忘れようとしている。きっとわたしじゃなくても良い、あの人に声をかける人は必ずいると分かっているのに。その欲望はわたしの目の前で踊って、なりを潜めてはくれない。
もう四度、見ないふりをしてきたが、それでもひらひらと濃紺が風に揺れる。狭間に彼の人を通り過ぎた景色が見える様が、そろそろ憎く思えてきた。
「ああ、さん」
「……アーロン殿」
「お久しぶりです、お変わりないですか」
「はい」
こうして挨拶を交わしたのは、確かに久しぶりだった。
アーロン殿のことは窓から、運が良ければ対の渡り廊下から見ていたから、アーロン殿が長い間、ご多忙であったことは知っていた。彼を見かけるという幸運に恵まれない時、アーロン殿の様子をさらに伝えるものがあった。それは、噂だ。様々な物事や人々の要求に追われ、早足で通り過ぎ、時には部屋に缶詰であったとも聞いた。
聞き耳を立てるなんて下世話な手段だが、人の口からアーロン殿のお姿を伝え聞く事は、わたしにとってささやかなご褒美だった。
どんな人間からでも、たとえわたしをあごで使う笑うような人間の口からでも、アーロン殿を讃える言葉が聞かれると、疲れや怒りを忘れられたのだった。
アーロン殿の勇姿を伝え聞く。すると、わたしの頭の中では、その勇姿が実際に見たかのように想像できた。空想だとしてもそのマント揺らす姿が、ねぎらいの言葉よりもわたしの体に力をくれた。
ねだったことこそ無いが、この耳はよくアーロン殿の話を求め、拾おうとしていたように思う。
「大変忙しくされていたと聞きましたが」
「ええ、まあ。しかし、とても良い経験になりました」
頭の中のアーロン殿。それはなかなかに美化されているようで、しかし実際のアーロン殿に会うと、そう的外れでもないと思ってしまう。
「自分のための時間がとれないのは少々堪えましたが、今はだいぶ良くなりましたよ。こんな、好きなことを出来る時間があります」
「そうでしたか。お元気そうで何よりです」
そろそろお城にも慣れたのだろう。彼に柔らかい表情が増えた。アーロン殿に寄せられた期待は多く、重いものに思えたが、彼にも安らげる場所、時間が出来たのだろうか。だとしたら、我が身に起きたことのように嬉しい。
しかし。全く変わっていない。わたしは視線を左下に落とす。
わたしがそれを見つけたのは、一月も二月も前だというのに、誰も、触れなかったのだろうか。アーロン殿のマントにある破れに。
「さん?」
「すみません、考えごとを」
もう四度、見ないふりをしてきた。濃紺のマントに裂け目のように開いた風穴。最初はひっかき傷のようだったのに、ますます大きくなって、今は不気味なゲンガーの笑みにも見える。
今までは自分が申し上げるようなことではないと思って触れずにいたが、未だ修理の形跡がない傷口に考え込んでしまう。まさか二月もの間、誰も気づかなかったんだろうか。これ以上傷を放ってマントが根本まで裂けてしまいそうだ。
わたしがここで、腹をくくらねばならないのだろうか。
「何かあったのですか」
「……アーロン殿」
「はい」
「東の館の裏にポニータたちの小屋があります」
「はい、ありますね」
「その奥に、お針子の方々の作業場があります」
「ありますね」
「お時間のある時に訪ねられてはいかがでしょうか」
「なぜ?」
「それは……」
なんということだ。遠回りな表現では気づいてくださらない。たとえアーロン殿でも、己の背に流れるマントの傷には気づかないらしい。
「……、すみません、お耳をお借りしても」
「? はい」
アーロン殿は腰を折ってわたしに頭を近づける。わたしはたまに干した果実の繊維質が噛みきれず、水で押し流すことがある。が、アーロン殿のあごならばそういった苦労も無いのだろう。
こういった体の持ち物ひとつ見てみても、アーロン殿は男性だ。なぜか分かりきったことに感心してしまう。
横顔を、こんな近くで見ることが無く、わたしはぎくしゃくしながらも片手と唇をアーロン殿の左耳へ寄せて、吹き込んだ。
マントの裾が破けてしまっています。
聞くなり、すぐだった。アーロン殿は体を起こして、
「ああ、これのことですか!」
せっかく小声で伝えたのに。アーロン殿にとっては隠すようなことでも無かったようで、返事は扉で隔てても聞こえそうなくらい明朗だった。
「以前にも人に言われました! 私はあまり気にしていなかったのですが」
「そうなのですね。アーロン殿がそうおっしゃるならわたし、出すぎた事を」
「やはり気になりますか。さんがそう言うのならやはり直すべきですね。そうだ、さん、時に針仕事もされていましたよね」
「え?」
「今、お時間は?」
「え……?」
わたしにも話の流れを読むことはできる。あると返事すれば、気のいいアーロン殿が何を言うかの想像もできていた。
時間のあるなしに関わらず、どんな用事でも申しつけられればそれをこなるのがわたしの仕事である。取るに足らないが、いちいち行っていては時間を失ってしまう。そういった物事のためにあるのがわたしという城の余り物だ。
そして言ってしまえば、衣服の、目立たない部分の修理などは、三日に一度は行う職務であった。
「もしかして」
「はい。お願いできますか」
「お針子の方に頼まれた方が」
「でもさんも出来るのでしょう」
「縫うだけです。刺繍などの腕もありませんし、縫い後には歴然の差があります。それに、それに……」
「刺繍は要りません。破れが直ればそれで良い」
「で、でも」
「さんに指摘をされて急に恥ずかしくなって来ましたので、出来れば、今すぐ」
「どうしても、ですか」
「はい、どうしても」
妙に明るい笑顔でアーロン殿は言い切った。
「……どうして、わたしなのでしょう」
「聞きたいですか?」
「いえ、結構です。少々お待ちください」
ご命令とあらば。突然のことに息を荒げながら、わたしは自室の裁縫箱を取りに走った。
わたしごときが、アーロン殿の、マントに、針を入れる、なんて。
マントだ。袖の内側とはわけが違う。
息も絶え絶えに戻ったわたしに、アーロン殿は言い放った。
「あまり視線のある場所だと落ち着かない。私の離れでマントの破れを直していただけますか。」
わたしが手から取りこぼした裁縫箱を見事に受け止めてくださったのも、アーロン殿。その人だった。
アーロン殿の離れ。そこには何度も足を運んでいるが、それは物を補充するためや、届け物をするため。目的あってのことだ。いつでも来てくださいと言われているが、その言葉を真に受けたことは一度たりとも無い。
見慣れた室内のはずなのに、今はそこに部屋の主がいる。特異な光景に息を飲んだ。
「どうしたんですか、さん」
「……今日のアーロン殿は、実りの季節の空のようです」
「そうですね。収穫期の空のように、突然気分が変わってしまいました」
「アーロン殿にも、そういったところで恥ずかしいと感じることがあるのですね」
「ん? ああ、そうですね。……待ってください、マントを脱ぎますね」
アーロン殿は首もとに手をかける。が、グローブをしたままでは手が滑るらしい。グローブを取ろうとした手にわたしは待ったをかけた。
「あの、わたしはどちらでも」
「どちらでもというのは?」
「アーロン殿が煩わしくなければ、着けたままでもわたしは平気です。……あ、でもそれだけどアーロン殿にも動かないで待っていただくことになりますね」
「構いません」
「っ良いのですか?」
「ええ」
「……では、どうぞおかけください」
そそくさと近寄り椅子をひくとアーロン殿が腰掛ける。わたしもその後ろに椅子を並べて座り、マントの裾を拾った。
「すぐ終わらせますから」
「どうぞ焦らずに」
「あの、……よろしくお願いいたします」
「私こそ。お願いします」
そう言ってアーロン殿は前を向く。無防備に広がる背中に、わたしはまた、こくりと息を飲んだ。
こんな大切な日がやってきてしまうなんて。針が使えることで満足していた自分が急に恥ずかしい。
震える指で針をとり、糸を通す。
傷口に手を添え、解れを処理し、よれやしわにならないよう、生きている部分を縫い合わせる。
一針通すだけで途方もなく息が詰まり、けれど、過ぎると瞬きのように過ぎてとりかえせない時間になってしまう。
永遠と一瞬の狭間に揺られてか、始終胸が痛かった。
「良い天気ですね」
アーロン殿のその一言で、わたしははっと我に返った。言われて見ると、窓辺には少し赤みの混じった光が降りていた。
「そうですね」
「気持ちが良い」
アーロン殿が喋る度に彼の広い背中が震え、揺れる。わたしは正直、彼に背を向けられ安心していた。アーロン殿に見られていないというだけで、わたしの心は随分余裕を取り戻すのだった。
アーロン殿の瞳というのは、まっすぐと何もかもを見透かしそうなのだ。あの青い光に長い間当てられるのは苦手であった。
特にやましいことがあるわけでもないのに、アーロン殿に見据えられたわたしの心境は罪人のそれである。
「どうぞゆっくり時間をかけてください」
「でも」
「良いのです。こんな風にまどろむ時間は久しぶりだから、勝手な理由をつけて、留まっていたいのです」
人々の口から聞き、そしてこの目で遠くから見つめていた。だからアーロン殿にしばらく自分のための時間が無かったことは知っていた。
「……わたしが時間をかけて縫えば、それはアーロン殿にとって、良い言い訳になるのでしょうか」
「はい。ここに居る理由になります」
アーロン殿がお望みとあらば。わたしは愚鈍で、不器用で、アーロン殿をお部屋に縛り付けてしまうのも仕方なし。そんな裁縫初心者になろう。
ゆっくりで良いのだ。そう思うと、つっかえていた胸はすうっと楽になった。
ふう、と息を吐いた。それに乗っかり、手の震えもようやく霧散した。