あれ以来私はバトルフロンティアでの腕試しに気が乗らなくなってしまった。仕方なく、私の日々の時間はバトルフロンティアを除いた、その他の生活の部分へ流れていった。
しばらくはこうてつ島に籠もったり、ポケモンたちの技をじっくりと見てより良くなるよう共に励んだり。気の赴くまま体を鍛えたり。自分とポケモンたちへ、時間を注いだ。
好きなものたちと好きに過ごす時間で、私はゆっくりとさんのことを忘れた。
彼女のこと、彼女の存在に揺れそうな自分のこと、自分が的外れなお節介を焼いたこと。胸の内で波だっていた事柄をゆっくりと鎮め、忘れた。
私には紛れもなく自分を取り戻す時間が必要だった。その内にまた彼女とどこかで会う。その時のために、だ。
一月ほどのインターバルを挟んで、久しぶりに訪れたバトルフロンティア。私はいつものようにバトルキャッスルには目もくれない。だというのに、まさかの景品交換所で彼女と鉢合わせをした。
「あ」
「あ」
顔を見えた瞬間お互いの声が重なった。意外なことは彼女の方も驚いた顔をしたことだ。彼女の目は明らかに私を私として見ている。私はあの件以来、顔を覚えられたようだった。
「ど、どうも。えっ、と……。どうしてここに? いつもの人は?」
あなたはバトルキャッスルの人だったのでは? と言いそうになった。が、彼女の勤務先を知っていることを隠し、言い換えた。
「本日ここの担当は急遽病院に。ちょっとした検査なので、午後には戻るそうですよ。何かご用がありましたか」
「いえ。どうして貴女が、と思って」
「ああ、わたし、ここの担当の方とは面識が少しだけあるんです。それに今日はお休みだったので、お手伝いすることになりました」
「そう、でしたか」
「はい」
カウンターの中に立っていると彼女はますます小さく見える。
会話が途切れる。少し指を迷わせながらも彼女は景品のリストを提示してきた。
「BPをわざマシンに交換なさいますか?」
「いえ、少し見ていただけですから」
「そうですか」
私が断っても彼女は表情を変えずに対応する。素直にこちらを見る瞳。穏やかな笑顔。それが不思議だ。確か前回、私は何か歯切れが悪くなるようなことをしてしまった覚えがある。
ああ、思い出したぞ。
そうだ。私は彼女について知りすぎている自分を、彼女の前へさらけ出してしまったのだ。
貴女が落とし物をしたことを知っている。それがミオ図書館にあることを知っている。どんな訳で知っているかは、話せないが。
そんなことを語る男が突然目の前に現れて、彼女はどんな風に感じたのだろうか。女性として恐怖させた可能性だってある。けれど私を見る彼女の目に恐れは無い。
「あの」
「……、はい」
「以前は、どうもありがとうございました。いつの話だと思われるかもしれませんが、これ、受け取ってくれませんか?」
そう言って彼女は両手で封筒を差し出した。
「待って、待ってください。何の話ですか?」
「以前ミオ図書館にわたしが忘れ物をしたこと、教えてくださいましたよね?」
私は返事をすることが出来なかった。
なぜなら彼女が私に感謝を告げていることと、私がミオ図書館で見てきたものと。つじつまが合わないからだ。
「ずっとお礼がしたかったのですが。やはりもう忘れてしまいまいましたか」
「いえ。……取りに行ったんですか? 忘れ物を?」
「? はい、行きましたが」
「いつです」
「教えていただいた後、すぐのお休みの日に行きました。なので……、もう3週間も前です」
おかしい。すぐ取りにいった。そんな筈がない。私は何度もミオ図書館で落とし物リストを確認したのだ。
「信じられない。本当ですか? ミミロルの小銭入れですよ?」
「え? どうしてわたしがコインケースを探していることを知っているんですか?」
「知ってるも何も。貴女、ミオ図書館に何を取りに行ったんです」
「え、それは貴方が知っていらっしゃるのでは」
「私が見つけたのはミミロルの小銭入れです」
「え、ミミロル、あそこにあったんですか!?」
ようやく話が見えてきた。
「……他の忘れ物もしていたんですね」
拍子抜けしながら恐らくの真相を呟く。
「……数年前に無くしたままだったものが。ポケモン用のブラシと、爪を整えてあげるヤスリと、ポフィンの焼き方の本です」
それは随分多く忘れ物をしたものだ。
口がぽかんと開いてしまう。私の反応に彼女は顔を赤くして弁明を入れた。
「買ったその日に無くしてしまったんです、袋ごと。当時とてもショックで、まさか今頃見つかるなんて思わなくて感動しました」
「そうですか……」
「コインケースまでミオ図書館にあるとは思いませんでした……。ありがとうございます、また改めて取りに行きます」
正直肩から力が抜けた。
確かに私は「ミミロルの小銭入れを」とは言わなかったが、まさか彼女複数忘れ物をしているとは思いもしなかった。
ミミロルの小銭入れはそのままだったが、彼女はミオ図書館でちゃんと自分の持ち物を見つけていた。一応、私の言葉は伝わっていたわけだ。
「あの、これ。お礼です。受け取ってください。気持ちばかりのものですが。……あ」
彼女は気づきの声をあげる。そして焦ったように少し封筒の端をまっすぐに直した。
「すみません、いつでも会った時に渡せるようにと思って持ち歩いていたんですが、そのせいで角が。すみません」
確かに彼女はその封筒をポケットから取り出した。
「まさかずっと?」
「はい。どこに行けばお会いできるか分からなかったので」
さんは困ったように顔を傾げた。
彼女と不意に会う回数を数え、相手の存在を近くに感じているのは私だけのようだ。
「こんな状態で渡すのもあれですが、またこうして会えるとも限りませんし、中身は使えるものを選びましたから。どうか受け取って頂けませんか?」
「……分かりました」
すみません、いつでも会った時に渡せるようにと思って持ち歩いていたんですが。そんな言い方をされては断りづらい。頑なに拒否し続けることの方が彼女の記憶に残りそうだ。
観念して彼女の手から封筒を抜き取る。
「なんだかすまないな。最初からちゃんと詳細まで伝えれば良かった」
「いえ。教えてくださっただけでもう、ありがとうございました。わたしも次からは気をつけます」
「こちらこそ。こんなものまえ貰ってしまった」
「感謝の気持ちです。お納めください」
「ありがとう。それでは」
「はい、それでは。本当にありがとうございました」
彼女は何度も何度も頭を下げた。熱心にありがとうの言葉を繰り返し向けられれば、さすがに胸が熱くなるのだった。景品交換所から去ってからも後ろを振り返ると、そこにはぺこりと頭を下げるさんがいた。
貰った封筒の封は、彼女から完全に見えないバトルフロンティアの外で解いた。平静を装いつつ見た中身。それは、金券だった。どのくらいかと言うと、私がたっぷりのディナーを三日続けて食べられるくらいの金額だった。
一ヶ月近く持ち歩けるもの。好みの分からない相手にあげるもの。感謝の気持ちを無難に示すもの。そういった意味では金券という選択肢が適当だったんだろう。
「なんだ。お金、か」
それでも私はがっかりしていた。私が彼女を案じた気持ちは、なんとも淡泊な、お金というものに変わってしまった。
彼女には関係無い、手前勝手な話だが、葛藤や落ち込みや自責。私を振り回した様々な感情。それらはお金に代えられない気持ちだった。それだけじゃない。彼女がわたしにありがとうと言ってくれた声色までこの数枚の金券に変わってしまったように心地がして、ため息が出てしまう。胸の中に木枯らしが吹いたようだ。
実用的で、とりあえずあれば嬉しい、万人が喜ぶお金。私をそれを素直に喜べなかった。
ああ、バトルフロンティアからの帰り道だ。夕暮れの中、コーヒーショップに入っていくさんを見つけた時、不覚にもそう思ってしまった。
彼女が家に帰っていく姿に遭遇する確率はなかなかに高い。彼女が帰る前に家に帰るまでの力を蓄えるように暖かい飲み物をあおる姿に会うこともまた多い。
ヤミラミの鳴き声に一日の終わりを感じるように、私服の、働き終え少し疲れた様子のさんを見ると、ああ私はバトルフロンティアでの一日を終えこれからこれから我が家に帰るんだなというノスタルジアが湧き上がるのだ。
不意にジャケットのポケットに突っ込んだ手に紙が当たる。彼女から貰った封筒だ。そしてコーヒーショップのガラス窓にステッカーを見つける。
思いつきに身を任せ、私はさんを追いかけた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは。またお会いしましたね」
「はい。偶然ですね」
偶然は、偶然だ。
私が彼女の近くを通りかかったり、逆に彼女が私の近くを通り過ぎていったりということは頻繁に起こる。が、その頻繁さも偶然に過ぎない。
「ここで食事を?」
「いえ。家に帰るためのちょっとした休憩を」
「何を頼むかもう決めましたか?」
「はい、わたしはいつも決まっているんです。コーヒーと、ピジョット……わたしのポケモンに体が温まるようなものを」
「そうですか」
「弱い子でも無いんですがこれから家まで乗せてもらうので、一仕事の前払いということで」
彼女から漏れ出たピジョットの話題。雰囲気から悪い人では無いと確信していたが、やはり彼女はピジョットをパートナーとしてとても大切にしているようだ。
自分のポケモンを大事にしている人に出会うと嬉しくなってしまう。そのことに条件は無い。
「あ、あの。すみません。ここでちょっと待っててくださいませんか? すぐ、戻りますから」
「え? っ――」
危ない。カウンターへ駆けだした彼女を引き留めようとつい名前を呼んでしまうところだった。私と彼女は一応、まだお互いの名前を知らない仲なのだ。
失言しそうになった私を置いていった彼女は言葉の通りすぐに戻ってきた。どこか予想通りに、手にコーヒーを二つ持って。
「これ、どうか召し上がってください。全然足りないでしょうけど、お礼です。ミミロルのことまで教えてくださって本当にありがとうございます」
「受け取れません、私はもう充分にいただいた。と言いたいところですが……」
どうして二つ買ってきたのだろう。断れば彼女ひとりにふたり分のコーヒーを飲ませることになってしまう。
断れない。本日二度目だ。
「分かりました、いただきます。だけど少し待っていてください」
そう伝え、今度は私がカウンターに赴く。そこでカウンター横にあったカップケーキを二つ手に取る。
「これと、ピジョットに丁度良いメニューはあるだろうか」
「はい、ひこうタイプのポケモンならこちらがおすすめです」
「じゃあこれを。会計はこれでお願いします」
そう言って私はあの金券を取り出した。今日貰ったばかりの、端が少しよれてしまった金券を。内1枚をレジに出した。
本当はここで彼女に返す形で全て使いきってしまいたかった。だがコーヒーショップで使い果たすには送られた金額は多すぎた。
トレーを受け取りさんの元へ戻る。
私が何をしようとしたのかは、カウンターの後ろからでも充分見えたようだ。彼女はおろおろとコーヒーを両手にうろたえていた。
「どうぞ」
「そんな……、受け取れません……」
「なんだか貰ってばかりでは落ち着かない。ああこれは私の物です」
カップケーキのひとつは本当に自分用だ。そして彼女の手からコーヒーを受け取り、残りの物が乗ったトレーを代わりに受け取らせた。
「こっちはついでです。ピジョットと気をつけて帰ってください。コーヒー、どうも」
私は全くずるい人間だ。呆気にとられた彼女の顔で自己満足を感じ、すっきりと晴れやかな気持ちになっているのだから。
彼女を置いて出た、コーヒーショップの明かりが遠くなる。夜風は少しだけ冷たい。空いた手をポケットに入れると、カップケーキのビニールの包みと紙の感触が手のひらに当たった。