手紙の書き出しはいつも決まっている。わたしがお城で働くことを望んだ理由となる人。遠くへ行くわたしの背を押してくれた人のことを書く。
『お母様へ
いかがお過ごしですか。お身体はいかがでしょうか。辛い時にそばにいられなくてすみません。わたしは変わりなく、お城で頑張れています』
自分の近況を伝えようとすると、すぐに胸を占めそれしか考えられなくなるような出来事がある。アーロン殿との嵐の夜。しかし思い浮かべただけだ。軽い気持ちで書き添えることなど出来ないので、わたしは嵐のことだけを続ける。
『この前は随分な嵐でしたが、家の辺りは大丈夫でしょうか。何事もなく、雨が作物の恵みとなれば良いのですが。もう少しすれば家の周りの麦畑が金色になる頃ですね。とても懐かしく、帰りたいとも思います』
帰りたいと書いてから、少し後悔した。故郷の風景を書き添えたことも。どちらもあまり恋しがっても意味がないことなのだから。朝から憂鬱がすり寄って来る。
姿を現した寂しさを塗りつぶしたい気持ちに駆られる。書き直そうかと思ったけれど、便箋一枚が惜しく、ペンを続けた。
『お金を送ります。あまり多くはありませんが皆が食べ、弟や妹たちが新しい服を、』
指がはた、止まってしまう。戸惑ったペン先からインクが滲み、紙の中途半端な場所に黒い花が咲いた。
ひとつ息を吐き迷いを払えば、続きの文面が浮かんできて、わたしはそれにしがみついてペンを動かした。
『買える足しになればと思います。
一緒にいただいたお菓子も送ります。といってもチョコレートなのですが。
皆がいつまでも健康でいられますよう、願っています。それでは。
』
走り書きの最後に自分の名を記して、封をする。チョコレートの厚みと香りのおかげでそれは贈り物らしさを纏った包みになった。母と幼い弟妹たちは喜んでくれるだろうか。
時間だ。抱えることも出来るくらい小さな荷車をひいて、わたしは早朝の城内をひとまわりするルートについた。
「おはようございます」
「おはよう。今日のぶんだ」
「はい、お預かりいたします」
荷車の上に乗せられたカゴに、入れられた手紙。この城の人々が個人的に書いた手紙の回収はわたしの朝の仕事のひとつだ。些事がパイのように重なり合うそれがわたしの仕事だ。
各部署を巡り、兵舎を巡り、アーロン殿の離れでは机に置かれた手紙を回収し、やがて集まった手紙は山となる。その上に最後に先ほど書いたばかりの田舎の母と兄弟に宛てた手紙を加え、城門まで来た郵便屋に渡す。城から出てゆく手紙と引き替えに、わたしは城の人間に宛てられた手紙の山を受け取った。郵便屋と一言二言交わして、今度はそれを部署、部門ごとに振り分け、配りながら来た道を戻る。
これがわたしの朝一番の仕事だ。すっかり慣れてしまって、もう朝の散歩のようになっている。
アーロン殿へ届く手紙は意外に多い。意外に、という言い方は失礼に当たるだろうか。ただアーロン殿は友人たちと過ごすのと同じかそれ以上に孤独を好む人柄らしいので、まめな手紙なやりとりが意外に感じられたのだ。
彼に届くものは遠方からの便りが目立つ。格式張った手紙は見受けられないのだからほとんどが遠くの友人からの手紙なのだろう。ああ囲まれている人間関係にすら、アーロン殿の人格は現れるのだなと感嘆するばかりだ。
順当に離れにたどり着いたが、アーロン殿は不在である。当たり前だ、彼の朝は誰よりも早いと聞く。毎朝のパンを作るパン職人も彼の起き抜けを見たことがないらしい。わたしに限らずアーロン殿は普段の生活の中では会うことのない人なのだ。
鍵はかかっていないのだけれど、わたしは数通の手紙をドアの隙間から差し入れた。
空は心地よい晴れを予感させる、朝日混じりの水色だ。あの嵐の日、アーロン殿はわたしに雲の読み方を教える、だからいつか訪ねて来て欲しいと言った。そういう知恵を分け与えることも波導使いの道のひとつなんだろう。わたしにも声をかけてくださるとはやはり尊いお方だ。
代わってわたしはどうしようもない人間だ。アーロン殿のきっと来て下さいという言葉に反し、わたしはまだ一度も教えられた修行場所には行っていなかった。
その心理はとてもくだらないものだ。わたしは、自分の身なりが恥ずかしいのだ。
アーロン殿が教わる側の服装によって知識の程度を加減するような人だとは思っていない。問題はわたし自身の心にある。どうやらわたしは雲の読み方を教えてもらうことに何か筋違いの期待を抱いていて、その場に普段城ですれ違うときと同じ服装であることを恥ずかしいと感じているようだ。今まで一言二言交わす時には散々な姿で晒していたくせに、こんな時にだけ乙女らしい心理が出てくるなんて、本当に、恥ずかしい。
逃避気味に新しい服でもあれば、と何度も考えた。母や兄弟に送ったお金があればそれは叶っただろう。けれどなけなしのお金はもう郵便屋の手に渡してしまい、時期に家族のお金になる。
渡してしまってよかったと今では思う。家族のお金をせしめる選択なんて一時はよくても必ず後悔するだろうと思えた。
お金は消え、間違いを起こさずに済み、朝日には変わらずわたしを照らす。わたしは清々しい気持ちだ。
これですっきり諦めよう、着飾ることなんて。いつも仕事着というのが、わたしの身の程を的確に表し、丁度良いのだから。あの嵐の日に裾を濡らしたのと全く同じ服装だけれど、お昼の仕事が終わったらアーロン殿に会いに行こう。そして今日の雲がなんと囁いているのかを教えてもらおう。
ようやくの決心が、寂しくも晴れた気持ちの中に浮かんでいた。
不慣れな道を歩いて会いに行った先にアーロン殿はいなかった。人の形のように組まれたり、打撃を追った丸太など彼とルカリオの修行の形跡はあったのだが、人気は無く、不在らしかった。
だめ押しで辺りを探しアーロン殿の名を何度か呼んでみたが、木々の隙間にも草原の向こうにもアーロン殿の姿は無かった。青と黒の帽子が無いものかと金に枯れた草原に目を凝らしてみたけれど、そこにはニドランのオスとメスがじゃれあっていただけだった。
自分の頭の足らなさに呆れた。今日まで戸惑い足踏みしていたのは自分なのだから、自分の都合で行けば会えるなんていうのは甘い見通しだったのだろう。実際都合の良いようには行かなかった。
足はぐったりと疲労していた。隠しきれない落胆とともに帰った城の薄暗い廊下で、早々にわたしはアーロン殿に出くわした。
「さん!」
「……アーロン殿」
先ほど必死に探していたマントが近くで翻る。わたしは遠い目でそれを見た。
「なんだかしばらく会っていなかったような気がします。今までどちらに?」
「わたしは、いつも通りです」
「そうですか」
「アーロン殿は? この廊下を通られるのは珍しい気がします」
この通路の先にあるのはアーロン殿にあまり関わりのない部署、そしてお城で一番重要な人物のためのお部屋なのだ。その方面から彼が現れたことに何気なく浮かんだ疑問だった。
答えるアーロン殿が浮かべたはにかむような笑顔に、わたしは嫌な予感がした。
「私はリーン様に呼ばれ、お部屋でお茶とお話を」
恥ずかしながら、と付け足し頭をかいた仕草に、わたしはアーロン殿の少年のような一面をかいま見る。新しい発見なのにどうも心は浮き上がらない。
「それは……、素敵なお時間を」
「ええ」
「リーン様も喜ばれたことでしょう」
本当に、喜ばれたに違いない。アーロン殿とリーン様の信頼関係には大臣も目を見張っていると聞く。
リーン様をうらやましいなどと思うことはない。あの方は細い両肩に信じられないくらいの重荷を負っていられるのだから。わたしが最も尊敬するアーロン殿があのお方の力になってくださるのなら、それが最善というものだ。
「そうですか、リーン様と。アーロン殿、わたしが言うまでもないと思いますが、アーロン殿はどうかあのお方の力になって下さいね」
「さん……」
わたしの訪問は徒労に終わったけれど、その時間でリーン様が楽しい一時を過ごされたのなら、アーロン殿がリーン様をより好く機会となったのならば。それは比べようもなく有益な時間であったことだろう。
それではわたしは失礼しよう。去ることに対する一礼をするとアーロン殿は珍しく声を張った。
「あの!」
「……はい。何か」
「いえ、あの、貴女は今日も忙しいのでしょうか」
「と、言いますと」
「……嵐の日から数日しか経っていないのですが、貴女を待つ時間はとても長く感じられる。その、もう少し早いうちに私は雲のことを教えられるとばかり思っていましたから、気になってしまって」
「そうでしたか。連絡を差し上げることも出来ず、すみませんでした」
「いいえ、謝らせたいわけではなくて、私は、それでその、……」
アーロン殿は一番息を吸ったところでなぜか息を止めた。肺に息をたっぷり溜めたところで、それを吐ききるように続けた。
「今夜はいかがでしょうか? 遅くなってしまいますが私が必ず何事もないよう守りますので、貴女の空いた時間をいただきたい」
夜ならばよっぽどのことがなければ空いている。これに頷けばアーロン殿に雲を教えてもらう約束が今日確かに叶うようになるのだ。それは、分かっていた。分かっていたが、朝のすっきりとした決心やアーロン殿との予定に浮ついていた気持ちはどこかへ消えていた。消えたどころか、今やわたしは持ち上がった気持ちの反動で石畳の隙間にどろり溶けて沈みそうである。
特に、嵐の日から止まなかった期待がいつの間にか萎んでいて、気づけばわたしは嫌に冷静な言葉を口にしていた。
「でも、夜に雲は見えませんよね」
「……そうですね」
再度一礼し、わたしは足早にアーロン殿を追い越した。目的地だった物置小屋の戸を閉めた後で、気づく。アーロン殿への言葉に、ごめんなさいを添えておくべきだったと。
後悔先に立たず。欲をかいていればアーロン殿と過ごしていたであろうその日の夜は結局、わたしの身の程は物置小屋に置いてあったどれと同等であるかという、そんな後ろ向きの問答に費やされ消えてしまったのだった。