わたしにはひとつだけ、自慢がある。まだ誰にも言ったことのない自慢が。わたしはアーロン殿に皆より一足早く出会っているらしいということだ。といってもほんの一夜のことだけれど。

 その夜は雨が降っていた。お城の中は誰も彼もが歩いてなどいられない、大変な混乱状態であった。
 事の原因はオルドラン城に新しく来る波導使いだ。その時も、彼を迎える式典の準備が慌ただしく行われていた。
 国土に世界のはじまりの樹を抱えるオルドラン城にとって、波導使いははじまりの樹を見守り、状態を知らせ、民の心を静めるとても重要な役目を負っている。故に、それなりの規模の式典を行い波動使いを迎えるのが通例だ。
 その波導使い殿と打ち合わせでもしておけば良かったのに。彼がこちらへ向かっているという一報を受けた城側は独断で、彼の到着に合わせて準備を進めていた。しかし、彼が見立てより三日も早く城下町に入ってしまったのだ。早まって着いてしまった彼により、式典の準備を一刻も早く終わらせなければならなくなった城側は大慌て、という訳である。そこに馬の足を遅らせるような雨も重なって、不運は続くのだと思った覚えがある。
 ありとあらゆる人出が駆り出される中、普段日陰者であるわたしも例外ではなかった。大臣の通りがかりに居合わせたわたしへ命令は下された。城下町の宿屋にいる波導使いの元へ伝言を伝えに行け、と。
 その波導使いがどんな人かも知らず、わたしは慌ただしい城から叩きつける雨の中へ出ていったのだった。

 今から思えば、わたしのような人間に伝言役を任せたのだから、相当城はせっぱ詰まっていたのだろう。城に重なった不運のおかげで、わたしは珍しく重要な役目を任されたのであった。

 フードを深く被りながら城下町へと降りる。指定の宿屋を通りかかったところで、窓の中にいる若い男にわたしの目と足は止まった。鮮やかな衣の色。精悍な横顔に反して纏う老成した静かなオーラ。雨に歪む窓越しからでも、彼が件の波導使いであると分かった。
 わたしは戸を叩き、出てきた宿屋の主人に告げる。


「ご主人、あそこにいる青いマントの男性を呼んでくださいますか」
「それはいいがね、酷い雨だ。あんた中に入りな」
「いいえ、わたしは結構です。伝言に参っただけですから」


 わたしは急務の中派遣された人間だ。正装しているわけでも正式な書簡を持っているわけでも無い。そして大変なずぶ濡れであるのだから、顔も身分も下手に晒すことは無いと思ったのだ。
 やがて小さく開けた戸の向こうに青と紺をまとう男が立った。


「波導使いのアーロン殿ですか」
「いかにも。貴女は?」
「わたくしは城の使いで参りました。伝言があります。波導使い殿、この度は」
「待ってくれ」
「……はい?」
「貴女はそのまま喋るおつもりですか。こんなところで立ち話するのはよしましょう。さあ中に入って」
「いえ、わたしは……」
「ご主人! 何か暖かいものをいただけるだろうか」
「今沸かしとるよ」
「ありがとう。さ、こっちだ。この時期の雨は冷たい」


 初めて会った時のアーロン殿は随分強引な方であった。言葉使いもそうだが、戸惑うわたしの濡れた手首を掴み、中へ入れたのだ。冷たい肌に走った波導グローブの感触は今も覚えている。


「やめ、やめてください!」
「どうして。雨の中が好きなのか」
「そういうわけではありませんが……! 床を汚してしまいます、わたしはすぐ帰りますので」
「すぐは止した方が良い。この雨はひどいものだが少し待てば弱くなる。待った方が得策だ。それに貴女がオルドラン城の人間だというのなら私によく城のことを聞かせて欲しい。さ、座って」
「でも……」


 頑なだったわたしに痺れを切らしたのは宿屋の主人だった。
 床を汚したくないんだってんなら、フラフラするのをやめてくれ! という一喝に負け、わたしは外へと続く戸を閉めたのだった。

 雨よけのローブを脱ぐとアーロン殿は城からの使いが若い小娘だったことに驚いたようだった。


「貴女一人で?」
「ええ。……すみません、今城は人手不足なものでしたし、こうしてお招きいただくとは思わなかったもので。この度はわたしのような者が参った無礼をどうかお許しください」
「いや、私は貴女を不足とは思わないが。危なくないのか? こんな夜で、しかも雨が降っている。オルドラン城ではこういうことはよくあるのか?」
「いいえ! 違います」


 アーロン殿の声色に混じったのは、オルドラン城は女性を夜の雨の中に出すようなところなのかと疑う色だった。
 波導使い殿に城のことを誤解されてはいけないと、わたしは声を張り上げる。


「もちろんお城には護衛用のガーディやポニータがいます。今回はわたしが勝手で遠慮したのです。だってこの雨の中に連れ出すのはなんだか可哀想でしょう? それだけです」
「しかし……」
「それにこの町は他地方と比べればとても安全なんですよ。強盗も暴漢も少ないと聞きます。リーン様は民の言葉をよくよく聞いて下さいますから、きっとそのお力あってのことです」
「そうですか」
「はい」


 ことんと、目の前のテーブルに熱いお茶が運ばれてきた。宿屋の主人が持ってきてくれた湯気のたつ紅茶をぼうっと見ていると、すかさずアーロン殿が主人に握らせた。


「とっておいてくれ」
「ありがとよ」
「波導使い殿……、その……!」
「うん?」


 宿屋の主人とアーロン殿のやりとり。それはわたしには見えない影でのやりとりであったが、金品を握らせたに違い無かった。
 出来ることなら代わりにお金を出したかった。しかし、悲しいことにわたしには手持ちが全くなかった。実際わたしがお金を持ち歩くことの方が珍しく、この日も一枚の硬貨すら持ち合わせていなかったのだ。
 情けない気持ちいっぱいでせめてものお礼を言うと、いいんだ、と彼はごく軽く笑った。


「さあ、飲んで。私のために風邪を引かれては困る」
「……、すみません……」
「さて何から聞こうか。とりあえず伝言とやらを」
「あ、はい。波導使い殿、この度はオルドラン城に無事のご到着をおめでとうございます。貴方様のために我々は波導使い殿のための式典と歓迎の会を催し、お迎えいたします」
「式典? 歓迎の会?」
「左様でございます。明日の正午、改めて迎えの者を寄越しますので、どうか明日まで待っていただけますでしょうか」
「それはもちろん良いのだが……、何か事が大げさ過ぎやしないだろうか。貴女方のお気持ちは嬉しいのだが……、私はまさかそのような歓迎を受けるとは……」


 波導使い殿は少し面食らった様子である。


「一体その式典では何をするんだ?」

「はい。波導使い殿の着任をお祝いする式典ですから、とても華やかなものですよ。明日波導使い殿をお迎えいたしますのは城一番の自慢のギャロップです。たてがみの炎が青く、毛並みは乳白色。とても美しいギャロップです。そして国一番の鼓笛隊を呼んで橋の始まりから終わりまで行進を。城の重役はもちろん議会の方々は皆必ず出席されますし、王宮の料理人に加え地方の有名なシェフを呼び立てたと聞いています。皆、腕によりをかけていることでしょう。この度のお祝いを記念して城下町の全ての人間にパンと果実酒が配られます。もちろんひとりひとりに。リーン様のお気持ちです。プログラムは申し訳ありません、すべて覚えているわけではないのですが、リーン様から直々にお言葉をいただけますし、夜にはダンスパーティーが。波導使い殿は踊りは?」


 言っているうちにわたしは一人勝手に高揚していた。式典の内容はリーン様の生誕を祝い日に次ぐほどの豪華な内容だからである。
 アーロン殿は額に手をやっていた。


「本当にそんなことを?」
「もちろんですよ。お城に入られるということはそういうことです」
「……ちなみに貴女が城に入られた時は?」
「はい、わたしも行いましたよ。リーン様の肖像画の前で誓いを立てました」
「ギャロップの迎えはありましたか」
「まさか。青いたてがみのギャロップに乗れるのは本当に重要な役目をお持ちの方のみです。わたしは当日、自分の足で」
「パンと果実酒の配布は」
「そんな、わたしがいただけるものではありません」
「………」


 ついに頭を抱えた波導使い殿。城が貴方を歓迎していると伝えたくて、喜んでもらいたくて、朗々と語ったが、彼は手放しで喜んではくれなかった。
 彼の苦笑いは若いわたしには悲しみを落としたが、同時にその後のわたしには忘れがたい記憶となった。この人は初めて会った時から変わらず謙虚だった、と教える記憶に。
 彼は少し頭を抱え、酸っぱいものを食べたような顔をし、その後謹んでお受けいたしますと言った。


「ありがとうございます。では、そのようにお伝えしますね」
「明日の正午ですね」
「はい。本当は波導使い殿が到着されてすぐに開催となる予定でしたが。あの峠を三日もかからず越えるなんて、さすが波導使い殿ですね」
「峠と言えば」


 そろそろ失礼しようかとドレスの端を握ったのだが、気づかずにアーロン殿は話を続けられる。


「ひとつ聞きたいんだが、あの峠の道はいつからある? 誰か開拓したのか?」
「さあ……。昔からあの道が使われていますし、何せ途中までの道もぬかるみがひどいと有名です。開発など、長くされていないのでは。それが、何か」
「私が来たのは教えられたものよりひとつ下の道なんです。誰も通らないようでしたが、特に目立った危険もなく、実際早く着いてしまった」


 なるほど。峠をこんなにも早く越えられたのは、波導使い殿の足腰が人並み外れて強靱だからと思っていた。が、実際は近道のようなものを見つけられたらしかった。


「それでは波導使い殿は新しい道を見つけられた、と」
「恐らく」
「でしたらその事を、大臣殿にお伝えしたらいかがでしょうか」


 その時わたしが波導使い殿に対して早口で喋ることが出来たのは、一重に素敵な閃きが降りてきたという興奮からだった。


「峠の道が良くなれば城下町へ出てくる商人が楽を出来ます。今はかきいれ時でも直に農業も終わります、もし手の空いている人々に仕事が出来たらきっと喜ばれます……!」
「なるほど。そういうのは大臣殿に言えば良いのかな?」
「はい。わたしから申し上げても良いのですが、道を見つけられたのは波導使い殿ですからね。それにきっと波導使い殿の言葉なら多くの者が聞いてくださいます」
「……貴女はお城でどんな仕事を?」
「わたし、ですか?」
「なかなか言うことが面白いので」
「わたしは……」


 閃きに膨らんだ胸が急にしぼんでいくのを感じた。改めて問われると、わたしはとても大きなことを言える立場ではない。


「申し上げるほどの人間ではありません……」


 か細い声で言ったそれだけでもアーロン殿は察してくれたようで、そうですかと深い声で言ったのみだった。


「お城でならまた会えますよね?」
「それは……」


 正直わからなかった。わたしはオルドラン城の末端で働く者。代わってアーロン殿は城の中心で活躍する方となるだろう。その二人の道がまた交わるのかは怪しかった。
 答えを詰まらせてしまったわたしにアーロン殿は言った。


「では、会いに行きます」
「あ、会いに、ですか……」
「今夜は早く着いて良かった。貴女のような友達が一日早く出来たんですからね」


 友達。何気ない響きに、ぽっ、と胸に火が灯ったようになり、ああ波導使いの言葉には不思議な魔力があるのだと知った。熱いお茶よりも効いた魔法であった。

 翌日、快晴という天の恵みを受け、式典は無事に行われた。式典最中の記憶は無いに等しい。わたしは雑用に追われ城中を走り回っていて、青いギャロップに跨るアーロン殿を見ることは叶わなかった。
 波導使いを迎えた祝祭が終わると、わたしは元の仕事へと戻った。アーロン殿の言づてを預かったという名誉際だつ、ほとんど気づかれない些事の重なり合う仕事へと。

 その後のアーロン殿は瞬く間にリーン様並び城の中心人物からの好評価を得た。すぐさま行われた峠の開発は国の一大事業となり成功を納め、アーロン殿の追い風となったと聞いた。
 アーロン殿の纏うマントの色。波導の可能性を秘めたような深い青色は、確かにオルドラン城に新しい色彩をもたらしたのだ。

 アーロン殿と、城の誰より早く出会えた日。誰にも言ったことのない自慢の日。
 その日は思い返してみれば、わたしが恐れを抱くことなく話せた最初で最後の日であった。