大地と溶け合っていた太陽が、空へと切り離され、夜明けは完全なものになった。目覚め始めるワイルドエリアを見渡しながら、私たちが朝食がわりのフルーツと紅茶で体を温めている時だった。
風の合間に歌声のような羽音がする。思わず空を見ると流線型の影を見つける。耳馴染みのある羽音にまさか、と思ったがそのまさかだった。キバナだ。
さらに予想外だったのはキバナの服装だった。シャツと薄っぺらいハーフパンツ。突っかけたかのようなスニーカー。全身で寝起きです、と宣言しているかのようなキバナがまさかこの場に現れると思わなくて、私は水筒の蓋を開けたまま固まってしまった。
「……ど、どしたの。というかなんで場所、わかったの……」
「場所は写真から特定した」
「え、写真って。一枚しか送ってないけど」
「写真一枚でも、見る奴が見れば場所くらいすぐ分かる」
「そう、なんだ……」
たしかにロトムの撮った写真には橋の一部も、エンジンシティの遠景も映っていたが、そんなので私のいる場所が分かってしまうなんて驚きだ。
どうしてこの場所がわかったか、についてはひとまず理解した。でも肝心のことは聞けていない。
「何か、あったの?」
どうしてベッドから抜け出したかのような格好で、写真一枚から私を見つけ出して、キバナは飛んできたのか。嫌な知らせじゃなきゃいいけど、と恐る恐る私はキバナの返事を待つ。
キバナはうろたえ、かぶりを振りながらどうにか言葉を絞り出す。
「いやその、オレ、驚いて……。オマエが、その二匹といることに」
二匹とはトゲチックとトゲキッスのことだろう。二匹ともキバナのことを覚えているのか、人懐っこく返事をするように鳴く。
「うん、まぁ、久しぶりだよね。モンスターボール、ずっとお母さんに預けてたの。トレーナーには戻らないけど、できたら、またこれから一緒に暮らすつもり」
「そう、そうか。実はずっと気になってた。けど、聞けなかった。オマエ……」
キバナは未だに顔を歪めて、じっとりと汗もかいている。どこか泣きそうにも思えるほど、喉をつまらせ、キバナは吐き出すように言った。
「オマエ、トゲチックたちを捨てたわけじゃなかったんだな……」
朝焼けの空から私のつむじ目掛けて隕石でも降ってきた。そんな衝撃が私を襲った。
「っ、はぁ!!?」
ワイルドエリアをこだましそうなほど大きな声が出たことは許してほしい。だってありえないことだ。私がトゲチックとトゲキッスを捨てるなんて。確かに私はポケモントレーナーであることをやめて、モンスターボールを持ち歩かなくなった。だけど捨てたなんてありえない。私はトゲチックたちとの関係を主従や対戦のパートナーではなく、無邪気な友達同士に戻そうとしていただけだ。
「ポケモン捨てる人とか、ありえなくない……? え、え、えっ……? キバナ、今まで私をそういう目で見てたの……?」
キバナはフイ、と目線を私からそらす。どうやら図星らしい。
「……悪かったよ」
「いや、謝らなくていいよ。状況的にはそう見える気もするし……。でもやっぱり、ポケモンを捨てるトレーナーなんてありえないでしょ……」
ポケモンを大事にできないポケモントレーナーを私は心底軽蔑する。ポケモンを捨てるなんて場合によって犯罪になるし、ポケモンをぞんざいに扱う人間がいたらその時点で私にとっては犯罪者同然に思えてしまう。
というか、ガラルのほとんどが私と同じように考えるはずだ。ポケモンを大事にできない人間は最低だ、と。
「キバナもそう思うでしょ?」
「思う。そこは完全同意だが……。オマエは簡単にオレに心の中を見せるような奴じゃないから。分からなかった」
ありえない、ありえないと呆然としつつ、私はあまりキバナの誤解を責められないでいた。
確かに私は、一年目でジムチャレンジからリタイアし、アラベスクタウンに戻った。元の家に住みながら私なりにトゲチックたちとの距離に悩んで葛藤してきたものの、二匹を置いて街を出てきたことは事実だ。キバナと再会した私はボールのひとつも持っていなかったし、トゲチックのこともトゲキッスの話題も、ほとんど自分からしなかった。
なんでもない振りをして、平凡であることを受け入れて、生きていたかったから。いつからか私はその仮面を常に被っていた気がする。それと私がキバナへの気持ちを隠していたことも事実だ。そんな仕草が、キバナには私が心を閉ざしているように見えても不思議では無い。
「はポケモンを簡単に捨てる奴じゃないとは何度も思った。だが、オレさまはその疑いを捨てられなかった。なんでだか分かるか?」
全然、全く何もわからない。私が小さく首を横に振ると、キバナは低い声で言う。
「もしそこを見誤ったら、オレさまもオマエに捨てられると思っていたからだよ」
「キバナ……? ごめん、これ、な、なんのはなし……」
キバナはすでに冷静さを取り戻しているようだ。瞳には冴えた光が戻っている。だけどその瞳が、なぜか私を落ち着かなくさせる。
「オレさまにとっちゃポケモンは、命と同じくらい大切な存在だ。そんなパートナーを捨てるなんて、ありえない。だからオレはオマエが怖かった。オレにとってありえないことでも、にとってはそうじゃないのかもしれない、可愛い顔して実はポケモンを捨てるくらいワケない、そんなヤバい女なのかもしれないってな」
「な、な、な……!」
なかなか聞き捨てならないセリフにうろたえる私を、キバナは笑う。その笑みが冷笑か嘲笑か、わからなくて私の心臓がギリリと嫌な音を立てる。
「ありえないでしょ、色々と……」
「でもオレは疑いを拭いきれず、オマエに対し思ったわけだ。ポケモンとの縁を切れるような奴なら、オレさまだって簡単に捨てるだろうな、と」
「捨てるって……」
「半分はありえない、とはオレも思ってた。だけどもう半分で怖がっていた。どんなに仲良くしてもどんなに近づいても、オレさまとオレさまのポケモンにも負けない信頼関係を作ったとしても、簡単に捨てられるかもしれないと思うと、恐ろしかった」
「だから、あの、ポケモン捨ててるっていうのは、誤解で……」
「ああ、今日それがわかった。怖いのも消えたぜ。だから言うんだ。オレはオマエが好きだ」
「え……?」
「オマエが好きだから、怖かったんだ」
キバナがこの橋の上に現れてから、ずっとありえない誤解ばかりを打ち明けられ、思考停止しそうなことばかりを言われてきた。それでもなんとか頭を動かして、返事をしてきたはずなのに。
「好きって、何」
かろうじて聞くと、キバナは堂々と答えた。
「まあいわゆる、愛してるって奴だな」
「あ、愛してる、って、なに……」
何、と聞かずともキバナの表情を見れば逃れられない答えが見えている。そのくせに、理解が追いつかなくて私は意味のない質問をしている。
「ポケモン捨ててるかもしれなような女が、どうしても嫌いになれなかった、ってことだ」
なんて重たいカウンターパンチ。
ポケモンを捨てる人間は犯罪者も同然だと私は思う。キバナもきっと、そう思ってた。私のこと、人間のクズだ、最低のゴミだ、って。
なのに好きだと、愛してると彼は言い切った。
この私に返せるもの、何か、あるだろうか。
呆然と立ち尽くす私の頭を大きな手が撫でる。あたたかな指がくしゃりと髪を乱し、頬と耳の輪郭を擦る。大好きな手と、大好きなその手の主を見ると、彼はスッキリとした様子で笑っていた。
「じゃあ、またな」
返事を求めないで、彼は帰ってしまった。フライゴンの羽音が遠く聞こえないものになり、キバナの影が小さく、ワイルドエリアの砂塵に紛れてしまった時、私はその場に崩れた。へたりと座り込んで、呆然と、朝が満ちた空を見上げた。
(御察しの通りあと数話で完結です。どうぞ最後までよろしくお願い致します。)