「有り難うございます。貴女にそのように言っていただけるのは諸手を上げて喜びたい気分です」


 城に尽くされるお姿に、いつも心で思うばかりだった賞賛を伝えれば、彼はそれに控えめな礼を返した。謙虚なお答えがまた、尊敬を抱いた彼のままであり、わたしは感動を深くしたことを覚えている。
 彼は続けた。


「若い頃の覚悟が未だ私の背を押してくれるのです。お前は自分に出来る最大限のことをせよ、と」








 雨が、降っている。まだ真昼だというのに雨雲に光は閉ざされていた。空の火が烈空をゆく獣に喰われてしまったというような嫌な薄暗さのなか、私は城に灯りをつけてまわっている。大きな城に属す小さなわたしに与えられた小さな仕事、そのひとつだ。
 オルドラン城の物事が円滑に回るよう気遣いを尽くすこと。例えば、花に水をやる。兵士の着物がほつれれば縫う、わたしの手に終えないほつれならば職人の元へ仕事の依頼へ行く。昨日は城の全てのドアノブを点検し、適切な堅さになるよう調節した。城の中が暗いと思えばこうして灯りをもって自らの足で回ることも、オルドラン城に平和あれと思えばこそだ。
 些事がパイのように重なり合うそれが、リーン様がわたしめに与え授けてくださった仕事であった。

 人の通らない隅々まで、闇を潰すように火を灯していくなか、わたしはあの青のお姿が城内に無いことに気づいた。
 順繰り巡り、離れにあるアーロン殿のお部屋の前につく。人気は無く、やはりこちらにもいらっしゃらない。
 この雨の中、出かけられているのだろう。城中を今し方歩いてきたわたしにはアーロン殿の不在を断定をもって言い切ることが出来る。城の隅々まで確認したし、わたしがアーロン殿のお姿を見逃すことは未だかつて一度も無いのだ。
 そんな自分を少し恥ずかしく思いながら扉の横のカンテラに火をつけた。部屋の中は寂しく薄暗い。少し迷い、濡れたスカートのすそを掴み寄せてから、わたしは中に入った。
 アーロン殿には独り好きな側面を持ちながらも反するように人との間に隔たりを持たない人間であるようで、わたしでさえ幾度も部屋に招いていただいた。だというのに、未だ彼の住まう空間に入ることは慣れない。手首の脈が早鐘のようだ。
 そそくさとわたしは暖炉の火をつけにかかる。
 この雨だ、帰ってきた部屋が冷たいのはよくない。アーロン殿の体に何かあれば一体どれだけの人が悲しく思うだろう。想いは暖炉の火だけでは収まらず、わたしはその後何往復かして、アーロン殿の部屋を整えた。
 短くなっていたろうそくを新しいものに変え、体を拭くための清潔なシーツを目のつきやすいところに置いた。イスの位置を整え、花瓶の水を替えたところで、くしゃみがひとつ出てしまい、頭に上っていた熱が急激に失われた。
 仕事という言葉がわたしの立場を守ってくれなければ、わたしはただのお節介焼きである。それでもアーロン殿はわたしを非難したりしないだろう。胸中どうあれアーロン殿は疑いようもなく人格者なのだ。彼が、まばたきの度にまぶらの裏に浮かび、どうしようも無く泣きたくなった。
 ため息をつきつつ、爪まで冷えた指でドアを閉めた。はじまりの樹があるであろう方角を見つめる。おそらく、未だアーロン殿がいる方角を。


さん」


 ごく近くでかけられた声。ヨノワールから肩をたたかれたか、というくらい驚いた。振り返り、声の主がアーロン殿であったことにまた口元を押さえてしまう。


「あちらははじまりの樹の方角ですが。どうされたのですか」
「……いえ、何も」
「そうですか」


 このお方は何故か、わたしなどにも敬いの色を含んだ言葉で話しかけてくれる。リーン様に一番と言って良いくらいに信頼を寄せられ、必要とされる尊いお人が、身分を超えて丁寧な言葉と動作で接してくるのだ。これでアーロン殿を好かない人間がいるとすればそれはよっぽどのひねくれ者である。わたしは、懐疑と自惚れを繰り返す日々だ。


「灯りを有り難うございます。こんな離れまで。でもきっと貴女だと思いました」


 思いました。分からないことなどなさそうな波導使いであるアーロン殿には似合わぬセリフだ。


「貴女は本当に、城の何者にも優しいのですね」
「仕事、ですから」
「貴女の心配りは嬉しいのですが、この様子ですとこれから風が強くなり明日には嵐になりそうです。ですから明日はこのような無理は……」
「失礼いたしました」


 それ以上の言葉を聞き届ける度胸などわたしには無かった。一礼をし、わたしは逃げるように雨の中へ走り出す。
 アーロン殿が帰ってくる前に全てを終わらせるつもりだったのに。ああ、長居をしすぎた。
 打ち鳴った自分の脈の音。それは雨と同じように、次の暗い朝を越しても続いた。窓を飽きることなく叩く雨、いや水の矢。アーロン殿の言うとおり、雨は嵐になっていた。

 翌日。嵐は、城の人間に忍耐という試練を与えたようだった。ごうごうと風、雨、そして風に乗ってきた木の枝やらが窓に当たって騒がしい。
 いつまで降るのだろう。一番高い塔に登っても雲の切れ間は見えなかった。

 沈黙する兵士たちの間をすり抜け、わたしは本日二度目の城の見回りを行っている。太い松明まで消えていたのを見かけ、さらに激しい雨風が城に来ているのだと悟った。昨日と同じように灯りをもってわたしは城の全ての火を見回っている。
 見回りの最後に残るのはいつも通りアーロン殿の住まう離れだ。
 昨晩のアーロン殿の言葉が思い出され、一度は戸惑う。でもやはり、この暗い中でこそ灯りは必要とされる。その思いは変えることが出来なかった。わたしはぎゅっと肩を縮こまらせ、屋根の下から飛び出す。火を守りながら、離れを一直線に目指して。

 暖炉の火や、シーツや、花瓶の水替えや。仕事を言い訳に昨日みたいなお節介はしない。ただ、あの方が帰って来られるよう玄関のカンテラに火を点けるだけ。わたしは震える指でそれを成し遂げ、いざ帰り道というときだった。


「待ってください、濡れてしまわれますよ」


とっくに髪に滴をしたたらせたアーロン殿がそこにいた。息を軽く切らせている。


「灯りが見えたから、貴女だと思いました。お怪我はありませんか」


首を横に振ると、アーロン殿は自らのマントを広げ腕で形づくる。中に出来た小さなテントのような空間がわたしに向けられる。


「貴女のお部屋は東塔にありましたね」


 送ると、いうのだろうか。
 急なことにまとまって飛び込んできた息が、のど奥を痛い程に突いた。


「入ってください」
「結構です。わたしはもう濡れています」
「これ以上濡らさないよう送ります。風からも貴女を守れます」
「そんな」
「入ってくれないというのなら、では私の部屋に寄っていってください。そこで嵐が止むのを待ちましょう。どちらにしろ雨の中一人では帰しませんよ」


 そうなったら、わたしはますます困ってしまう。仕事を全うできなくなることに加え、嵐が止むまでアーロン殿と一緒にいることなんて、耐えきれるはずがない。
 強烈なニ択に迫られ、わたしはアーロン殿の腕の下に入れてもらうことになった。

 東塔までの道のりは異常に長く感じられた。
 天から落ちてきて蒼いマントを打つ雨音より、体の内側で打ち鳴る音ばかりが耳に残る。
 アーロン殿の腕が疲れてしまう。そう思い足早になった歩きに、ぴったりと呼吸を合わせてくるのだから、またわたしは息の詰まるような思いがした。


「嵐になることを教えたのに、また貴女は無理を」
「わたしの仕事ですので」
「貴女の優しさは仕事の度を超えているように思います」
「買いかぶりです」
「けれどそう感じているのは私だけではないようだ。今日これからはなるべくお部屋にいてください」


 アーロン殿の声は低く、しかし一番聞きやすい音であるかのようによく通る。一層近くにいる彼の声は、逃しようもなくよく耳に入ってくるのだった。


「度が過ぎていることがあるというのなら、それは、謝ります。でもかき立てられるのです。以前自分の中に打ち立てた覚悟がそうさせるのです」


 アーロン殿が教えてくれたことだ。
 覚悟を持てば、それが自らを動かしてくれると。だからわたしも覚悟を決めたのだ。アーロン殿のように強い人間になりたいと願ったから。


「覚悟、か」
「はい」
「いえ、私は貴女にただ尊敬の念を抱いているのだと伝えたかった。貴女にはこれからもそうあって欲しい」
「尊敬なら、わたしこそ。……わたしはアーロン殿こそを深く尊敬しております」


 その時、アーロン殿への賞賛を再び伝えようとした時わたしは、いつぶりだろうと思うくらい珍しくアーロン殿の笑顔に笑顔を返すことが出来た。
 彼の近くは不思議だ。途方もなく気が張るのに、ふとしたところで話したいこと、伝えたいことが次か次へと浮かんでくる。
 東塔までまだ少しある。目的地に着くまでのちょっとした間、たわいない話を投げかけるのは有りだろうか。この道、この天候ならば誰の視線も無いだろうと、そんな小賢しい考えが頭には浮かんでいた。


「……波導使いの方というのは空の様子、明日の天気までお分かりになるのですね。おっしゃるとおりの嵐になって、驚きました」
「そうでしたか。実は波導使いであるかは関係ないのです。雲はある程度読めるものなのです」


 アーロン殿がこちらに笑みを向けたのが感じられ顔を上げた。それが、興味を示したように見えたらしい。アーロン殿は、真剣なまなざしをした。


「いつもルカリオと修行している場所を教えます。仕事が終わったあと、いえ、貴女の時間があるときならいつでも構いません。来て下さい。近くの丘から、雲の読み方を教えます」
「いいの、でしょうか」
「はい。きっと、来て下さい」


 東塔に着くころ、雨足は僅かだが柔らかくなり、嵐の終わりが来ることを感じさせた。アーロン殿の近くはほとんど濡れることがなかった上に、くるぶしから這いあがってきた寒さはどこかへ行っていた。スカートの裾は濡れたままだというのに、わたしの体は熱い。

 朝が来るころには晴れるだろうか。読めない空を必死に見つめる。明日の朝というのは気が早すぎるだろうか。けれど、とにかく早く晴れれば良い。アーロン殿に会いに行く覚悟がそんなに早く出来るわけがないのに、わたしは窓の外、見えない星に祈りを捧げた。