よろしくお願いしますと言われても。確かに私は小銭入れの持ち主を知っている。彼女が小銭入れを使っているところを見た。だがそれだけで、私と彼女の間に関係というものは無い。
 口は、利いたことがあるが、一日だけの話で以降は何も無い。何度かすれ違ったりということが数回あっただけで、それは忘れ物の所在を告げるには到底足らない繋がりだ。
 あなたの探す物はミオ図書館にありますよと、見知らぬ男から告げられた彼女はどんなに怯えた顔をするだろうか。
 持ち主に伝えるよう邪気の無い笑顔で頼んできた図書館の人にも、現在探しているだろう彼女にも申し訳ない。だが、彼女に必要ない恐怖を与えるよりはきっと良い。だから私は決めた。そのミミロルのことは放っておく。時の流れに任せるべきだ。


 ここ数日思うのは、私はバトルフロンティア通いを控えた方が良いのだろうかということだ。原因はやはり彼女だ。私はバトルタワーでさんの存在を知って以来フロンティアに行けば何かしら、彼女との接触を起こしていた。通勤、特に仕事を終え帰る彼女と道を一緒にすることがある。フロンティア内ですれ違うこともよくある。ふと横を見ると休憩中のさんが、ということもある。まさか私を知っていてわざとやっているんじゃないかと疑ったこともあったが、さんの方は私など眼中に無いようで、目が合ったことは一度も無い。私の邪推に終わりそうだ。
 さんの顔を見ない日もあったが、そんな時は人の話し声の中に彼女を見つける。例えば、手の空いたバトルタワーの受付嬢が電話をかけたと思ったらこう言った。「すみません、お手数ですがさんに伝えていただけますか」。
 人の口から彼女の名を聞くことは多い。噂などではなく、業務上のやりとりらしき会話に登場する。そうこうする内に、私は彼女の誕生日を知ってしまった。確か、記念日と誕生日が重なっている人について喋り込んでいた職員がいて、そこに彼女の名が上がったのだ。
 言ってしまえば彼女は目立つ人では無い。利用者も運営者も多いこのバトルフロンティアで、どうしてこうもよく彼女の情報に触れてしまうのか、私は不思議でならない。
 まだ知り合ってもいないのに、徐々に彼女のプロフィールが埋まっていく。もはや怪奇現象だ。記憶のせいで元々よく知った人物のように錯覚していたが、今では望んでもいないのに本当に彼女に詳しくなりつつある。彼女との距離が近くなる度、彼女が私の近くに現れる度に、私は居心地の悪さを感じながらそれをやり過ごしている。彼女に非は無いが、私は少し気疲れを起こしていた。




「ジュンサーさんっ」


 薄い雲を交えた空に、焦ったような声が高く響いた。


「ジュンサーさーん!」


 せっぱ詰まった声色に思わず振り返ってしまう。注意を引く声。反射的に体が動いてからふと、思った。“彼女”かもしれない。結果は思った通り。バトルキャッスル正面口から飛び出てきたのはさんだった。
 顔を焦りに染めた彼女はすぐに走り出した。駆け降りる足の動きでスカートが太股まで巻き上がる。小さな足が階段で次々を弾むのが危なっかしい。
 彼女はバトルフロンティアに必死に見回しながら走っている。茶封筒を両手でしっかりと持っているので、恐らくそれをジュンサーさんに渡したいのだろう。彼女は順当に私に近づき、3メートルほど離れた場所で息を切らして止まった。苦しげな息に呟きが交じる。


「どうしよう……」


 横目で見た彼女に、目が離せなくなった。困り果てた顔の青さが、私の胸に刺さったからだ。血の抜けたような顔色、苦しげな表情と顎に伝った汗。それはただ困っている人の顔では無かった。そして私はミミロルのポーチに入っていたものを思い出す。小銭と、薬。
 今度は私の顔から血がサッと引いていく。

 なぜ、私は薬の重要性を考えなかった。彼女の命に関わるものだった可能性をなぜ考えなかった。少額のお金、使い古した小銭入れだからと軽く見ていた。だけどなぜ私は薬までもを軽く思っていたのだろう。
 後悔と悪い想像が膨らんで、たまらず声をかけていた。


「大丈夫ですか?」


 初めてのことだった。彼女を彼女と分かりながら声をかけていた。


「ジュンサーさんを呼べば良いんですよね。私が行きます」


 突然のことに彼女は何も言えない。ひたすら驚いている。しかし私を映した目が、やはり不調を訴えているように見えた。
 どうせこれから彼女とどうなりたいとう願望も無いのだし。私は自分を奮い立たせて口を開く。


「それと、たまたま知っただけなので、どうしてだとかは深く考えないで聞いてもらいたい」


 途中からもうさんの顔は見ていられなかった。彼女の不審感は止められないだろうと分かりながら、言い訳がましい前置きをする。


「あなたの探している物はミオ図書館にあります、それだけです」


 それだけ告げて、私は彼女の代わりに走り出す。ジュンサーさんの乗る白バイを探して。







 あの後、思った通り白バイの停まっていそうな道に出ればすぐにジュンサーさんを見つけられた。バトルフロンティアの職員が貴女を呼んでいる。困っている様子だったからすぐに行ってやって欲しい。そう告げ、ジュンサーさんが道を戻ったのを見届けて、私はバトルフロンティアを後にした。
 以来、すれ違うことも気まずくて、バトルフロンティアには行っていない。

 彼女に落とし物のことを告げてから一ヶ月と半月が経った。私にはそんなに経ったと思えないのだが、日付を見ればもうカレンダーの絵柄が二回変わっていた。
 フロンティア通いを控えただけでその他はいつも通り。気ままな生活を続けている。やはり彼女はミオやこうてつ島といったところには滅多に来ないらしく、しばらく顔を見ていない。
 そんな中、ミオ図書館に行く度に私はこっそり落とし物コーナーに目を通している。あのミミロルのポーチは誰でも触れる場所に並べられなくなった代わりに、「落とし物リスト」と題されたファイルに時間が経った落とし物と一緒にファイリングされている。

 彼女に話しかけてから一ヶ月半が経った。ファイルをめくれば、ミミロルは変わらずそこにいる。未だ持ち主が現れないままそこにいる。
 彼女はどうやら私の言葉など信じなかったようだ。鼻を汚したミミロルは本日も、ミオ図書館に置き去り。中身の薬もきっとそのままだ。