちゃったな」
私を包むようなトゲキッスの羽と、私の膝で丸まっているトゲチックのお腹が、あたたかく呼吸をしている。二匹は穏やかに眠ろうとしている。それが微笑ましく、同時に私の胸には針で突くような痛みが走る。
以前はこうじゃなかった。ふたりが私から片時も離れず、体を触れ合わせないと寝てくれないのは、私がまたいなくなるのではないかと心配している証だ。
「怖がりで、今までごめんね……」
もうふたりは寝てしまった。私の言葉はきっと聞こえていないだろう。構わない。本当に伝えたいことだからこそ、これから行動でも言葉でも繰り返し伝えていくつもりだ。
また明日も、この子たちと過ごせる。その嬉しさを噛み締めて、私も瞼を下ろした。
翌朝、私は習慣通りに日の出前に目を覚ました。いつもならナックルシティの人々に美味しい美味しいモーニングコーヒーをお届けするため、出勤準備を始めるところだけれど、今日はなんと言ってもお休み。私は起き上がると少し厚着をする。それからかじりつけば食べられるフルーツと、あたたかい紅茶を入れた水筒をカバンに詰めた。
まだ眠っている母を起こさないよう、静かに家を出る。私と同時に目覚めたトゲキッスとトゲチックももちろん一緒だ。
広い場所に出たところでトゲキッスが羽を広げる。静かな興奮を噛み締めながら、私はトゲキッスにまたがった。
未だ星の光る夜空は寒いだろう。私は自分の首元にあったマフラーをトゲキッスに巻いてあげ、自分は上着の前をしっかりと閉める。
弟はちゃっかり私のカバンに収まり、顔を出したところで準備万端だ。
「よし、行こう。最高の朝焼けを見に行くよ」
そうして未明のアラベスクタウンから、私たちは飛び立った。
久しぶりなのだからゆっくりでいいとは伝えたのだけど、お姉ちゃんトゲキッスははりきって飛んだ。
二匹を最後に過ごした時は、苦い思い出に染まっている。記録自体も私たちの負けで終わっている。だけどトゲキッスの体はその時の印象を裏切るかのように力強く、弾力に満ちていて、私は思わず空のなか叫ぶ。
「トゲキッス、あなたって最高だよ!」
一人握りの特別な才能に比べて、自分には何もない気持ちになっていた。だけど、トゲキッスは厚い羽で見事に風を切り分け、背中に人間を乗せているとは思えないくらいなめらかな滑空を見せる。目的地を見据える横顔は女の子でありながら勇猛で、誰かに自慢したいくらい優雅だ。
私が褒めちぎったせいか、トゲキッスは飛距離もスピードもぐんぐん伸ばしていく。
朝日を見る場所は、当初の予定だったラテラルタウン遺跡の上をすぐさま超えた。右手に未だ眠るナックルシティを見送り、私たちはワイルドエリアに出る。ストーンズ原野の石の上あたりに落ち着こうかと思ったのもまた越えて、夜明け直前に私たちがたどり着いたのは、5ばんどうろ。ワイルドエリアを横断して、ターフタウンとバウタウンのふたつを繋ぐ、陸橋の上だった。
「すごい。こんなところまで来られちゃった……」
興奮で息が詰まる中、私は橋の上から周りを見渡す。カバンから出てきたトゲチックを抱きしめ、トゲキッスと体を寄せ合った瞬間。まるで私たちが到着するのを待っていたかのように夜が明けた。
広大なワイルドエリアが、生まれたての光に染まって行く。金色の矢のように大地に届く光。眩さに導かれて、体が深くから目覚めていく。同じく目覚めて行くポケモンたちの鳴き声が、遠くのファンファーレのように聞こえる。
ああ、1日が生まれている。
私とトゲキッスとトゲチックは、神々しいまでの朝日に目を奪われながらも時々、大事な存在が側にいることを確かめるようにお互いを見た。
時も忘れて朝日に照らされていると、不意にカシャ、という音が落ちた。気づけばずっとカバンの中に眠っていたスマホロトムが飛び出して、私たちにレンズを向けている。
「ロトム! どんな写真が撮れたの? 私たちにも見せて」
ロトムを呼ぶと、スマホは私の言葉に従い、空から降りてきた。みんなで画面を覗き込むと光に包まれた私たちが、少し引き気味の画面で収まっている。
逆光にならないよう朝日側から撮影してありながらも、後ろの背景にある橋や、ワイルドエリア、エンジンシティの街並みなんかも余さず納めてある。うん、なかなか良い写真だ。
「ロトムってば、写真の腕をあげたね。……あっ」
私が思わず声をあげたのは、ロトムがその写真を勝手にキバナに送ったからである。私が褒めたのが嬉しかったのだろうか。
「キバナ、まだ寝てると思うけどなぁ。起こしたらかわいそうだよ」
私が柔く咎めても、ロトムはカタカタとスマホを揺らして、いたずらっぽく笑うのみだった。