昼を過ぎて夜にのみ込まれようとする空の下を歩く。いつもならラッシュの過ぎた店内で、一息ついている時間だ。
そう、いつもの私ならお客様の帰ったテーブルを拭き、ガラス窓の中からスタジアムへ吸い込まれていく人々を見送っている。大好きなトレーナーが見せてくれる最高のポケモンバトルを期待して、高揚する人々の横顔。それを横目に仕事に戻っているところだ。一瞬芽生えた羨望の気持ちを押しつぶして。
だけど今宵は自分がそのガラス窓の中の人混みに紛れている。キバナのバトルを見にいく人々に埋もれるのは随分久しぶりだった。
先日のことだ。私はスタジアムに集った全員に嫉妬すると伝えたばかりなのに、キバナは快晴のような笑顔で観戦チケットを渡してきた。私がものすごく嫌なことを隠さず顔をしかめると、キバナはますますその笑顔をピカピカに輝かせた。
『どうなっても私、知らないよ』
『ああ、どうなってもいいぜ!』
きっと私、とてつもなく面倒臭いことをしでかす気がする。キバナのことを思ってそう忠告したのだけど、キバナは意に介さない。それどころか楽しみだと言わんばかりに、あの夜見せた恍惚を目元の影に匂わせたくらいだ。
しぶしぶ受け取ったことに、キバナは気を良くしたらしい。とりあえず今シーズン、キバナが試合に出る分は全て私に手配したようだ。手渡しのほか自宅のポストにも、放っておいても届く有り様だ。
ちなみにチケットは必ず人間一人分と、ポケモン二匹分がセットだ。私とトゲキッスとトゲチック、みんなが一緒に観戦できるように気遣ってくれているようだ。
持ち物検査を済ませ、ゆっくりと進む列に紛れて進んでいけば、次はチケットの確認だ。
私はすでにボールから出していた二匹と一緒に前へ進み出る。
「お客様とポケモンの確認します、前へどうぞー!」
「この子たちと入場します」
「かしこまりました。トゲキッスは人間2名さま分のお席の使用で、計3名様分でお間違えないですね?」
「はい、トゲチックの方は膝とか、頭に乗せます」
「承知いたしました。……どうぞ、お進みください!」
ようやく中に入れる。人混みに押されるように歩いていけば、狭苦しい通路からスタジアムに出られた。その瞬間だけは嫌が応でも気分が高揚する。ひらけた視界に眩しいライト。見下ろす先に広がるグリーン。埋まりつつある観客席では、すでに横断幕なども用意され、気合い十分だ。広い空間に熱気がこもる中、ナックルスタジアムの歴史ある建物は、これから始まるバトルに重厚感を与えている。
キバナが用意してくれた観客席はバトルをしっかりと俯瞰して見られる位置にあった。一般席としてはかなり当たりと呼ばれる気遣いを感じる贅沢な3座席に私たちは腰を落ち着けた。
ざわめきに包まれてバトルの開始を待つ。興奮が高まっていく瞬間だ。しかし私は肩を落とす。
「はぁ……」
憂鬱だ。とにもかくにも、憂鬱ばかりだ。
気分をごまかすように飲み物をストローから吸うと容赦ない痛みが走る。スタジアムの気分に乗せられて炭酸飲料を買ってしまったせいでもあるが、キバナが唇と口の境目に噛み跡は見事に口内炎になってしまっているのだ。
あの夜に私はついに白状した。光に包まれるような朝焼けの中で伝えられたキバナの愛。それに対し、私のは重く、暗く、醜く、汚らわしく。光に照らされた中では決して言えないような代物だったのにも関わらず、キバナは喜んで私を恋人にしてくれた。
恋人同士にはなったけれど、私とキバナはそう大きくは変わっていない。お互いが、お互いにある感情を知っただけだ。
だからキバナのためスタジアムに集う人々へ、私が抱いてしまう気持ちは何も変わっていない。
ただ、私の悪感情をキバナ自身は喜んでいる。打ち明けた通りに私が機嫌を悪くするたびに、キバナはいつも楽しくて嬉しくて仕方がないという顔をするようになった。
その上で私に次々観戦チケットを送りつけてくるのだから、キバナは本当に挑発的な男だ。
私をこの地獄に落としたのだから、早くキバナは責任を取ってほしい。
キバナのバトルが楽しみな気持ちと、どうしようもないドロドロとした気持ちが綯い交ぜになっていくのを、口内炎の痛みでごまかす。すると、ふと隣の座席から視線を感じた。ゆっくりと私も視線をずらすと、隣に座っていたのは見知らぬ女性だった。
丸っこい目と、視線が合う。年下に見える彼女はレプリカのウェアを着て、全身で自分がキバナサポーターであることを表現している。
「あの! お姉さん、これ使いませんか!?」
ずい、と目の前に差し出されたのは、応援用フラッグだ。
プラスチックの柄についた旗には、紺地にオレンジの線が走り、ドラゴンのエンブレムが描かれている。一目でわかる、キバナを応援するための旗だ。
「ため息ついてましたけど、何か嫌なことでもあったんですか!? でもせっかくのスタジアム戦ですよ! これ使って、お姉さんも思いっきりキバナ様を応援しましょう!」
女性サポーターの屈託のない笑顔を浴びて、私は自分がとても周りから浮いていることに気がついた。
ここはナックルシティ。キバナのホームだ。周囲はキバナのファンである人々で溢れていて、スタジアムグッズを身につけている人も少なくない。それに皆、誰かしらと一緒だ。サポーターのグループと思われる集団の他は家族で、友人で、恋人で見に来ている人が目立つ。
なのに私は普段の服装かつ、自分のポケモンとは一緒だが一人っきり。スタジアムに来ている人は皆、これからのバトルに胸を躍らせてしかるべきなのに、ため息までついている。だからたまたま横に座った彼女が気を使ってくれたのだろう。
「遠慮しなくていいですよ!」
「えっと、その……」
優しい人だ。だけど私は顔を固まらせてしまう。
以前の私なら善人の、なんでもない人間のふりをして、その旗を受け取っただろう。快く、ありがとう、と嘘を言っただろう。
だけど私はもう、自分に嘘をつけない。本当の自分に比べればはるかに美しかった嘘を、剥ぎ取られ、脱ぎ捨ててしまったのだ。
横に座る彼女は何も悪くない。だけど、ごめんなさい。そう言おうとした時だった。気を利かせてくれたのはトゲチックだった。ふわりと私たちの間に降りてきて、その旗を受け取ると、またふわりと浮き上がって持って行ってしまった。しかも上空で、楽しげに右へ左へと振っている。
「あの、ありがとうございます。私のトゲチックが気に入ったみたいなので、この試合の間だけお借りしても良いですか?」
「もちろんです!」
トゲチックのおかげでこの人の好意を無駄にせずに済んでよかった。ありがとね。空中で機嫌よく旗を振り続けているトゲチックに、私は心の中でお礼を言った。
安堵に肩を落として正面に視線を戻そうとした。けれど、横の女性はなぜか私に好感を抱いたようだ。好奇心に満ちた目で、まだ私の方を見て来る。
「お姉さんは、キバナ様のどんなところが好きなんですか!? 試合始まるまで、語りません!?」
「ど、どうして私がキバナのこと、好きだって思ったんですか?」
「試合が始まるの、ワクワクしてるように見えますよ? それに、スタジアム観戦に一人で来るって相当のバトル好きでキバナ様好きに見えます! そもそもここ、好きな人が気合い入れないと取れないような、すごく良い席ですし!」
「あはは……」
苦笑いしてしまったのは、この女性の言うことがあながち間違っていないからだ。
私はバトル観戦自体は好きだし、楽しみにしている。席を用意したのはキバナ本人だ。キバナはもちろん自分自身のことも好きで、私のために適当に選んで席ではないあたり、当たってはいる。
「えっと。キバナさんの、好きなところ、ですか?」
まさか私がキバナの恋人だなんて、バレはしないとは思う。けれど親しさを隠すようにキバナさんと呼んでみる。質問内容を確認すると、話に乗ったことが嬉しいのか女性は何度も頷き、私の言葉を待った。
「そうですね……。……ポケモンが好きな人って、ガラルにはいっぱいいますよね。それに、ポケモンバトルに勝つのが好きな人も、たくさんいる」
「はい、そーですね!」
「だけどキバナさんは、そういう人たちとは少し違う。あの人は、ガラルで一番ってくらいポケモンを愛してる人なんじゃないかな」
私が思ったより重たく彼のことを語るから、女性は驚いているようだった。憂鬱な私の奥底を覗き込んだのは貴女なのだから、最後まで付き合ってもらおう。目を細めて彼女を覗き込みながら、私は続ける。
「誰よりもポケモンを愛している。だから育てたポケモンと、何度でも戦おうと立ち上がれる。不屈でいられる。キバナさんを見てるとね、思うの。あの人は、ポケモンが素敵な生き物だから愛してるんじゃない。ポケモンといることで生まれる喜びも苦しみも全て愛の元に受け入れていける、そういう人なんだろうなって」
自分の大切なポケモンと関係をつなぎ直す。ロトムと暮らし始めたことはその大きなきっかけだったけれど、何よりも、私はキバナの背中に導かれてきたのだ。辛い記憶は薄れていない。だけどポケモンといることで生まれる全てのことを受け入れていこうと思えたから、私は再びモンスターボールを握れた。
そして、私自身も。彼の全てを飲み込まんとする愛情にほだされて、のこのこと裏側にあったものを引きずり出されてしまったのだ。
「だから、すごくトップジムリーダーに相応しい人だなと思う。もちろんジムリーダーじゃなくても、彼のことは好きになるとは思うけど……。チャンピオンはその名の通り頂点に立つ王様。けど、みんなを高みに連れて行くのがジムリーダーなんだろうなって考えると、キバナさんは最高のジムリーダーだよ」
少し呆然としている隣の女性のことを、意識が通り越していく。私が思い浮かべるのはあの大好きな姿だ。
「そういうところがいい、って思うな」
気づけばスタジアムに満ちていたざわめきがなりを潜めていた。話はそこで途切れ、私も彼女も前へと視線を奪われた。
前座も引き上げていて、スタジアムのライトは煌々と誰もいないバトルフィールドを照らし出す。さあ見届けよ、と言うように。
キバナに私の正体を教えてしまったこと、まだ少しだけ後悔している。だけどもう後には戻れない。
キバナ自身が私という名の、とんでもない女の存在を許してしまった。愛の名の元に受容されることを知って、卑怯にも私が生まれてしまった。地獄に生きるようなものだと言ったことさえ、頭から飲み込まれて、あの人の腕の中に引き込まれてしまったのだ。
キバナが入場する。私もざわめく。貴方と共にこの手に掴みきれない感情を、再び放つ日々が幕をあける。世界が煌めく。さあ、見届けよ、と。