退紅の章





 特別な存在とは、その目も眩むばかりの光をまるで薄絹かのようにまとうのだ。そうオレに、自身の存在を以って教えたのがだった。

 が集落に再訪したのは昨晩のことだった。商人と彼女と、彼女の連れるヤミカラス。その一行が来たのは冬ぶりだ。
 いつも通り、お互いのポケモンを出して手合わせしたら、あとは数日しかいない彼女を交えて思いっきり遊ぶ。会わないでいた間にあったことを、お互いに話して聞かせる。疑うことなく繰り返してきた楽しい時を、今回も彼女となぞるのだ。オレはそう、漠然と思っていた。
 手合わせのあとだった。そっとオレの横に立ったが、ちらりちらりとオレに視線だけを寄越す。何かと思って見返すと、意を結したように彼女はオレに耳打ちした。

『セキ、もしかして……元気ない?』

 図星だった。彼女がせっかく集落に来てるからと表には出さないようにしていた。なのに見抜かれ、オレが返事ができずにいると、はさらに、ずい、と前のめりになって聞いてくる。

『おなか痛い?』
『いや、腹は別に……』
『じゃあ何かあった?』
『……、……応』

 しばらく口籠ったが、オレはすぐに諦めた。どうせ、集落の連中はみんな知ってることだ。オレは、この前のことをかいつまんで彼女に話した。

 この間、試しに吹いてみたカミナギの笛で酷い音を出してしまったこと。それを聞いたやつに随分笑われたこと。何度か練習をしているが一向に良くならないこと。内心、かなり、焦っていること。

 オレがカミナギの笛を吹けない。笛が吹けなければキャプテンとしての仕事はできないに等しい。
 しかしそれが重大な問題であることが、彼女にはわからないのだろう。の反応は、ふーん、とぼやくばかりの軽いものだった。
 今も集落での役目が危ういことがオレの足元をぐらぐらと揺らすが、きっと彼女にとっては理解のできない悩みだ。それを物悲しく、でもどこかで羨ましく思っていれば、は目をくるりと右上にやってから、にっこりと笑った。

『セキ。一緒に集落を抜け出さない?』
『抜け出す、って……』
『ちょっとだけだから。わたしがセキにいい場所、教えてあげる』

 親代わりの商人に連れられ、あちこちを渡り歩いている。彼女の言う”いい場所”はそれなりに魅惑的な響きがあった。
 気づかないうちにオレは頷いていたらしい。はあっという間に前へと駆けて行って、集落と外との境目でオレを手招きしたのだった。

「セキ、着いたよ!」

 が赤い頬を膨らませて白い息を吐く。オレも同じような真っ赤な顔をしてるだろう。随分な上り坂、というよりほぼ崖を登ってきたようなものだ。目に入ってきた景色を見て、オレは大きく息を吐いて言う。

「なんだよ。いい場所ってリッシ湖か」
「へー。ここリッシ湖って言うんだ。綺麗で、気持ちいいよね」
「……まあな」

 静まり返ったリッシ湖。ポケモンたちのなきごえも遠い。湖面に時たま波紋を立てるのは、そこに住むドジョッチたちだ。
 濃いもやの中では汗は乾いてくれない。オレとは熱くなった体を抱えて湖畔に座り込む。

「リッシ湖って、コンゴウ集落の人たちはよく来るのかな? セキもたまに来る?」
「あんまり。ここって他とは空気が違うだろ? だから何もなきゃ近寄らない。ここに来るまでの道も危ないから、子供だけじゃまず来ないな」

 そう、完全にポケモンたちの縄張り内にあるリッシ湖は、子供二人で出かけるような場所ではない。道中には危ないポケモンもいるし、集落からは離れ過ぎている。
 のヤミカラスがいなければ、オレを誘ったのが外の世界を知るでなければ、オレも集落の外には出なかっただろう。

 ポケモン勝負ではオレが勝つことの方が多い。だが集落の外の歩き方はとヤミカラスの方が上手いようだ。道中も、息もあっていた彼女とヤミカラスに、オレは始終悔しい気持ちになって後を追っていた。
 その一抹の悔しさを苗床に、今もむくむくと対抗心が湧いてくる。
 ほとんど出会った時からそうだ。オレはが嫌いではないのに、いつだって彼女より上手でありたいと思ってしまう。相手にはなんでも勝って、彼女にすごいと言ってもらいたいのだ。

「もし大人に知られたら大目玉だな」
「そうなの? ごめん、知らなかった……。セキ、わたしが悪いんだから、わたしがごめんなさいするよ」
「ありがとな。でもこのことは秘密にしておけばいい」
「そうかなぁ……」
「もしこっぴどく叱られてもオレはいいや。来たかったから来たんだ」

 カミナギの笛から出たとんでもない音色については、もう集落中の人間が知っている。
 音色を聞いて丸まった目のかたちが強く焼き付いて、ずっと頭から離れなかった。一向に上達しない自分を、皆がどう思っているのか。いつ何をしていても、気になって仕方がなかった。
 だけど湖まで来て、集落が遠のいて、気分が随分凪いだ。のおかげだった。そしてが集落の人間じゃないおかげだった。

「ありがとうな、

 そこから抜け出そうという提案も、子供だけでリッシ湖を見にいこうという考えも、集落の人間ならきっと考えつかなかった。
 オレたちの周囲に立つ、見えない柵を軽々飛び越えて、はオレに笑いかける。やっぱり怒られるのちょっと怖いから、大人にする言い訳を一緒に考えよう、だなんて言いながら。

 言い訳ねぇ、と相槌を打ちながら、オレは目を細めていた。彼女へと笑い返していたのではない。彼女という存在がその目も眩むばかりの光をまるで薄絹かのようにまとうから、目を細めずにいられなかったのだ。






 幼い頃は崖のように思えた道のりは、大人になれば単に少し急な坂となっていた。リーフィアが軽々と飛び越えていく先を追いかければ、少し息が上がった程度でその場所にたどり着く。
 探していた背中はあの日みたくそこに座り込んでいた。側には相棒のヤミカラス。薄靄に白く烟る首筋はりんと伸びて、リッシ湖の中央を見ているようだった。

「ここだったか」
「セキさん」

 オレの声にが振り返る。どうしてここに、と言いたげなちょっとだけ驚いた顔。それはオレの胸の荒れとは全く釣り合っていなくて、深いため息が出そうになる。

「誰にも何も言わずに集落を出て来ただろ。皆がが見当たらないって、不思議がってたぞ」
「そりゃ、まあ、抜け駆けですから」
「………」

 悪びれない返事に閉口すれば、も自分がかなり周囲を騒がせたことを悟ったらしい。すみません、と小さく頭を下げる。
 オレが皆に彼女は大丈夫だと言っておかなければ、今頃大捜索が始まっていた。彼女にあとでしっかり言い聞かせなければならない。そう思うと先ほどは堪えたため息が出てしまう。

「でもセキさん、よく場所が分かりましたね」
「最近が何か考え込んでるのは見てた。一人で何か考えるっていう時は、ここに来るだろ」
「あはは……」
「悩んでる時はここがいいって教えたのはだぜ」

 その思い出は彼女の中にもまだ残されていたようだ。彼女が返事の代わりに柔らかく微笑む。
 オレも横に座る。冷たい草の上に腰を落ち着けたら前を見て、二人して湖面を眺めればぽつりとも思い出話をこぼした。

「あの頃からセキさんの髪が綺麗だったの、よく覚えてます。髪の長かったセキさんは特に、男の子なのに綺麗でした」
「あん時は伸ばしっぱなしにしてたし、長すぎだ。これくらいが一番色っぽいだろ?」
「……、……自分で自分の魅力わかってる人って、質が悪いですねぇ」

 彼女が精一杯の嫌味で刺してくるけれど全く痛くない。一笑すればも困ったように笑う。

「それで、何があった?」
「………」
「ここ何日か浮かない顔をしているだろ。何で悩んでるんだ?」

 ここに来るということは、何か心に波立つことがあったのだろう。
 彼女を待たずにリッシ湖まで追いかけたのは、話を聞いてやりたかったからだ。
 は視線を迷わせったが、やがてそっと、懐から小さな巾着を取り出した。大事に大事に見せたのは、ツバキが先日ついに渡した、やみのいしだった。

「……ヤミカラスを進化させるのが、怖いんです。ヤミカラスが強くなってくれたら安心だし、皆も喜んでくれるってわかっているんですけどね。いざとなったら尻込みしてしまって……」
「怖いっていうのは、ドンカラスそのものがか?」

 ドンカラスになれば体の大きさも、獰猛さも変わる。
 彼女の頭や肩に停まっていたヤミカラスだが、進化の後はヤミカラスたちを従える頭領のような立ち位置のポケモンとなる。
 その恐怖ならば理解できると思ったが、はふるふると首を横に振る。

「姿かたちが変わることは怖くないです。見た目が変わっても、あの子であることには変わりない」
「そうだ、心配ならいらねえよ」
「はい。だけど……。強くなったあの子を私がちゃんと御してあげられるか、確かなものは何もないから……。もしかしたら、今度こそ私の前からいなくなっちゃうじゃないかって思うんです」
「………」

 ぐっとオレの喉元を塞いだ重石。息苦しくて仕方がなかったが、一方で感謝した。重石がオレの喉をおかえるおかげで、それはお前が言うのかという苦言が声にならずに済んだからだ。

「ヤミカラスの時は、やっぱりあの子より強いポケモンはあちこちにいるから、私とも力を合わせる必要もあった。けどドンカラスになれたら、きっとひとりでも生きていけるから」

 ああ、とが嘆息する。

「ツバキもこんな気持ちだったんですかね」
「全く以ってその通りだな。……大丈夫だ。とヤミカラス、幼い頃から一緒だっただろ」

 口から出たのは彼女を宥めるための言葉だった。なのに、言いながらそれは真っ直ぐオレへと突き刺さった。

 大丈夫だ。とオレ、幼い頃から一緒だっただろ。
 何度もまじないのように自分に聞かせ続け、幾度も意味のなさに頭(かぶり)を振らされた。
 無力な考えだと知り尽くしているくせに、そっくりそのままの言葉をに向け、彼女を慰めようとする自分の、なんて滑稽なことか。

 膝を揃えて横に座るは瞳を不安げに揺らして湖面を見ている。そんな様でさえ、オレの押し込めた不安を再び掻き立てる。

 もうシンオウさまの教えだって彼女の身に染み込んでいるはずなのに。
 夫婦になろうと言った。一緒に生きたいとも、集落に骨を埋めるとも言った。
 だけど遠くなったあの日が言う。リッシ湖のほとりは、が己と違う生き方を知るおかげで辿り着けた場所だった。
 思い悩むオレのために、彼女は子供だけで湖まで歩こうと言った。集落の子にはできないやり方でオレに手をさしのべた。
 そして彼女は大人になった今も簡単に、誰にも言伝を残さず、集落を抜け出した。きっと集落の人間なら、以外の人間ならこんなことはしない。できやしないのに。そう思えてならない。

「せ、セキさん? どうしたんですか?」

 たまらずを抱き寄せると、腕の中でオレの特別は小さく熱を持っていく。
 束の間戸惑ったあとは、熱っぽく、安らいだような息を吐いてくれる。

 大丈夫だといついつでも信じたい。彼女の誓いも金剛石のように何にも砕けぬものだと思って疑いたく無い。
 何度も彼女を信じようとしている。
 だからこんな簡単に、本来は生き方の違う存在だと見せつけられたら、彼女に心底溺れている気持ちが不意に裏返りそうで恐ろしい。もしこの思いがひっくり返って様変わりしたら、それは何と呼ぶ感情になるだろう。

 どこにも行かないでくれ。ここにいてくれ。それを何度、喉の奥で繰り返しただろうか。
 あと少ししたら、爆ぜそうなそれをオレはまた飲み込むだろう。これまでもそうしてきたように、腹の奥へと押し込むだろう。
 上手く飲み込んだら、彼女を軋ませるほど力を込めてしまったこの腕の力を、皆を心配させた罰だと言って笑おう。
 笑おうと心に決めて腕を緩めて見れば、薄絹が、気づいた時から彼女がまとう薄絹のような特別な光が今日も彼女を包んでいる。

 その衣を引き裂く術は、きっと今後も見当たらないだろう。
 もし輝きを葬る時が来るならば、オレは同時に何を喪うのか。考えたくないからその特別な眩さごと彼女を愛すしか、オレに道は無いのだ。