裂け目の両端を結んでいく作業は、永遠と一瞬を交互に繰り返し進んでいく。ゲンガーの裂けた口を思わせた傷口は徐々に小さくなり、キノココの瞳くらいの穴になっていた。
もう少しだ。そう思っていっそう肩に力を入れると、ふとマントが斜めに引っ張られる。何事かとマントの付け根を探れば前を向いていたはずのアーロン殿がじりじりと椅子の上で体を回転させ、そしてついにこっちを向いたところであった。
「随分進みましたね」
「あ、あまり、見ないでください」
「どうしてですか? 大丈夫、上手です」
アーロン殿がわたしの手元を見ている。あと数回の針の往来で事は終わるはずなのに、視線で、私の肘から指先が絡めとられたように動かない。
また手の震えが戻ってきてしまった。
「……アーロン殿。前を、向いてください。本当に、お見せするものではありませんので」
「そんなこと無い。私より充分に器用です。やはり女性だと縫い目がそろっていますね。綺麗だ」
「やめてください」
お世辞であろうと、アーロン殿に褒められるのは恐れ多くも有り難い。だが、あまり実状とかけ離れた褒め言葉では単純なわたしもさすがに受け取れないし、夢も見られない。
「アーロン殿はわたしがこの城においてどういう人間であるか、ご存じのはずです。裁縫では食べていけないから、わたしは半端物なのです」
この針の腕は母から鍛えられたものだ。確かに自らの服を修繕して着るには困らない。しかし自分で着る分には良くても、城では通用しないのだ。
「裁縫だけではありません。他でお役に立てなかったから、わたしは今のわたしなのです」
通用しないのは針ばかりでなかった。読み書きはできるくせに、常に考え足らずで、それを生かす頭がわたしには無いのだ。わたしは、人に仕えるには、物事を知らなすぎた。そしてそれを補う愛想も持っていないことは決定的だった。
だからわたしは些細な事柄を積み重ねてどうにか一人分の働きとして間に合わせる。そんな役目を与えられたのだ。
「自分を貶めるのはそれくらいに。私は、貴女の可能性を狭めているのは貴女自身だと思っています」
「アーロン殿はお優しいから。わたしにさえも、過大評価を」
「私は私なりにさんを理解しているつもりだが、それは貴女が思うさんとは違うかもしれませんね」
アーロン殿の現実とかけ離れた言葉がわたしを正気へ連れ戻す。舞い上がっていた気持ちは吹き飛んだ。井戸の底の水を被ったように頭は冷静で、針を淀み無く動かすことができた。
「お待たせしました。これでいかがでしょうか。本当に、縫い合わせただけですが」
「素晴らしい。ありがとうございます」
一体何が素晴らしいというのか。この時ばかりはアーロン殿がいい加減なことを言ったのではないかと思ってしまう。
役目は終わった。わたしはそそくさと針や糸くずなどを集めて裁縫箱を抱える。
「それでは、わたしはここで」
「待ってください」
座ったままでいろとわたしを手で制しながら、アーロン殿は木棚へ近寄った。
そこにはオルドラン周辺では見かけない模様のクロスがかけられ、アーロン殿へ届けられた手紙に始まり、アーロン殿が慈しむ小さきものたちが並んでいる。
その中からひとつを、アーロン殿は手にとりわたしの前へ持ち出した。
それは握れば手の中にすっぽり収まってしまうほど小さな獣の彫刻だった。
「この城へ来る前にいたところで貰った民芸品です。手にとって見てください」
「でも……」
笑顔のままそっとその民芸品を手に落とされてしまう。
グローブから落とされたそれは石で出来ているらしく、ひんやりと冷たい。
「これは?」
「ロコンと呼ばれています。尻尾がむっつ、あるのですよ。進化すると九尾になります。キュウコンと呼ばれ、その姿を崇める村があるほどに美しい」
「これがロコン……。こんな姿をしているのですね。絵でしか見たことがありませんでした」
「ええ。かなり実物に忠実に彫ってありますよ」
まじまじと手のひらの上のロコンを見つめる。ピン、と立った耳。小首をかしげた表情。短く丸い手足やくるりと巻く毛の形が愛らしい。これが本当に命を持ち、歩いたり炎を操ったりしたら、わたしはたちまち魅入ってしまうだろう。
「そのロコンの目を覗いてみてください」
可愛らしい彫刻にすっかり心奪われてしまったわたしは、アーロン殿に言われるがままにロコンの瞳をのぞき込んだ。そして、息を飲んだ。
「わぁ……」
感嘆によるため息が気づけばこぼれていた。
ロコンの瞳に埋め込まれていたそれは、白銀、若葉の緑、花びらにつく露の水色が光によって浮かび上がる。今まで見たことのない色を持つ宝石が埋め込まれていたのだ。
宝石というものを生まれて初めてこんな身近に見た。金品には疎いわたしにも贅沢な品だと思えた。
言葉に表せない色と光を見せる。これが宝石なのだ。そうロコンの瞳はわたしに新しい価値感を落とし込んだ。
「綺麗でしょう」
「はい……」
「本当のロコンの瞳は黒なのですが、これと同じくつぶらな瞳を持っています」
「あの……上手く言えませんが……、すごく素敵です」
「原石を、周りの岩を少し大きめに一緒に採掘して、彫るんです。だからこういった、鉱石を含めていろいろなデザインを作ることができる。元々岩とくっついているから後からはめるより手軽だそうですよ」
「贅沢品、ですね」
それも、わたしが一生働いても手に入れられないような品だ。
手のひらの中を見つめると、ロコンに見つめ返されているように感じた。毒のように愛らしい。生きていくのには必要無いのに、魅入られて止まない。
「一体いくらするのでしょう」
「それは私にも分からない。貰ったものですから。気に入っていただけましたか」
「はい。この世界にはこんな素敵なものがあるんですね」
先ほどアーロン殿はこれを民芸品だと言った。こんな愛らしい人形を作り上げる職人が、世界のどこかにいるのだ。それにロコンだって、わたしは見たことが無いけれどアーロン殿は知っている。改めてアーロン殿は広い世界を知っているのだと感じる。
見つめていると改めてため息出た。
いつまでもこのロコンを見つめていたい。けれどあまり持っていると、このまま自分のものにしたい、そんな欲求を無視できなくなりそうで、悩ましい。
アーロン殿にお返ししなければ。最後にもう一度目に焼き付けてから、わたしが彼に手渡そうとしたが、アーロン殿はその手を押し返した。
「さん。貰ってください」
「……、え」
「今日のお礼です」
「っそんな! 受け取れません!」
アーロン殿の前でははしたない真似はしたくないと常々思っているのだが、その時ばかりは甚だしく声を張り上げてしまった。
「何か気に入らないことでも」
「いえ。素敵なお人形です」
「ならば良いでしょう。お礼ですから」
「お気持ちもありがたいです。でも、受け取れません」
「なぜですか」
「なぜって……。修理のお礼にいただくのは、違うと思います。お礼なんて……!」
「さん、落ち着いてください」
「わたしは落ち着いています!」
「私はマントの破れに気づいてくれて、そして時間をかけて丁寧に縫ってくださったから、感謝しています。私が抱いたこの気持ちを汲み取ってはくれないのですか?」
アーロン殿の眉が悲しげに潜められる。それがわたしを咎めたが、やはりこのロコンを受け取るわけにはいかないという気持ちが勝る。
受け取ってしまったら、わたしの何かが壊れてしまう。
「私は貴女の仕事の報酬として、このロコンがふさわしいと思ったのです」
「お気持ちだけで十分です。それにおっしゃる通り、仕事でしたから。報酬ならお城からいただいています」
「……私の言い訳に汲みして、ゆっくりと縫ってくださったのもお仕事のうちでしょうか……?」
「そうです」
仕事以外の何物でも無い。むしろ先ほどまで行っていたアーロン殿への奉仕は、仕事の域を越えた何かだとアーロン殿は思われたのだろうか。
もしそうだとしたら、なんと恐ろしいことだろう。
「わたしは、当然のことをしたまでです」
そうだ。当然のことだ。何もおかしくは無い。
仕事であること以上に強い動機を持って、アーロン殿のために働いたと思われては困る。
「では、私からの純粋な贈り物というわけには行かないのでしょうか。さんはこのロコンを可愛いと思ったでしょう?」
「それは、そうですが」
「なら、そのまま受け取ってください」
「だめです」
「なぜそこまで遠慮されるのですか」
「すごく、素敵なものだからです。わたしにはもったいないくらいに」
ロコンにわたしは相応しくない。それ以上に、わたしは純粋な気持ちで受け取ることができないだろう。
アーロン殿からの、形のある贈り物。今これを握り、受け取れと言われただけで、わたしの様々なものは揺らいだ。正しくあろう、アーロン殿の覚悟を真似た己のやれることをやろうとする覚悟は、このロコンによって様相を変えられてしまう。きっと。いや、確実に。
おかしなことだが、わたしはこの手のひらに収まるちっぽけなロコンが恐ろしくて仕方が無かった。
「ほら、わたしの部屋は大変簡素で、戸締まりもここみたくしっかりしていません。それにわたし自身も、ぼんやりとしているのはご存じでしょう。こんなにも可愛らしいもの、いつか盗まれてしまいます。素敵な物だからこそ、あるべきところに収まっていて欲しいのです。だから、アーロン殿が持つのが正しいと、思います」
「……あなたが少し気むずかしいのは分かっています。道理以上に自分に厳しいことも。でも、せめて、私の前でだけは素直になってくれませんか」
「アーロン殿からはいつもたくさん、頂いていますから」
「例えば何です」
「お心遣いを」
「さん、何か欲しいものはありませんか。何なら受け取ってくれますか」
「アーロン殿からそのように恩情をかけていただきました。それだけで充分です」
「なんて立派な言葉だろう」
「本当の気持ちです」
そう言い切れば、肩を落としつつ、ようやくアーロン殿は納得して下さったようだ。そっとロコンを差し出すと、今度は拒絶されず受け取ってもらえる。わたしもほっと息をついた。
かくしてロコンはわたしの手を離れ、相応しい場所へと戻っていったのだった。
窓からの光はすっかり赤みを増し、伸びた影を背負うアーロン殿は、少し、くたびれたように見えた。手の中のロコンを見つめる瞳は優しく濡れているが、慈しみとは違う色を映している。
「さん」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「恐れ入ります。アーロン殿こそ。わたしを呼んでくださり、ありがとうございました」
手のひらから顔を上げたアーロン殿が浮かべた笑み。なんて冷たいことだろう。もしやわたしがアーロン殿の気分を害し、このようなお顔をさせたのなら罪深いことだなと、随分遅れて罪悪感を抱く。
「さん」
「はい」
アーロン殿は手のひらを開く。その中には変わらず愛を集める、宝石の瞳を持ったロコンが小首を傾げていた。
「これを貴女に受け取っていただけないのは承知しました。が、これはもう、貴女のものです」
「………」
「私の手元に置いておきます。ですが、貴女の元に無くても、これは貴女のものです。他の誰にも渡さない。私が預かってはいるが、貴女の持ち物だと思って、片時も離さず生涯大切にします」
どうして、なぜ、そんなことをされるのでしょう。アーロン殿の言動の不可解さが、わたしを夕暮れの強い光とともに惑わしていた。
「もう、貴女に捧げましたから」
きっぱり、言い切るとアーロン殿はロコンを強く握りしめると、腰に吊っているバッグの中にロコンを締まってしまった。
いつか、手元に置いて下さるというのならいつでも言ってくださいね。そう最後に伝えてきたアーロン殿は、深い青色の瞳の中に夕焼けの色を混ぜ込んでいた。その激しい色合いは三日三晩、わたしに寝苦しい夢を見せた。