いつも頑張ってるさんに、と名指しでもらったチョコレートを一口もつけることなく家族に送ったのは、チョコレートの味を忘れていたかったからだ。わたしはあの甘い味を思い出すのが怖かった。褪せた記憶に新しい刺激を与えてしまえば、またチョコレートが欲しくなってしまうから。甘えを覚えたらいけない。一度辛いなんて言葉を使い、そこで走れなくなったら、わたしはもう立ち上がれないのだから。

 最近は特に休むことが怖かった。今までの積み重ねでついた止まれないという勢いが、ただわたしを動かしているのだ。歯車はひとりじゃ回れない。流れの中に身を置いて、やっと役割を果たせるのだ。その流れを止めるような悪い歯車にならないよう、わたしは必死だった。

 郵便の配達、花の水やり、文具や小道具の補給。誰もが過ごしやすい城になるように、誰が汚したかわからない石畳をブラシで擦って、夕方になったら声をかけてと言われれば時計の代わりになる。城の人間が口にした願いや不満はすべてわたしの仕事に繋がる。それはパイみたいなわたしの仕事。薄い生地が重なり合ってはじめて、パリパリと音を立てられるようになるし味がする。


「――さん、さん」


 自分の意識が遠くへ言っていたことにも驚いたけれど、意識が戻ってもわたしは、呆然としてしまった。わたしを呼んでいたのがアーロン殿だったからだ。


さん、大丈夫ですか」
「……ええ、……はい。わたしに、何か、ご用でしょうか」
「いえ、……」
「もう夕方なのですね。最近は一日が過ぎるのがとても早く感じられます」
「そうですね」
「すみません。余計なお話を。わたしはこれで」
「待ってください」


 言葉を濁らせていた彼がわたしを呼び止める。見上げた顔は、彼らしい堂々と不適な笑みではなく本物の困った笑顔だ。


さん、たまには私のわがままに付き合ってください」
「は、はあ」
「これを」


 いきなりアーロン殿がいつも持っていた杖を渡された。大きなクリスタルと、震え涼やかな音を立てる涙型の装飾がついた杖は彼がいつも手放さない大事なもののはずだ。ポケットからハンカチを出してその上から直接触れぬように受け取りたかったがそんな隙は無く。わたしは両手で、出来る限り丁寧に握った。

 ぴゅうと高く鳴ったのはアーロン殿の口笛。風に乗って響き、風に消えようかという時に天を突く勇ましい鳴き声がした。降り立ってきたのは見事な体躯のピジョットだった。

 わたしに杖を渡したのは、空いた手でわたしを捕まえるためらしかった。波導グローブをまとった手がわたしの肩を抱く。その強い感触に驚いてしまったが、わたしとアーロン殿を乗せたピジョットが飛翔を始めると、わたしは自分からアーロン殿の腕にすがった。
 ピジョットの羽ばたきとともに上昇していく視界。離れていく地上では顔見知りたちが空を見上げていた。


「みんなが見てます……」
「そうですね」
「明日皆からなんて言われるのでしょう……」
「さあ。私も明日は随分からかわれるだろう。それでも、こうでもしないと貴女には逃げられそうで」


 心外だった。逃げてくような人間と思われていたなんて。違うと伝えてみようかと思ったけれど、近いところで聞こえたアーロン殿の声で、わたしはすっかり体を強ばらせていた。浮遊感につま先が冷えていく。反対に耳が熱かった。

 降ろされたのは見覚えのある草原の上だった。
 いつの日か、つがいのニドランたちが戯れるのを見た。わたしが珍しくアーロン殿の会いに行こうと願って訪れ、空振りに終わった草原だ。
 今日は空振りじゃない。わたしに続いて彼が地に降り立った音が聞こえた。
 長くなった陽の光で花はつぼみに戻ろうとしている。明るい時にくれば花畑が見られただろう。
 アーロン殿は慣れた様子で丘の一番上に腰を降ろした。わたしも横に習う。


「……すみません、貴女の都合も聞かず。でも今日貴女とお話をしなければ一生後悔すると思いました。ただの勘ですが私の勘は当たるんですよ」
「アーロン殿は波導使いですものね」
「そうです、私は波導使いです。一人一人が発する波導をこの目で見ることができます」


 スカートの下から草のちくちくとした感触がくすぐったい。座った場所からは夕日の色がよく目に当たりくらくらした。


「すみません。ご気分の悪いことを言ってしまいますが」
「はい」
「最近の貴女の波導が以前と比べとても弱くなっています。色も、良くない」


 アーロン殿の口にしたことは全くピンと来なかった。

「私の経験から言うと、急に波導が弱くなっていく人間は多くが近いうちに亡くなります。事故か病気か。良くて病にかかり、生死の境を、……」
「そう、ですか」
「もちろん絶対ではありません。事故を免れ、何事も無かったように過ごしている人間も多くいます。だから今のうちに伝えたかった」
「それで、わざわざ」


 信頼する人物から、自分の死を宣告されている。だというのにわたしの心は不思議と静かだった。
 そりゃあ人間いつかは死んでしまうし、目の前の景色も美しいし。
 今わたしが死んでしまったら、という現実への心配もまたぼんやりとしていて浮かんで来ない。わたしの死を悲しんでくれる人の数を数えるのも億劫だ。


「……もっと、焦ってください」
「………」
「もっと死を恐れてください。私がわざわざ不吉なことを告げたのは貴女に死んで欲しくないからです。死にたくないと言ってください……」
「……死にたくはありませんよ」


 ただ仕方がないと思っている。死などあらがえるものではないだろう。


「そうですか。近い内に、ですか。もしかしたら戦争が近いからかもしれませんね」
「戦争……」
「わたし程度の者でも気づいています。このごろは城の上に住まう人間から顔色を崩されてますでしょう。皆、心内で覚悟していると思いますよ。戦争は怖いです。でも、戦争で命を落とすのならばそれは、それで。仕方がないことかと思うのです。出来ればわたしは使命を全うして死にたいものです」
「なんてことを言うんだ!」


 そう声を荒げたアーロン殿には驚いた。使命を全うして死にたい。そのささやかな願いが、まさかアーロン殿の怒りを買うとは思っていなかったのだ。


「死にたいなんて言わないでください。さん、私は貴女には死んで欲しくない」
「……アーロン殿は本当に思いやりの深い方ですね」
「思いやりなどではありません」


 わたしの死を強く否定してくれた。そんな人に思いやりが無いわけがないのに、彼はわたしの推察を嘲笑混じりに否定した。その顔は夕日に照らされ、しかし夕日を眩しそうにして歪んでいた。


「私はこの城に来てから今までを必死に尽くして来ました。及ばぬところもありましたが、いつも私の出来る最大限を行うつもりで挑んで来ました。それは、私が身を捧げたいと思う未来があるからです」


 それからの告げられるアーロン殿の願いを、わたしは心に刻み込みながら聞いた。


「辛い時は、未だ来ぬ明日を思い浮かべます。皆が笑う明日、豊かに暮らせる明日、争いの無い明日。素晴らしい日々を想像すれば、私の苦しみは和らぎます。
――さん、私が思うその明日には、貴女がいなくてはいけない。私の個人的な想い、ですが」
「………」
「どんなにたくさんの人間が幸せでもそこで貴女が笑っていなければ、私にとっては意味が無いのです」


 経験したことのない不思議な心地であった。アーロン殿がわたしを見つめ言葉をひとつ口にする度に喜び、のようなものがわたしの空腹を忘れさせてゆくのだ。


「死にたいなんて言葉聞きたくありません。私は貴女の生きていくという言葉を聞きたくて連れ出したのです。私が戦い続けるために、言ってくれませんか。
貴女が明るい明日へ歩いていくと信じるだけで、私は無限に戦えそうになるのです」
「わ、分かりました。わたしは簡単には死にません」
「………」
「これで良い、でしょうか」
「駄目です」
「え、え?」
「約束してください。私より長生きをしてください。命有る限り、精一杯の幸せを掴んで生きていくと約束してください」
「はい、約束します」
「どんな約束ですか」
「……っ」


 それも言わせるのか。本日の彼は珍しい表情ばかりを見せる。わがままに続いて仄かの笑んだ上で意地悪を口にした。


「さあ。言ってください」
「――あ、貴方より長生きします。死にたいと思わず生きていきます。そして幸せを諦めません」


 アーロン殿との約束は口にすればするほど、響きがしっくり来ず、身の程知らずの誓いに感じられた。長生きとか幸せとか、どれも貪欲な響きである。急に全身に血が巡ったように体が熱くなった。


「……これで、どうでしょうか……?」
「………」
「ご満足、いただけましたか」
「少しだけ」


 それもそうか、と思った。言葉なんて信じるに足りないものだ。言うだけならなんとでもなる。今の言葉をひっくり返した行動をとるのも、わたしにも簡単なことだ。
 しかし何気なく足されたアーロン殿の一言が、わたしの胸に言葉の重みを教えた。


「貴女の言葉、信じています」


 言葉はたやすい。いくらでも紡ぐことが出来る。しかし、アーロン殿を裏切ることはできやしない。
 軽々しく結んだ約束。それがアーロン殿に望まれた約束なのだと思うと、赤い糸でハートを一回り結ばれたような苦しみを生んだ。