オルドラン城に仕える波導使い殿のわたしと挨拶を交わす姿に驚く者は多い。わたしもその一人だ。その波導使い殿というのは紛れもなくアーロン殿でありながら、何でもないと思っていた人間へ親しげに笑んで見せるのだから絶句するものも多い。わたしなんて言うまでもない。
 いったいどういうことなんだという視線を向けられるとわたしは困ってしまう。わたし自身、未だ事態が飲み込めていないのだ。
 日々の挨拶の対象として繋がりを持つことになったきっかけは、つい最近のこと。わたしからではなくアーロン殿の方からのお声掛けがあったからなのだが、これについては誰にも言ったことがない。わたしもまだ自分の反応を決めきれず、ただ毎朝繰り返される事実に戸惑っている最中なのだから。

 わたしとアーロン殿が二度目に言葉を交わしたのは、わたしが新しく城に迎えられた波導使い殿への言づてを預かった夜から半年が経ってからだった。


「あの!」


 城の通路で男の人が声をあげたのは聞こえていた。ただその時のわたしといえば用事を急ぎ、とにかく足を動かしていた。


「そこの人! 待ってくれ!」


 誰かの焦る声は耳に入っていた。ただまさか自分へ向けられたものだとは思わなかったので、わたしは一瞬さえ振り返らなかった。頭の中は、本日課せられた問題をどうやって解決させようか。わたし一人で解決できるだろうか。そればかりが占めていた。
 肘のあたりに触れた指の感触。ついに大きな手で後ろから引き留められ、わたしは立ち止まった。
 振り返るとそこにいたのは嵐の日から何ら変わりの無い波導使い殿であった。


「すまない。腕を掴んだりして」


 黒のしっかりとしたまつげに縁取られた深い青色の瞳が間違い無くわたしを見つめている。どなたかを呼び止めていた先ほどの声は波導使い殿のものだったのだ。そのお声を無視していたとは。わたしは血の気が引くような思いがし、即座に頭を下げた。


「大変失礼いたしました」


 人をわたしをわざわざ呼び止める時、その理由は決まっている。何かご用があるのだろう。波導使い殿がわたしがどんな立場の人間なのか知っていたことを意外に思いながら、わたしはこう続けた。


「どのようなご用でしょうか。なんなりとお申し付けくださいませ」


 頭を下げたまま答えを待つ。波導使い殿はすぐに命令をくださらなかった。彼のマントが擦れ、杖の飾りが涼やかな音を立てたのが聞こえた。


「あ、えっと……。私が分かりますか」


 波導使い殿は素朴にそんな事を言った。波導使い殿はこの城で最近の話題の中心だ。いつも同じ波導使いの衣装を身にまとい、何か高貴な服装をしているわけでは無いが、どんな人間にも親切で、堂々としていて、人の上に立つ風格のあるお方だ、と。そんな彼を讃える言葉が幾度と表現を変えてわたしの耳にも入っていた。
 そんな人の存在を知らないわけが無い。覚えていらっしゃるとは思わないが、わたしは一度なら言葉も交わしている。


「大丈夫です、頭を上げてください」
「ありがとうございます」
「それで」
「はい」
「私のことは覚えていますか?」


 のどの詰まるような思いがした。装った目上の方に向けるための澄まし顔が崩れそうになる。覚えていますか。そう聞かれるということは、この方はわたしを通りがかりの人間ではなく、過去に関わりがあった人間として見てくれている。あの日優しさをかけてくださった、ずぶ濡れの人間を覚えているということだ。


「わたしのこと、覚えていらっしゃるのですか?」


 ただ存じ上げておりますと返すつもりだった。だが様々な感情一斉に湧いて出て、その中で一番勝って出たのは驚きであった。


「良かった。そうおっしゃると言うことは忘れられていないようだ。やはり貴女でしたか。ずっと探していました。お礼を伝えたかったのです」
「お、お礼を?」
「はい。あの時はありがとうございました」


 あの時と言ってもすでに半年が経っていた。なんと義理堅い方だろうと思いながら、内心首をひねってしまう。お礼を言うために半年わたしを探していらっしゃったという、その行動の根本が理解出来なかった。


「わたし、お礼を賜るようなことは何も……」
「何を言うんです、私を助けてくださったではないですか。ああ本当に会えて良かった。本当に貴女がこの城にいるのか、疑うところまで行きました」


 波導使い殿は遠くで立ち尽くしていたお連れの方に声をかけた。先に行っててくれ、私は少しこの方と話があるから。色づいた声が通路に響き渡る。


「よろしいのですか?」
「ええ。せっかくこうしてまた会えたのですからすぐ分かれるのはもったいない」
「そう、でしょうか」
「今日までたくさんの人にあなたのことを聞いたのですが、なかなか伝わらなくて。わたしが貴女に抱いている印象と、皆の印象が違ったのかもしれない。誰も知っていると言ってくれないものだから、私が何か自分に都合の良い幻を見てしまったのかと思いました」


 たくさんの者が働くこの城で、人づてに末端で働くわたしを探し出す。それは確かに難しかっただろう。わたしと関わりの無い人なんて山ほどいる上に、例え関わりがあったとしてもその人がわたしの名を機会は少ない。わたしに何かを頼んだこと自体を忘れている人だって多いのだ。


「でもまたいつか会えると信じていました。貴女の顔はしっかり覚えていましたから。お変わりがなくて良かった。あの後風邪などひかれませんでしたか。ああ、でももう半年も前のことでしたね。貴女の元気そうな顔が見られて良かった」
「あ、ありがとうございます」
「とにかくずっと探していたんですよ。記憶の通りのあなたがここにいる。本当に良かったです」


 引き締まった顔をくしゃくしゃにさせてながら笑む波導使い殿の顔。それは一瞬でわたしの胸に刻みつけられた。
 波導使い殿はにわかに興奮した様子でわたしに質問を浴びせた。


「貴女はいつもどの辺りに? お仕事は、所属は?」

「東塔にお部屋をいただいております。仕事については広く浅くといった感じで、申し上げにくいものです」

「そうだったのか! 私は自分なりにこの城を練り歩いて貴女を探したつもりだったのですが、それでも半年かかってしまいました。貴女はいつもどの道を使っているのですか?」

「わたしどもには通用口がありますから」

「そうか、ああやはりそうだったのか! 私の知らない道がまだまだあるということですね。今度、この城の道を教えてください」

「お城のことでしたらよりふさわしい方がいらっしゃいますのでお教えいたします」

「いや貴女に教わりたい。私は見取り図を知りたいわけでは無くて、貴女の実感の籠もった案内をして貰いたいのです。お願いします」

「……かしこまりました」

「ああ、今日のことをなんと感謝したら良いんだ。私が寝泊まりしているのは西の方角なのだが、是非一度来て貰いたい。貴女にはお話したいことが山ほどあります。貴女とお会いした日から、短くは無い時間が過ぎましたから」


 波導使い殿はわたしに対し言葉をどんどんまくし立てて行く。


「あの」
「はい」
「どうかされましたか」
「なんでもありません」
「言ってください。私に対してあまり言葉を選ばないでください」


 わたしが口を噤む理由を彼はよく見抜いているようだった。周りに人はいない。波導使い殿は好奇心の溢れる瞳で見つめて来る。背を丸めわたしをのぞき込んで来られるので、わたしも少し立場を忘れることにした。


「……失礼ながら」
「はい」
「波導使い殿は思った以上によく喋られる方だと、驚きました」
「そうでしたか。今は特別なのです」


 そう言って波導使い殿は笑む。それを彩るように柔らかい風が通路に吹き、その黒髪と帽子の鍔を揺らした。


「申し遅れました、私の名はアーロン。波導使いのアーロンです」
「アーロン、殿」
「はい。好きに呼んでください。波導使い殿よりはアーロンと、そう呼んでもらえたら嬉しいです。あなたの名前を聞かせてください」
「わたしの」
「また半年も探し続けるのは御免ですからね。そこの人、では貴女も振り返れないでしょうし」
「そう、ですね」


 以前もこうしてこの人はわたしに興味を抱いてくださった。けれど、わたしは自分のことは伏せ、申し上げるほどの人間ではないと伝えた。間違っていなかったと思う。あそこでここぞと名乗るのは今でも恥の上塗りに思える。だから、この後のわたしの行動は間違いを含んでいただろう。
 ずっとわたしを探していたという言葉は、信じられないと思いながらも心地よかった。また次があるのだという予感が少なからず嬉しかった。明らかな期待を抱いて、わたしは自分の名を口にした。


です。わたしの名前はです」







 困ったな、困ったな。わたしは足早に通路を行く。とにかく足を動かしながら考えた。頭の中は、本日課せられた問題をどうやって解決させようか。そればかりが占めていた。
 とにかくわたし一人では今日中に終わらないことは明白だ。誰かに助けてもらわねばならない。どうしよう、誰に声をかけよう。一声かけてわたしに力を貸してくれる方、わたしが代わりに何か差し出せる方、今余裕のある方。たくさんの方の顔が浮かんでは消える。

 あ。足だけが意識を持ったようにわたしは立ち止まっていた。


「アーロン殿」
さん」


 通路の向かいにアーロン殿の姿が見え、わたしは即座に手を隠した。というのは、わたしの手はインクで汚れていたからだ。
 物を書いたわけではない。各所へインクの補充をして、残り少ない瓶の中身を他の瓶へ移したりしている内に爪の中まで炭色に染まってしまったのだった。汚れのたまった爪はなかなかに醜く、わたしは必死に手を洗うがインクはしつこくて落ちてくれない。


「こんにちは、さん」
「アーロン殿、本日もお疲れさまです」
さんも」


 アーロン殿は帽子をとっていた。何か汗をかくようなことをされていたようだ、肌が少し光っている。
 いつもは帽子の中に上手にしまってあるけれども、アーロン殿は髪もたくましい。黒く、光を集める髪が通路を吹き抜ける風に揺られている。不思議だ。アーロン殿の細部を見るとき、わたしの目はルーペを持った時のようにぴたりと輪郭を見つける。

 ぼうっとアーロン殿を見ていたわたし。それを見つめるのはルカリオだった。


「……さん」
「はい」
「今日は何かありましたか?」


 不思議な問いかけだ。何かある前提での質問に聞こえる。


「いえ? 何も」


 わたしがそう答えるとアーロン殿はひどく意外そうな顔をした。


「本当に? 何もないですか?」
「そう、ですね……」


 何かアーロン殿への伝言など預かっていただろうか。考えてみるけれどいっこうに思いつかない。
 アーロン殿に関する言葉なら城中に溢れている。わたしはそれをよく聞く。けれどアーロン殿本人にお伝えしなければならないような話題があっただろうか。

 そしてわたしは自分が見当違いの考え方をしていたことに気づく。
 きっとアーロン殿がこうして挨拶を交わした人間を気遣うのはいつものことなのだ。先ほどの質問のその一環に過ぎない。そう思うとわたしはこのお方と言葉交わし、そういった気遣いを受ける仲によくなれたものだと驚愕するばかりだ。


「お心配りをありがとうございます」
「私には言ってくれないのですか?」


 一歩踏み込むような問いかけにあれ、と違和感を抱く。気遣いて聞いてくださったと思ったのだけれど、違ったのだろうか。


「えっと、申し訳ありません、何のことでしょう。思い当たることが無いのですが」
「そうです、か。いえ分かりました。なら失礼いたします。ごきげんよう、さん」
「はい、ごきげんよう、アーロン殿」


 帽子を被り直し、アーロン殿は行ってしまった。すれ違いざま、ルカリオは赤い目を細め、わたしを視線で貫いて行った。

 さあどうしよう、困った。誰に声をかけよう、いったい誰に助けを求め、お願いしよう。誰か、わたしなどを助けてくれる人。城で関わりのある人の顔を順々に思い浮かべながらわたしはまた足を動かし始めた。