昨日今日の話じゃない



「っ、キバナのやつー……!」

 悪態をつくのは、おそらく混乱に対する防衛本能だ。

 ホエルオーのダイストリームで転がり込んで来た三連休。その最終日はとんでもない忙しさになった。
 トゲキッスたちと再び暮らし始めるためには準備が必要だ。ナックルシティとルミナスメイズの森とでは、環境もかなり違う。数年の空白期間もあったわけだしお互い生き物として、変化があっても不思議じゃない。だから数日をかけて慣れさせたいと思っていた。
 なのに。二匹は言うことを聞かず、結局ナックルシティまでついて来てしまった。再び生活を共にすることを決めたらバタバタするであろうことは想定していたが、想定以上のタスクの多さに私は見舞われた。

 ずっと備蓄することのなかったきずぐすりやポケモンフーズを買い込んだり、家庭用に品種改良された小さめのきのみプランターを買ったり、二匹にポケモンセンターの場所を教えたり。大事なポケモンを受け入れるために、こっちはこっちで大変なのだ。
 なのにふと、目覚めながら夢を見るかのように、私は橋の上のキバナを思い出す。朝日に光った彼の瞳と、汗ばんだ首を思い出す。

『オマエ、トゲチックたちを捨てたわけじゃなかったんだな』

 また、カチンと頭に来てしまう。何言ってんのよ、一緒に旅までしたポケモンを捨てるわけないじゃない。ひどい誤解だ。いや状況証拠は揃っていたかもしれないけど、そんなやつに見えていたなんて心外だ。

『まあいわゆる、愛してるって奴だな』

 そうなの? 本当に? いつから? なんで?
 キバナからの告白を思い出すと色んな疑問がいっぺんに湧いてくる。そして同時に苛立ちも燃え上がる。愛してるは、やめて欲しかった。どうして手加減をしてくれなかったの。あの伝え方は私の逃げを許さない。

 ただの好きなら、ありがとうと返せていた。行動を共にすることも多少あるから、嫌われていないことはわかっている。私もキバナのこと良い人だと思ってるよ、と笑えていた。
 だけど”愛してる”は、ありがとうの言葉で切り捨てられるものじゃない。次のセリフが蘇ると、やっぱり私は現実を受け止めきれなくなる。

『ポケモン捨ててるかもしれなような女が、どうしても嫌いになれなかった、ってことだ』

 そんなのって、アリ?
 人を悪女みたいに思い込んでおいて、それでも好きだとキバナは言った。友人の距離で良いと思っていたキバナから、愛情を打ち明けられたこともびっくりだ。なのにぶつけられたのは、例え私がどんなに酷く心根の醜い人間であっても構わないと言うような、怖いくらい大きな感情だ。
 底なし沼を見せつけられてみたいにゾッと悪寒が走る。なのに、あの朝、キバナは同時にもうひとつの顔を見せた。

『オマエが好きだから、怖かったんだ』

 あのキバナが怖がっていた。私が種族を超えた友人をも容赦なく捨てるような人間かもしれない。その可能性を思い、そして自らも捨てられる側かもしれないと思い、怯えた。
 お互い異性ではあるし、スーパースターと一般市民という違いもあったけど、私たちは仲良くやっていると思っていた。なんでもない振りをしていたのはお互い様だ。
 私も感情を隠しながら笑ってた。だけどそれはキバナも同じどころか、彼のほうがずっと深刻で、どこかで猜疑心を抱えながら私に会いに来て、同じ時間を過ごしてくれていた。
 笑っていた時間は嘘じゃない。感情を動かされたいた瞬間は全部本物だ。だけど、楽しさと同時に、彼はずっと怖さも抱えていたのかもしれない。

「あー……」

 胸が、痛い。心臓を刺してくる感情はひとつじゃないから厄介だ。
 腕が外れるかと思うような重さの荷物を抱えて帰る時も、とりあえず買い込んだポケモンフーズを棚に詰め込んでいる時も、トゲキッスとトゲチックのそれぞれが寝られたり体を休められる場所を作っている時も。
 橋の上でのやりとりを思い出しては、私の体は止まってしまう。彼の声を反芻するごとに、過去の彼の言動が結びついていく。もしかしたらあの言葉は、あの仕草は、あの日の違和感は。キバナの存在が私の現在も過去も全て、お構い無しにかき乱していく。
 これをたった一人で受け止めるのは無茶だと叫びたくなるような、記憶と感情の渦。
 もしかしたら3分に1回くらいの頻度かと思うくらい、私はキバナのことを考えている。

 ふとした瞬間に周りが見えなくなっている自覚はあった。だから、トゲチックが飛んで来て私の額の前で慌てているのを見たときに、ついにやってしまった、と思った。
 焦げ臭い、刺激臭。キッチンに走ると、自分の夕食のつもりで焼いていた、お惣菜のパイがオーブンで真っ黒になっている。もうどこも食べられそうにない夕食を見て、私はなんとも分別できない呻きを上げてしまう。

「っ、ああ゛ー……」

 混乱しているままでは生活もままならない。判断を正常化できないならば、怒りで補ってしまえ。多分、そういう理屈で苛立ちみたいなのが次から次へと湧いてきてる。だけどぐらつく視界でまた、キバナが思い出される。そして彼の影は、熱のこもった指先で私の頭を撫でて耳の輪郭をさするのだ。






「ご注文をお伺いしま、……」

 カウンター前に立った、天井のライトに迫る長身。アイコニックなパーカー姿。キバナだ。
 言葉の続きを補うことも忘れて、言うな、言うな、言うな……と笑顔で細めた目で訴えかける。が、キバナは私の圧をすっきりと無視し、晴れやかな笑顔で言い切る。

「オマエ、ほんっとここのカウンターにぴったりサイズで収まり良くて可愛いな!」
「……っ!」

 連休明けからキバナはずっとこの調子だ。何かタガが外れたかのように私にストレートな好意をぶつけてくる。可愛いとか、そういうところが好きだとか。しかも満面の笑顔で、屈託なく言ってくるのだ。

 カウンターに収まりが良いってどういうこと? あなたに比べたらみんな小さくてぴったりサイズでしょうよ。もしかしてそんな風に毎日私のこと見ていたの? ……と、一気に言いたいことが湧いてくる。
 でも言い返したあとの反応もだいたい想像できるようになってしまったのが困ったところだ。先日も、来店早々可愛いなどと言われて、焦って思わず否定した。そうしたら「ずっと可愛いと思ってた」と余裕たっぷりに言われて撃沈させられたのだ。

 言い返したら苦しむのはこっちなのだ。だからぐっと堪えて、でも要求だけはちゃんと伝える。

「あのね、キバナ。やりづらいから、やめて」
「オマエな、やりづらいはこっちのセリフだ。何年こっちが我慢してきたと思ってやがる」

 ほら、この調子だ。こうなったキバナを押しとどめる方法は私にはわからない。それこそ嵐の止め方がわからないように。
 嵐は過ぎ去るのを待つのが一番だ。どうせ注文は変わらない。私は確認することも放棄して、コーヒーマシンのボタンを押したのだった。





 どこかおかしくなっちゃったの。そう聞きたくなるようなキバナの甘ったるい態度は、褒められ慣れていない私の体力を容赦なく奪う。
 おかげさまで最近、退勤する頃には私はげっそりしている。帰って早くトゲチックの背中、というかお尻に顔を埋めたい。あの独特な匂いを吸って、顔を羽でパタパタとはたかれたい。そんな変態じみた欲求が湧くほどには私は疲れている。

 事務所の椅子を借りて、帰れないほどに座り込んでいる私に、店長が苦笑いを向ける。

さん、最近どうしたの? 何かあったみたいだけど」
「……あの、実は。キバナから衝撃の事実を知らされまして……」
「え、ついに?」
「ついにってどういうことですか!?」

 驚いて、椅子も倒さんばかりに立ち上がってしまう。私がキバナに犯罪者同然に思われていたことはかなり衝撃の事実だったのだが、まさか店長にはお見通しだった、ということだろうか。

「店長、まさか知ってたんですか!? あのっ! 私ってそんなに人相悪いですか……?」
「人相……? キバナさんの気持ちなら、なんとなく感づいていたかなぁ」
「あの! 誤解ですから! 私そんな、人間のクズじゃありません!!」
「ごめん、何の話……?」
「え……?」

 どうにも話が合わない。私は、恐る恐る、橋の上で知らされた長年の誤解を店長に説明した。
 ポケモントレーナーだった時のパートナーと一緒に暮らしておらず、その二匹の話題を避けていたせいで、ポケモンを捨てた人間だと思われていた。改めて口に出すととんでもない誤解だ。

 キバナが私を好きだと言ったことは、なんとなく気まずいし恥ずかしいので、店長には伏せておいた。
 最初の行き違いがあったためか店長は最初は目を白黒させていたけれど、一応状況を理解してくれたようだ。

「そうか、その段階ですか。はい、わかりました」
「色々お見苦しくてすみません」
「いやいやいいんだよ。それで?」
「それで……。キバナは勝手にすっきりした、みたいな態度をとってくるんですけれど、こっちはまだ衝撃が抜け切らないんですよね。その……、ずっとそういう考えを持たれていたんだっていうのが分かると、今まで色々一緒に話したりしたことも意味合いが変わってきてしまうしで、色々と気まずいところもあり……。お礼、言おうと思っていたのになぁ……」

 最後の誰に言うでもないぼやきは、事務所の天井に吸い込まれて消える。そのあとに続いた、私の深いため息も。
 橋の上に彼が飛んできてくれた時、驚いたけれど私も、キバナに伝えたいことがあったのだ。だけどキバナにそれらを全て押し流してしまうようなことをぶつけられ、私の言いたいことは今も宙ぶらりんになっている。

さん、こういうのはどう? 今度キバナさんが来たらその時に1時間休憩とって、その1時間は精一杯話してみるのは?」
「ええ? それって私がいつ休憩入れるかわからないから、お店に迷惑がかかりますよね。悪いですよ」
「キバナさんが来店するタイミングはだいたい見当がついているし、さんが悩み続けている方が心配だよ」
「……、でも……」
「休憩時間をズラすだけだよ。それに1時間だけっていう制約があった方が気持ち的にも楽で、色々話せるんじゃない?」

 確かに。私とキバナはあれ以来、何度も顔を合わせているのに、落ち着いて話せていない。いつでも話せる状況にあって、チャンスが溢れているように見えても、進めていないのが現実だ。
 1時間だけ。腰を据えてタイムリミットを設ければ、キバナは私を惑わす甘い言葉を謹んでくれるかもしれない。何より話さずにいるとチャンスを逃してしまうかもしれないという時間の制限は、私自身を追い詰めることになるけれど、同時に背中を押してくれそうだ。

 私は店長に向き直り、頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしますが、お願いします。休憩前にはちゃんと店長に確認入れますので、無理だったら無理って言ってください」
「うん、わかりました。頑張ってね。応援してます」




 翌日。キバナはいつも通りに来店した。今日は彼が何か言う前に私からしかける。キバナ、とこちらから名前を呼ぶと、何か感づいたかのようにキバナも青い目で私を見据えた。

「今日でも明日でもいつでも良いんだけど。私が、キバナの来店に合わせて1時間休憩を取れるって言ったら、どうする?」

 キバナはほお、と言うように片方の目尻を上げた。数秒の思案のあと、キバナは返事をくれた。

「一本だけ、ジムに連絡入れさせてくれ」

 私は頷いて、手に取っていたテイクアウトカップは元の場所に戻す。代わりに陶器のコーヒーソーサーをふたつ、トレーに並べる。そして、キバナの分と私の分でマシンのボタンを、二回押した。