汲み上げた水に荒れた手を浸してもそう痛くなく、わたしはその時に春の訪れを感じた。あんなに冷たかった水がほどけたように生ぬるい。そのことに気づいたわたしの心もほどけ、崩れていく。そういう感触が胸にあった。
オルドラン城周辺は春先にも不意に雪が降る。まだ寒さに身構えなければならないが、それでも春だと思うと、目の前が明るくなるようだ。花のつぼみが柔らかくほどけるように、何もかもが柔らかく変化する時期なのだ。
汲み水だって。アーロン殿のお心だって。そう、名も知らない、貴族のお嬢様相手だとしても。
「」
ぴしゃりとわたしを呼んだのは副メイド長だった。相変わらず姿から声の色まで凄みがある。メイドとしてわたしがあまりに冴えなかったために、他の部署へ移動を言い渡したのもこの副メイド長だった。
副メイド長はアーロン殿の住まわれる離れから、ほど近いとある部屋の鍵をわたしに手渡して言った。
その部屋を片づけ、掃き掃除からカビ取りまでを済まし、とにかく清潔にしろと言う。なぜならば明日、そこへたくさんの荷物が運ばれるからだと。
アーロン殿のお部屋の近くに運ばれる、たくさんの荷物。とにかく清潔に、と厳しい口調の言い渡され、わたしは直に悟ったのだった。
そこに運ばれてくるのは、噂に聞くアーロン殿のお見合い相手からの贈り物であると。
アーロン殿にお見合いの話が持ち上がった。その噂が城中に流れ、ほとんぞ全員の耳に入るまでは伝染病よりも早かった。
何せアーロン殿だ。お召し物に土汚れなどの絶えないお人であるがアーロン殿の見目そのものの良さは、誰もが褒めそやす程なのに、女性の話題が持ち上がったのは初めてのことだった。彼は城に来た時独り身だった。そして故郷や道中に決まった相手がいるといるのではないかという問いは、アーロン殿の口から直々に否定されている。
噂のお相手がまた、貴族のお嬢様という、人が人へ話したくなる要因であった。彼女の名を聞けば、すぐに高台に上れば川向こうにちょこんと見える三角屋根のお屋敷が思い浮かぶ。私どもにも比較的な身近な名家であった。
独り身の見目の良い波導使いに持ち上がった、貴族のお嬢様とのお見合い話。
夜毎に誇張されていく二人の噂話を耳にする時、わたしは母の口から伝え聞いたおどぎ話を聞いているような心地がした。
預かった鍵を使い、部屋に入る。がらんとしていて、壁や床は埃の色に濡れていた。
机を詰めれば30人くらいの人間が仕事をできそうな広さだ。しかし副メイド長が私一人に清掃言い渡すくらいだ。大した物も無かった。まず、窓を開け放す。部屋に流れ込む午後の空気はやはり、以前より随分と暖かい。その風を頬に受けながら、わたしはまず天井の埃をはたき落とすことに決めた。
アーロン殿に結婚相手となりそうな女性が現れた。それを聞いた時は驚いたが、あのお嬢様の名を聞いた時、わたしは驚きながらも安堵したのを覚えている。アーロン殿の生活を経済的にも精神的にも支えられるお相手が見つかったのだ、と。
アーロン殿が自らを律する強い精神力の持ち主であることは重々分かっていた。けれど、だからといってアーロン殿が一人で生きていけば良いとはわたしは思わない。できるのなら、彼が誰かに支えられ生きていて欲しいとわたしは思っていた。
周囲に心砕かれるあのお方が、例え小さな事でも生活の心配をしないでいられるのならそれが良い。
アーロン殿と同じ城に使えること以上に何者でも無いくせに、身勝手にそのようなことを考えてしまう。
誰かに守って貰えたのなら。わたし自身そう考えたことは幾らでもある。わたしの願いは叶わないが、アーロン殿は、わたしの夢見る世界に進まれるのだろう。そう思うと胸が熱かった。
守られ、そして守り返しながら生きていくアーロン殿。あの広い背中と、もうひとつ華奢で、白く、傷一つ無い美しい肩の持ち主が寄り添い合う。その想像だけでわたしは少し泣きそうになる。
ざり、と部屋の入り口でまだ掃ききれていない砂を踏む音がした。不意のことで泣きそうな気持ちが引っ込む。誰だろうと振り返ると、深い青色の体。アーロン殿の相棒、ルカリオがそこに立っていた。
「ルカリオ……」
名をつぶやくと、彼は鼻とものどとも言えない場所を震わせて鳴いた。
彼に近寄って辺りを見渡す。ルカリオの在るところに必ず、アーロン殿がいるからだ。
けれど部屋から出て通路を奥まで見渡してもアーロン殿の姿は無かった。こんなのは初めての事だ。驚きで思わず口元を抑える。
「アーロン殿があなたを置いていくなんてこと、あるのね」
ルカリオは目を細める。仕方が無いというようだった。
「どうしたの? ……わたしに何か?」
問いかけても彼から返事は無い。
アーロン殿はルカリオの前ではとても雄弁に語る。それはルカリオと確かに対話が出来ているからであった。けれどわたしにはルカリオの言葉を広いあげる術は無い。
「……ここにいるのならそれでも良いの。だけど、よかったら窓際に来ませんか。ここはもう、綺麗に拭いてあるから」
そう伝えるとルカリオは素直に、部屋の中に入り、窓際に腰掛けた。細い窓枠を背もたれに、器用に座る。その姿はアーロン殿を連想させる。本当によく似通った主人と相棒であった。
埃の降り積もった床に、ルカリオの足跡が落ちる。わたしはそれをくすぐったい気持ちでやや見つめ、箒で掃いた。
壁をこすり、埃を掃きだし、部屋の小物を陽の光に当て、床を磨く。基本の順序を守り進めた清掃は、滞りなく終わりを迎えようとしていた。ルカリオの赤い目がこちらを見つめる中、それらをこなすのは始めは少々緊張したが、次第に心地良い緊張へ変化した。彼は時に重い物を動かす時には手を貸してくれたし、わたしが無茶をしようとすると心配そうにこちらを見つめた。日が傾き始める頃には、わたしはルカリオの優しさを十分に知っていた。
「ルカリオ。寒くなってきたら、窓を閉めても良い?」
そう聞くと、彼は音も無く部屋のうちに入る。
「ありがとう」
部屋はもう、アーロン殿のルカリオがどこを踏みしめても汚れがつかないくらいには綺麗になった。やりきれそうだ、という穏やかな気持ちがわたしを包んでいる。
「まだ、ここにいて良いの?」
その答えは、彼の反応を伺う前に、ドアの向こうから、姿を現した。
「やあ」
とてつもなく、久しぶりに聞いたような、そんな声ががらんとした部屋に響く。
「ルカリオの相手をありがとうございます」
「アーロン殿」
日中、一度も見つけられなかったアーロン殿がそこにたっていた。
「ルカリオ、戻ったぞ」
主人の帰りに、ルカリオはいくらか余裕のあるそぶりだ。本当はアーロン殿が近くまで戻ってきたのを知っていたのかもしれなかった。
「それにしても驚きました。貴女はルカリオ相手だとずいぶん砕けた風に話すのですね」
「申し訳ありません」
「何も謝ることはありません。ルカリオ、よかったな」
ルカリオがぶるる、と鼻を震わしたが、それがわたしにはなんと言っているのか見当もつかなかった。肯定しているのか否定しているのか。
「留守の間、おまえが何をしているのかと考えていたが、そうか、さんの手伝いをしていたんだな」
「はい。ルカリオはわたしを助けてくれました」
昼間のことを正直に告げると、アーロン殿は笑みを深くする。
「貴女も。ルカリオと一緒にいれくれて、ありがとうございます」
「そんな」
「感謝しています。今日はどうしてもルカリオを連れていくことが難しかったのです」
アーロン殿が少し、遠い目をする。わたしを前に、わたし以外の誰かを見るような目をしたので、気づいた。
今日、アーロン殿は“川の向こうのお屋敷”に行かれたのだ、と。
「お察しの通りです」
わたしの心を読んだかのようにアーロン殿は言った。
「本日はあの方のお屋敷に。呼ばれて行ってきました」
「そうですか」
「あの方とそのご家族は、私にとてもよくしてくださいますが。けれど、あまり、あのお方は人間以外の生き物が得意じゃないらしい」
「ルカリオが、ですか」
「いえ、人間以外の生き物全てが、です」
「そうですか」
「はい」
それはとても残念な知らせだった。わたしは噂話でしかお相手の方のことを知らないが、きっとアーロン殿の何もかもを受け入れてくださる女性に違いないと思いこんでいたからだ。
アーロン殿を成す、様々な物事の重なり合い。わたしはそのどれもが大切な物であると感じていた。だから、アーロン殿というお人の欠片、それもルカリオのことを否定される方だった事に、少なからずショックを受けた。
「さん」
「はい」
つい、あらぬ方向に目を向けたを呼び戻すように名を呼ばれる。
「私が、あの方と一緒になると思いましたか」
「はい。てっきり、そうなのだと」
正直にわたしは答えた。
「そうでしたか。けれど、私にそのつもりはありません」
なぜ。とっさに問おうとした喉を、わたしは強い気持ちで抑えた。
「なぜだか、聞かないのですか?」
「はい、聞きません」
「そうですか……」
アーロン殿が、あのお屋敷で暮らすことより選びたいと思うもの。それほど大切なものが何であるのか、踏み込んで聞こうとする権利はわたしには無いと思えたからだ。
「私は言って見たかったのですが。なぜ、ここにいたいと思っているか」
「え?」
「いえ、もう良いです。わがままを言いました、すみません」
何のことだろう。何ついて、アーロン殿は謝罪を述べたのだろう。さっぱり訳が分からなかった。
「……本当に、アーロン殿はあの方と結婚、なさらないのですか」
「ええ。ありえません」
軽くも、きっぱりとした口調の文句。わたしは途端に不可思議な気持ちに見舞われた。
アーロン殿のお見合い話を聞いた時から、相手の方の身分を伺った時から、わたしはその話をとても喜ばしいものだと思っていた。アーロン殿は幸せになるのだと信じていた。
それが今、目前で否定された。アーロン殿は今回の結婚により幸せにはならないのだと知ったというのに、またしてもほっとしている自分がいるのだ。
わたしを見下ろす、黒い目が、ひとまずはまだオルドラン城に存在していてくれる。それを思うだけで、大きな何かがのどにつっかえ、飲み込めない。
わたしは自分で自分が分からなくなり、半ば混乱状態であった。居心地の悪さを感じていると、ふとアーロン殿がわたしを部屋の外へと促した。
「もうこの部屋の掃除は良いですよ」
「ですが」
「この仕事を言い渡したのは?」
「副メイド長殿です」
「じゃあ私が直々に彼女に伝えます。良い時間ですから、貴女はお部屋に帰りなさい。そのことも、私から副メイド長へ言いますので、心配なさらないでください」
有無をいわせない強さがアーロン殿の口調にはあった。わたしは渋々頷く。
「あの、最後にルカリオにお礼を」
「そうですか」
「はい」
ルカリオ、ありがとう。本当にありがとう。そう最後に重ねて伝え、わたしは二人に見送られその日の仕事を終えた。
オルドラン城の波導使いと、川向こうのお嬢様のお話はそれきり。 伝わるのも早かったが、人々が次の噂話に移るのもまた、伝染病のように、雪解け水に溢れる川の流れのように、早かった。
過ぎ去りし物事の中、アーロン殿とその相棒のルカリオは、今日もオルドランの城内で連れ立ち歩いている。
何事も無かったかのように歩くその姿をみやり、わたしは季節がまた変わるまで度々思い出した。消えてしまった噂話を。アーロン殿がなぜか選ばなかった、ひとつの幸せのかたちを。