言いたいことが言えない


 休憩中であることがわかるようにエプロンを外してから、私はホールに戻った。店長がカウンターから渡してくれたトレーを受け取ると、ふわりと香りが立つ。私が入れたばかりのふたつのコーヒーだ。
 ふと見ると、トレーのはしっこに小包装のチョコレートが載っている。私が用意したものではなく、店長から応援を兼ねてサービスしてくれたようだ。ありがとうございます、いえいえ、と小声で微笑みを交わせば、少しだけ緊張がほぐれた。

 テーブルまでトレーを運ぶ慣れきった動作。だけどそこにキバナと、私の分もあることが新鮮だ。このカフェに勤めて短くない期間が過ぎている。それでもこんな風に新鮮な景色に出会うことがあるとは思わなかった。
 急に、眩い心地がした。目の前のものに帯びた、奇跡的なバランスが胸の奥に飛び込んで来たかのようなふわりとした酩酊を感じながら、私は二人分のコーヒーを運んだ。

 先に座って待っていたキバナはスマホを真剣な表情で覗き込んでいた。画面からはかすかな音が出ている。ポケモンの気高い鳴き声や、技が着弾する衝撃のノイズ。キバナはわずかな合間を縫ってバトルビデオに目を通し、研究に勤しんでいるようだ。
 真剣な表情がいいなと思って数秒見入ってしまった。けれどキバナは私に気づくと、すぐさまビデオを止めてくれたので、少し申し訳ない気持ちになった。

「時間、作ってくれてありがとう」
「お疲れ」

 キバナはサービス品のチョコレートを迷うことなく横にいたジュラルドンにあげてしまった。小さなチョコレートがライトメタルの大きな口に吸い込まれていくのを見やりながらキバナが聞いてくる。

「あいつらは連れてこねえの」

 あいつら、とは私のポケモンのことだろう。

「実はボールは持って来てる。出て来たいかなぁ」

 ボールをポケモンが出ても大丈夫な空間に向けた。けれど私のボールはぴくりとも動かなかった。どうやら二匹とも、ゆっくりしていたい気分らしい。

「はしゃぎ疲れてるみたい。環境も変わったばかりだしね」

 だろうな、と言うようにキバナが肩をすくめる。
 ボールをしまって改めて椅子に腰を下ろすと、先ほどの眩い感覚に再び見舞われて、深く長い息を吐いた。

「久しぶりだな。お店の椅子にちゃんと座って、コーヒーをこうやってじっくり飲むの」
「そうなのか?」
「事務所とかでは飲むこともあるんだけどね」

 コーヒーの味自体は日々親しんでいる。エスプレッソの香りをいつも間近で浴びているし、毎日複数回、味をチェックするため試飲もしている。
 品質に問題ないかと、カウンターの中で舐めている。カップの中にあるのはそれと同じコーヒーの味だ。だけど落ち着いた雰囲気の店内で、薄く誰かと関わりながら飲み物に口につけると何かが違う。カフェインだけにとどまらない作用があるようだ。
 店長の提案の真意が、今になって腑に落ちる。店長は時間制限のためじゃなく、ここに座って一息入れて欲しかったのかもしれない。私にも、キバナにも。

「あのね。私、キバナに言いたいことがあるの。本当に山ほど言いたいことあるんだけど……」
「ああ、オレさまがとくと聞いてやろう」
「ありがとう。正直、まだ混乱しているところもあるから、順番に話させてね」

 目の前の彼は不敵に、椅子から手足を余らせて座っている。普段通りのキバナの言い草も態度も、落ち着けないでいる私にとってはありがたかった。
 一口。目を覚ます苦味を飲み下してから、私は思い切って口を開く。

「……、人間のクズに思われてたなんて心外」
「まだそこ引っかかってるのか」
「うるさいな。びっくりしたの」

 キバナは少し呆れた様子だが、私にとっては簡単には見過ごせないし、今だに衝撃は抜け切らない。子供っぽく拗ねたままの私に、キバナの態度は柔らかだ。

「誤解で良かった。まぁ謝るぜ。変な思い込みしていたのは、悪かったと思ってる」
「本当に失礼しちゃうなって思った。……でも、私も。今日までキバナが苦しんでたこと、気づかなくてごめん」

 先に謝られてようやくこちらからもごめんを言うなんて、本当に私は子供のようだ。自分で自分に呆れるが、キバナに告白されてから調子は狂い続けていて、これもその一環のような気がした。
 でも、勘違いされていたことについて、キバナに文句をひとつ言えた。ようやく私の気持ちは済んだようだ。ステップは一歩前に進んで、少しの沈黙の後に次の言葉が出てくる。

「私がまたトゲチックとトゲキッス、ふたりと一緒にいようと思えたのはキバナのおかげ。だから、ありがとう」
「オレさま?」
「うん」

 今は静かに休んでいるふたつのモンスターボール。トゲキッスとトゲチックはきっと、帰り道を一緒に歩くのを楽しみにしているのだろう。二匹と暮らす、やり直しの意味も込めた時間を、私も大事に過ごし始めている。
 だけど、私が本当にポケモンたちとやり直し始めたのは二匹と再会した日ではない。
 偶然の休みを手に入れて、私は思い立ったかのように翌朝からアラベスクタウンに向かった。はたから見ると急な行動に思えただろう。でも私はあの日突然決意し、生まれ変わった、というわけではないのだ。

「キバナが、スマホロトムをプレゼントしてくれたからだよ」

 キバナの唇が薄く開いたまま、静止している。彼の不意をつけたことに嬉しく思いながら私は、自分が変わり始めた夜のことを思い出した。
 確か閉店間際のことだった。キバナが私に誕生日だからと大層なプレゼントをくれたあの日こそが、お互いが抱えていたこんがらがっていた思い込みが解け出した瞬間だった。

 キバナがくれたスマホに、私は始め及び腰だった。だって私は自他共に認める機械音痴だ。
 触れたら壊してしまいそうな薄い精密機器。理解の及ばない技術がぎゅっと詰め込まれたそこに、ロトムが入っていてもいなくても、私はどっちでもよかった。キバナが私に選んでくれたプレゼントだからとりあえず受け取ってはみたものの、扱えるのかもわからない代物だ。むしろポンコツな持ち主に、トレーナーでいられなかった私に、付き合わされるポケモンが可哀想な気さえしていた。
 だけど、画面は光った。ロトムは優しい気まぐれを起こして、私のスマホに入ってくれていた。
 大切なポケモンにバトルで苦しい思いをさせた。その負い目を感じてモンスターボールの無い生活を送っていた。なのに、ロトムはまるでポケモンじゃないみたいな顔をして、私の隣に来てくれたのだ。

「まぁ今から思うと下心あってのスマホのプレゼントだったんだなぁ、って感じだけど」
「あったぜ、下心なら。普通あんな高いもの、ただの友達には送らねえ」
「おっしゃる通りです……」
「しかも最新の人気機種だ。オレさまとお揃いのな」

 正直、スマホロトムという誕生日プレゼントには驚いてはいた。それでもキバナはガラルでトップクラスに稼いでるから、金銭感覚が違うだけかと思っていたのだけど、彼の気持ちを知った今ではとんでもない思い違いだったと分かる。

「まぁその辺りも掘り返すときりが無いんだけど……。でも、感謝してるの。ロトムといることで私はいろんなことを思い出したし、たくさん気付かされた」

 今は私のバッグで眠っているはずのロトムへ、愛しさと共に思いをはせる。

「ロトムは、やっぱりいたずら好きなポケモンだね。私の知らないところでたくさん写真を撮ってくれる。ロトムが撮った写真を見返すと、いつもびっくりさせられるよ」

 キバナのスマホロトムは、キバナの様々な表情を撮るのがとても上手だ。一方私のスマホに入り込んだロトムは、日常の中に溶けてしまっているささやかな一瞬を切り取るのが上手なようだった。
 おこぼれが欲しいクスネ、お店の看板ポケモンを上機嫌で引き受けてくれるマホミルやペロリーム、道を横切った人見知りのホシガリスに、広場で運転手と客を待つアーマーガアタクシー。それを見る、私。
 私の思いつかないフレームワークでロトムが撮った写真を見返すのはいつも楽しい時間と、気付きをくれる。

「そう、ある日気づいたの。ロトムがシャッターを切る瞬間って、私の心が動いた瞬間ばかりなんだよね。ささやかなシーンばかりだけど、確かに見かけたポケモンとか道端の花を可愛いと思った瞬間だったりして。だから、キバナがあんなに自撮りする気持ちもちょっとわかった」

 たとえ小さな波でも、私の心に変化が起きた瞬間、ロトムは気まぐれにシャッターを切ってくれている。そのロトムが撮ってくれる写真の共通点に気付いた時、私は彼の自撮りする姿が好きになった。
 キバナも、私と同じなのだ。心が動いた瞬間にその画面は記録されている。バトルで高ぶったり、負けて悔しかった自分を記録したり。どんどんと更新されていく彼のSNSに残されているのはそんな、言葉じゃ捉えておけない様々な感情が在った証なのだ。
 画面越しに見るとキバナはやっぱりきらびやかなトップジムリーダーで、正直遠い存在であると感じてしまう。それでも日課のようにアカウントをチェックしていたのは、自分とは違う存在でありながらも、重なって共感してしまう彼の感情がそこに閉じ込められていたからだ。

「……ロトムの目線で見た私と、周りにいるポケモンたちの日々は、とっても平凡で、普通だった。負けたり、悔しかったり、傷つけたり、間違ったり。失敗したという記憶が強すぎて、私は身動きできなくなっていたはずなのに。 
 どうしてこんなにも普通にポケモンと接せられているのに、私は一番大好きな子たちと一緒じゃないんだろう。そう思うような拍子抜けするくらいの普通を、私はロトムに思い出させてもらったの」

 日々の中には気づかないうちに、たくさんの小さな感動が重なっている。次第に写真が増えるたびに、過ぎてしまった時間を目の当たりにするようで、私は切なさを覚えるようになった。

 おこぼれが欲しいクスネを怖がらせないようにしながら、トゲチックとトゲキッスのこと、私のパートナーだと紹介したい。
 お店の看板ポケモンを上機嫌で引き受けてくれるマホミルやペロリームは、同じフェアリータイプだからきっと仲良くなれただろう。
 道を横切った人見知りのホシガリスに一緒に驚きながら顔を見合わせて、広場で運転手と客を待つアーマーガアタクシーの固そうな体に一緒に息を飲みたい。

 なのになんであなたたちはいないのだろう。
 写真が一枚増えるごとに、想いは密やかに加速した。
 なんで私はここで立ち止まっているのだろう。

「くじけていた私を、日常がゆっくりと溶かしてくれたの。そのきっかけをくれたのはキバナ。キバナのおかげで、私はまたトゲチックとトゲキッスのふたりに会いに行きたいって思えるようになったんだよ」

 キバナは勝手に私への誤解を深めていた。けれど、その誤解を解くきっかけはキバナ自身の行動によって生まれたものだ。結局彼は、彼自身の行いによって出口を引き寄せてしまったのだ。これだから、私は彼への尊敬をやめられない。

「誤解させちゃってごめん。ずいぶん悩ませたみたいで、ごめんなさい。ありがとうが、言いたかった」

 私を導いてくれてありがとう。人間とポケモンの在り方を導いてくれて、ありがとう。それが、光に満ちた橋の上で大好きな存在を連れながら、あなたに言いたかったことだ。



 ずっと黙って話を聞いていてくれたキバナは、神妙な顔をして黙り込んでいる。私の話を飲み込み、受け取ってはくれだようだが、飢えた目をしている。
 彼の言いたいことは、私もわかっている。

「……ごめん、キバナが本当に聞きたいのはそこじゃないよね」
「ああ」

 自分の放った言葉とキバナの前のめりになった姿勢が、私のスイッチを入れたみたいだ。ぐわ、と顔に熱が上がる。
 未だ混乱気味な私が答えにたどり着くため、順を追って話と感情を片付けてきた。だけど、本題はもう少し先だ。
 待って、キバナ、ひとつずつ言わせてほしい。あなたにもらったものは、それだけじゃない。けれど、キバナはもう待ちきれないようだ。

「オレはオマエが好きだ」

 ひゅっと冷たい風が、手間取っている私の体を吹き抜けた。

「前にも言ったように、オマエが最低な人間かも知れないと思っても、オレの気持ちは消えなかった。いつまで経ってもオマエが気になって仕方がないし、オマエに勝るモノも見つからない。いつの間にかオレさまのものだって勘違いしそうにもなってる。オレさまのモノだって思いたいし、だれにも奪われたくない」
「キ、キバナ! ちょっと……!」

 こんな場所でそんな大胆なこと言って、周りの誰かに聞かれたらどうするのだろう。どうやら、どうもしないようだ。キバナは堂々と私を見据えている。大声ではないものの、声量を落とす気配もない。
 むしろあの日の告白を繰り返して、私に染み込ませるみたいにキバナは繰り返す。

「一緒にいると色んなことがどうでも良くなる。オマエはオレさまを馬鹿にする天才なんだよ。間違っていてもいいと思わせるのはオマエだけで、オマエじゃなきゃダメなんだ、

 キバナの瞳が欲しがっていることがわかる。答えを、それもただの返事じゃなく自分が渇望してやまない答えを求めて、ギラついている。さあ言えと、半ば追い立てるように迫ってくる。

は、オレさまのこと、……」

 キバナの想いは痛いほど伝わってくる。なぜ今まで目を向けずにいられたのか不思議なくらいに、燃えたぎっていることが分かる。なのに。


「………」

 キバナに対する気持ちはずっと前からひとつだ。だけど手渡せる答えが、その通りになってくれない。
 私の全身は強張って、口をつぐんでしまう。

「……、わかったよ」

 何も言えない、恥ずかしがっているわけでもない凍りついたかのような私の反応に、キバナの表情からすっと温度が引いていった。
 テーブルに乗り出していた上半身も行儀よく背もたれに戻っていく。

 間を置かず、私の意識を引っ張ったのはがやがやとした店内の喧騒だった。急に混雑してきたようで、奥様方の団体がレジに列を成している。
 はっとして時計を見ると休憩時間を5分オーバーしている。私はすぐさま立ち上がった。
 タイムアップだ。ごめん、行くね、と言い残し私は自分のカップごとキバナの元から引き上げた。

 喧騒の中、私たちが座っていた席を席を見るとキバナの姿はそこになく、コーヒーカップだけが寂しく残されていた。