あなただけじゃない



 今夜の月は金色だ。フェアリータイプのポケモンは月光とも相性が良い。トゲキッスは心地良さそうに羽を月明かりに浸して浮遊する。
 私はそれを夜の冷え込みを吸ったベンチからぼうっと見上げている。

 退勤後の帰り道。立ちくらみのようなものを覚えて一歩も前に進めなくなった私は、小さな公園のベンチにしがみついた。それからもう1時間近くここに座ったままだ。
 姉のトゲキッスはマイペースに夜空を楽しんでいるが、弟のトゲチックは私の不調を気遣うように、私の膝に座って体温をわけてくれようとしている。

「大丈夫だよ、ありがとう。もう少ししたら帰ろうね」

 私を待ち、温めようとしてくれてる存在が愛しくなってトゲチックを撫でようと指先を伸ばした。するとその指先までトゲチックの小さな手にぎゅっと包まれる。指先を包む健気な抱擁に、私は申し訳ない気持ちになった。
 だって私の足を絡め取ったのは、ある意味自業自得な感情から生まれたものだからだ。

 カバンからペットボトルを出して水を一口飲み下す。私の視界をぐるりとかき混ぜた、胸に広がる気持ち悪さはまだ微かに残っている。
 そして私はまた滑稽なくらいにキバナを思い出している。彼の様々な言葉や行動をなぞるように。体の変調は思考をキバナに囚われすぎているせいだ。彼のことを考えすぎるせいで食事に気が回らず、睡眠も疎かになっている。彼の存在は否応無しに私の頭を独占して、今や歩くことすら狂わせられた。

 思い出されるのは過去だけではない。今日の出来事も、すでに何度も私の目の前に蘇って消えない。
 磨き慣れた机を挟んで対峙した。私が返事に迷った様子を見て、すっと引いていったキバナの熱。ループ再生しながら、私は今更後悔していた。
 ちゃんと、言えばよかった。あんなにハッキリと伝えてくれたのに、私は答えに戸惑った。沈黙は拒絶のように見えただろう。キバナは、傷ついただろうか。

「言えれば良かったのにね……」

 でも言えなかった。
 好きと言われて私も好きと言い返す。そしたら涙が出て抱きしめ合ってハッピーエンドを迎える。そんな単純な感情の話なら良かったのに。
 唇を噛んで、自分の悪癖をたしなめるように歯を離して、また唇を噛む。
 ひときわ私を揺さぶるのはやはり、告白の言葉だ。

『ポケモン捨ててるかもしれなような女が、どうしても嫌いになれなかった、ってことだ』。もしどこか一つでも違う形の感情ならば、私はもう少し正気でいられただろう。
 そんなはずはないと、キバナの想いを何度も疑いそうになった。その度に今日まで彼が私を好きでいた事実に、強烈に裏付けされてしまう。私がトレーナーをやめた日から、今日まで。言葉通りにキバナは私を”どうしても嫌いになれなかった”のだ。

 押しつぶされそうになる甘さとは違う感情に満ちたキバナからの告白。それを私は逃げを許さないカウンターパンチかと思っていたけれど、実際は遅効性の毒のようだ。じわじわと私の外殻を腐蝕して、日が経つことに私の感情を引っ掻き回してくる。
 ぶつけられた瞬間は誤解に満ちたとんでもない告白だと思って腹立たしささえあった。けれどキバナのあの重たい告白が、私を侵食して止まない。まるで人間としての鱗を一枚ずつ剥がされているような気分だ。中身の皮、その下の肉に宿った本性が暴かれようとしている。

 震える息を吐いて、落ち着こうとして手に取ったのはスマホロトムだった。夜の中に電気の光が点り、最後に見ていたキバナのSNSアカウントが再び映し出される。
 トゲチックに温められているのとは反対のかじかむ指を、私はロトムへ滑らせる。スクロールされるのは彼がポケモンたちと重ねて来たたくさんの瞬間だ。

 スタジアムでの一枚、勝ち得たことへの感謝、短すぎる休息、トレーニングの苦しさ、負けたことへの悔しさ。
 それでも揺るがぬポケモンバトルへの情熱、ポケモンへの愛。全てを飲み込んで立ち上がり続けている彼はまさに不屈だ。
 彼を見る度に尊敬すると同時に、私は歯噛みする。私も、キバナのように強ければ良かった。良い日も悪い日も、幸運も不運も、アドバンテージも理不尽も。全てを受け止めて、戦い続けられるような強さが私にも。

「そんなにオレさまがかっこいいか?」

 話しかけられたことも、それがキバナの声だったことも予想外だった。びっくりしすぎて、ロトムと爪があたってコツンと音を立てる。小突かれてしまったロトムはケタケタと笑うように私から離れていき、キバナの顔の横で留まった。画面に映っているのと同じ整った顔立ちが私を覗き込んでいる。

「大丈夫か」
「う、うん……。キバナはどうしたの?」
「オマエのトゲキッスがずいぶん長く同じ場所で旋回してるから」

 そう言ってキバナが上を向くと、私のトゲキッスが今だに夜空で月光を吸っていた。白く柔らかそうな体が、月明かりに光ってふわふわと飛んでいるのは確かにこの夜の中でも案外目立っていた。

「アイツの姿がジムからも見えた。トゲキッスに焦った様子はないから大丈夫だとは思ったが、少し心配になったから来た。夜も遅いしな」
「大丈夫だよ、ちょっと休んでただけ。心配かけてごめん」
「気にすんな。こっちが勝手にやってることだ。言っただろ、こっちは何年もずっとオマエに付き合って来てるんだ。どれだけやりづらくともな」

 私は小さく頷いた。キバナが開き直って以来、色々あけすけにぶつけてくるせいで、私も少しずつキバナの本心を実感し始めていた。
 私もそれなりにキバナに振り回されている。けれどキバナの方も、私という存在に幾度となく振り回されてきたのだろう。こんな夜中に無駄足を踏んだというのにキバナの態度はとてもフラットだった。怒りも苛立ちも愛想もない、フラットだ。

 私がベンチの右横を空けるように横にずれると、キバナも無言でそこに座った。

「お店ではごめんね」

 そう言うと横のキバナは大きくため息を吐いた。肩ががっくりと落ち、もともと薄く引き締まった腹がぺったんこになりそうなほど大きな息を吐き切ると、キバナはじっとりとした目線で私を覗き込んでくる。

「オマエさ、このオレさまが全身全霊で口説いてるのに、何が不満なんだよ」
「キバナに不満はないよ。私にはもったいないくらい」
「じゃあ、いいだろ」
「………」
「わかってるか? オレさまがずっと押し切ろうとしてること。流されての答えでも良いんだ。折れて、頷いちまえ」

 数時間前の戸惑いとは打って変わって、私はすぐさま首を横に振った。流されなくとも、折れなくとも、答えなら持っている。誤魔化しの返事をするつもりはない。

「……疑ってはいなんだけど、もう一度だけ聞きたい。キバナは、どんな私でも、大丈夫?」
「だからヤバい女かもしれねえと思っても、好きなままだったんだよ。大丈夫とか以前の問題だ」
「そっか」

 夜に吠えるようにキバナが言う。

「どんなオマエでも大丈夫だ。それがどうした!」

 私は唇だけで笑った。
 私がどんなに酷い人間に思えても、嫌いになれなかった。もし貴方が打ち明けてくれたこの告白が、ひとかけらでも違っていたらよかったのに。
 様々な幸運を、運命の一言で片付けたくはない。でも、キバナはどうしてこんなにも私におあつらえ向きなのだろう。大それた考えだとは思うけれど、全てが噛み合わさっていく感覚があった。

「キバナ、私はね」

 毒のような言葉が血の中で脈打って疼く。

「貴方を好きだって認めるのが、怖いよ」

 パズルのピースが完成まであと一つという状態で目の前に差し出されたらピースをはめたくなるのと同じ気持ちで、私はそれを口にしていた。

「だって認めたら、他の醜い感情も、一緒に存在し始めてしまう。形を持ってしまう」

 隣でキバナが息を詰めている。

「私は、キバナが好き。そう認めるのはこれから地獄に生きようって決めるようなものだよ」








 いつからか、私はキバナを好きになった。好きになった理由はわざわざ書き出したら止まらなくなるくらい、過去に現在に未来に溢れている。
 でも、今日まで友人として期待も何もせずに振舞っていた理由はシンプルだ。恋に狂いたくなかったから。ただそれだけ。

「私、実はすごく嫉妬深いんだよ。だからスタジアムにあなたを応援にいけない。観客席にいる、貴方を好きな人たちがみんな嫌いだと思ってしまうから」

 キバナを好きになった最初は、私も純粋でいられた。分かりやすい少女らしい行動に身をやつし、周りに混じってキバナを応援していた時もあった。
 でもトレーナー仲間としてキバナと少しだけ距離が近いことが、次第に私を狂わせたように思う。
 大勢のファンを獲得していくくせに、キバナは私へ、同じポケモントレーナーとして、友人として親しげに接してくる。その度に抱いた期待は内なる怪物にとって最高の食事だったのだ。

「貴方を好きでいると、同時に、貴方に思いを寄せる人が全員嫌いになる。あそこにいると、私の好きな人を好きにならないでって叫びたくなる。好意なんて綺麗な感情でキバナの気を引かないでって暴れたくなる。軽率にキバナのことを語らないでその名前を呼ばないでって、自棄になって物を壊しそうな衝動がやってくる。だから、スタジアムは嫌い。ファンサービスする貴方は好きなのに、それを受け取る誰かがいることが憎いと、思ってしまう。貴方の友達も、貴方を慕う人々も、ダンデのことだって、ふとしたら嫌いになりそうで、自分でも怖い」

 恋心に封をした理由も単純だ。地獄の片鱗を目の当たりにしたのだ、易々と恋を続けられるわけがない。
 ずっと彼の前で被っていた仮面は、いわば友人としての仮面であった。けれどそれをかぶることで本当に隠したかったのは荒ぶる自分、知りたくなかった己だ。

「でも、もっと怖いのは貴方に失望されること。そんな想像をしただけて、世界が終わったかのように泣きじゃくりたくなる。私はそういう人間だよ。認めなければ、もう少しマシな私でいられたのに」

 だから貴方への感情は、言葉にできないままでよかった。認めて、存在を許したら、その瞬間から私は暴れそうになる自分と戦わなければならない。
 恋は素晴らしいと歌った人間はなんて浅はかで無責任なんだろうと、夜な夜な呪ったものだ。

「キバナが夢に出てきたら、私ね、いつも噛み付いているの。好きな気持ちで苦しくなって、気持ちがかき乱されると、歯が疼いてきて、噛み付かずにはいられない。夢の中で貴方に何度も何度も歯形を付けてる」

 夢の中で目の当たりにした欲望の話なんて、赤裸々すぎて恋人同士でもしない。だけど解いてはいけないリボンの先を引っ張るのは他の誰でもないキバナだ。
 私の本性を疑いながら、それでも好きな気持ちを手放せなかった。そうして貴方が戦い続けた数年間が、私の封印を解こうとしている。

 横で微動だにしないキバナに謝りたい。こんな答えしか存在していなくて、ごめんなさい、と。でも私が持っているのはこれなのだ。他には何も持っていないから、差し出すことはできないのだ。
 好きと言われて私も好きと言い返す。そしたら涙が出て抱きしめ合ってハッピーエンドを迎える。そんな単純な感情の話なら良かったのに。私が明かしたのは幸せになるための告白ではない、ハッピーエンドへのチケットとは程遠いものだ。

「キバナ。好き。この気持ちが好きでいいのかわからないけど、好き」

 貴方を愛するものに嫉妬し、憎む。そんな激情と生きようとするなんて、怖くてずっとできないでいた。だけどこんな私におあつらえ向きの感情をくれたのも貴方だ。恋情を理由に、世界に居場所をこじ開けて、こんな私に生きてしまえると錯覚させたのはキバナ、貴方なのだ。

 ポケモンを捨ててたかもしれないクズと、激情を内に飼う女、どちらがマシだったか果たしてわからない。けれど、パズルの最後の1ピースをはめられずにいられない。どんなにめちゃくちゃになろうとも、それが運命だ。何がやってきても、それが命運だ。

「そうか」

 分かっていた通り、彼は退かなかった。キバナは静かに相槌を打つと、ずっと青白く硬直していた私を引き寄せる。
 キバナと向き直るような体勢になり名前を呼ばれる。私はゆっくりと目線を上げ、キバナの表情を伺った。

「キバナ……?」

 随分前から、私は彼の様々な表情を見て来た。気を許し、見せてくれていたたくさんの表情はどれも大好きで、全て私に効きすぎるくらいだ。私の前で見せない表情も、彼の自撮りによってよくよく知っている。
 だけど今夜、私はキバナの見たことない表情を目の当たりにした。

 彼が恍惚を顔に浮かべるのは、初めてだ。

 大きな手が私の肩を捕まえる中、彼の唇が迫ってくる。私がびくりと一瞬震えたのも押さえ付けて、施されたのはキスではなかった。彼の犬歯が私の唇の裏に入り込んで、柔らかな場所に硬いものを押し付ける。私の一部を圧し、歪ませて尚、力は強められる。反射的にもがいたけれど、大きな体が容易く私を支配して、そこから広がる痛みを否応無しに受け入れさせる。
 やがてキバナが顔を離す。背後に金の月を背負った彼の瞳は満足げに溶けている。

「オレさまも、同じ夢を見てたよ」

 私の舌にかすかな血の味が広がっていく。唇と口内の境目。そこに歯形をつけた、濡れた牙を光らせてキバナは笑った。