先日、オルドラン城では突風騒ぎがあった。元々オルドラン城は良き風が吹き抜ける場所に位置しているが、その日国土は、何かを告げに来たような二陣の突風に見舞われたのだ。城のあちこちで建て付けが悪かった小屋が飛び、またどこからか見知らぬ小屋が飛んでくるといった具合にでたらめに強烈な風だった。けれど目を覚まさせるように冷たい風たちだった。
 食堂でこんな話を聞いた。あの風には色があった。一陣目が青で、次が赤。あの場では真に受けられていなかったがわたしには胸中、一人頷いていた。吹き抜けていく時にわたしは風たちの声を聞いたのだ。今も耳にこびりついている。それは、何かの鳴き声のようであった。高く透き通って鳴く声に、吹かれたその時は暢気に考えたものだ。同じく風になって飛んでいきたい、と。
 風になって飛んでいけば良かった。オルドラン城は今突風騒ぎによる被害を受けて大忙しである。
 城の勝手をよく知っていること以外特に何も持たないわたしに下されたのは非常時の今でもお城が通常時の務めを果たせるように駆け回れ、ということだった。

 というわけでわたしはお城の通常通りを守るため、今は庭師のまねごとをしている。
 通路の脇や、中庭。ひっくり返った地面を元に戻すべく、散らかった土を掃き、生きている芝生をかき集め、少しでも城の土地がマシに見えるよう繕っているところだ。
 これに取りかかっているのはわたし一人。いつもの庭師たちは、リーン様のお部屋に一番近い庭へ向かった。リーン様がご覧になるお花はいつだって咲いていなければならない。もちろんリーン様はいつか花が散ることを知らないわけではないが、だからといって散った花を見せて良い理由にはならない。リーン様に散った花を見せまいと、全ての庭師たちも意気込んで手入れに向かったのだから、同じ心を持っているはずである。
 しかし午前からずっと取りかかって今なお終わらない。


「………」


 つい言葉に出そうになる。腰が、首が、痛い。木なども見るが基本は地面ばかりを見て回るので、疲労が腰に溜まってきた。
 わたしはこれでも農家の生まれだ。土くれにまみれるのは慣れている。手が潰れそうになるくらい道具を握ることも。心が還る場所は今だって田園風景の広がる故郷だ。けれど、体はいつの間にか城の人間になっていたようだ。

 他の庭師たちは頑張っているのだろうか。思いを馳せ、わたしはリーン様のお部屋の方角を向き、ひとつ息を吐く。

 リーン様がご覧になるお庭。わたしはまだ見たことが無いそれはどれだけ美しいことだろう。
 枯れることのない庭園。咲かない花があることを知っているわたしにとってはそれは天国に近い光景に思えてならない。決して届かない場所であることを思うと尚更である。

 終わりの見えない作業だがだからといってやらないわけにはいかない。手のしびれを散らすように振ってからシャベルを握りなおした。


「やあ」


 たった一言の、そよ風のような挨拶。それはアーロン殿の発した声だ。


「ご苦労」


 労りのお言葉。もちろんわたしに向けられたものではない。返答する男の声。戸を見張る兵士に話しかけられたらしい。
 わたしはその声が耳に触れたことに驚きながら、聞こえてきた方角を確認する。アーロン殿はわたしの左斜め後ろ、その遠くにいらっしゃるようだ。さらに姿勢を低く、そしてゆっくりと垣根の方へ身を寄せた。なるべくアーロン殿の目から紛れるように。あの方の目に止まりたくないという気持ちが先立っての行動だった。


「ああ、すごい風だったな」

「実は彼らが来ることは分かっていたんだ。何か問題を起こすようには思えなかったから私も事を荒立てず、受け入れ過ぎ去るのを持つつもりだったんだが」

「そう彼らはとても心優しい生き物のはずなんだ。何か事情があったのだろう」


 手を動かしながら話題を追う。先日の風のお話をされているようだ。
 アーロン殿と対する兵士の声は何を言っているか分からない。ただよく通る質のアーロン殿の声だけは垣根を飛び越してわたしの耳に届く。
 わたしと対するアーロン殿は一歩引いて礼節を重んじ、まっすぐな姿勢と言葉を向けてくれるのだが、今のアーロン殿は男同士だからか言葉は砕かれ、どこか解き放たれた様子である。
 アーロン殿がご友人と話される時、今のように声を発するのだろうか。

 アーロン殿だって人の子だ。故郷には父と母がいるのだろう。もしかしたらご兄弟だって。けれどわたしはああして人らしさを滲ませるアーロン殿が少し苦手である。
 アーロン殿への尊敬を日増しに積み重ねるわたしには、ああして談笑するアーロン殿と対面する勇気など無い。友人とも言い難い距離から丁寧な言葉を使って交わされるやり取り。わたしにはそれを受け取るので精一杯だ。それ以上は想像が利かず、未知の部分をわたしは怖いと思っている。
 ……こうして考えていると思い知る。どのような未来でも、わたしはアーロン殿と友人にもなれない。


「あ、ああ。突然何かと思ったがそのことか」


 先日の風の話から代わり、別の話題に移ったらしい。


「なんだ。知っていたのか。そうか……、私は分かりやすいだろうか? そうか。そんなに顔に出ているか。いや、当たっている。そのもしかしたら、だ」


 何を話しているのだろう。どれだけ言葉を拾っても主題が分からなくなったので、わたしは聞きながらも話の内容を追うことをやめた。
 そもそも盗み聞くような真似が良くないと分かっているのに、こういうところで自分を抑えることが出来ないあたりわたしは下賤な人間である。卑しさが身に染み着いて落ちない。意味は追わないからどうか許してもらいたい。父でもなく母でもなく、わたしが虚空に許しを願うのが幼い頃からの癖だ。
 許しを願っている。いけない、いけないと思っている。けれど耳はアーロン殿の声を拾っている。


「ああ。良いんだ、気を使わないでくれ。私はこんな時間も嫌じゃないんだ」

「……じれったい思いをさせているようですまない」

「よく思っている。小鳥を見ているようだと。小鳥より難しいかもしれないな。小鳥はきちんとエサをつつくが、こちらはそうもいかないんだ」

「彼女が小鳥に見えるのが私だけならそれは喜ばしいことだ」

「いや、そう簡単にはいかないさ。こうしてよく知ったふりをしている限りは近づけないのかもしれない」

「私に不満など無いさ。この城で過ごす日々は美しい。今、ここに在れるのは幸せだ」


 その言葉には思わず手が止まりそうになった。アーロン殿が幸せを口にしているとわたしは胸の底から熱いものがこみ上げ泣きそうになる。何と言ったら良いのか分からないが、何か願いが叶ったときの心の動き方、それに一番似ている。

 ああ、また指の先がしびれてきた。辛い。辛い。大丈夫。辛くともなんとかなる。すぐ慣れる。まだ終わりは来ない、まだ直すべき地面がある。考えてはいけない。痛みに驚いてはいけない。

 わたしはアーロン殿の声をただ聞いている。
 ひとつ息を置く空気の層、薄く延ばされた生地、空気の層、生地、空気の層、生地……。やはりパイというのはオルドラン城に来てからのわたしの生活と通じるところがある。


「そう言ってくれるな。私だって人の子だ」


 ほら、わたしの肺を膨らませる、空気の層だ。