しっかりと厚いのに何度も読み返してしまう本というのに久しぶりに出会った。胸を貫かれる文言の連続に、私はまんまとやられてしまったのだ。特に結末は、展開が分かっていても作者の巧みな話運びによって入り込んでしまう。
願いが叶うなら、一度この本のことをまっさらに忘れた状態で読み返したい。実際に私は内容を忘れた気になって初読の感動をもう一度味わおうと試みているがそれはあくまで疑似体験だ。知ったことを忘れられるわけがなかった。何も知らなかった過去の自分が羨ましくなってしまう。そこまで思える本に巡り会えてここ数日の私は浮き足立っていた。
ジャケットのポケットを満たすのは、惚れ込んだ物語の文庫本。ミオ図書館から借りた下巻を握りしめ、思い出しては読んでいる。
返却日まではまだ余裕があるが、直に返す日が来たら購入をするつもりである。私の数少ない愛蔵書として扱うつもりだ。
物語の感触を腿に感じながらこうてつ島から出た。数日ぶりだ。つまりさんと会うのも数日ぶりということになる。会う、というよりはこちらが一方的に顔を見ていると言った方が正しいが。
私が彼女の生活圏内に入った時、彼女と何らかの接触を持つのはもはや必然となっていた。フロンティアへ行く前、昼食用のパンを買おうとしたお店の飲食スペースで本日の彼女は文庫本を読んでいた。今日はこの後、バトルキャッスルへ行くのであろう。遅番というやつだ。
彼女、前髪が少し伸びただろうか。そういえば私もそろそろ髪を切らなくては。前切ったのはいつだったか。帽子があるから伸びてもあまり気にならないのだが、そろそろ頃合いだろう。鼻にかかってはかゆくなる。
さんを見つけてはこうして思案する。その時間を私は何とも思わないようになっていた。一言で言えば“慣れた”。
彼女と関わることは避けられない。それでいちいち嫌悪したり意識したりしていたはこちらの身が持たない。だからほどほどを保とうというのが私の作戦だった。
「お待たせいたしました」
「ああ、ありがとう」
……ん? 私はコーヒーを頼んだだろうか。パンは買った。しかしコーヒーまで、しかも店内用のを注文しただろうか。
代金はすでに払った。レシートにはしっかりとコーヒーが印字されている。
「まあ、いいか」
コーヒー一杯ならここで飲んでいけば良い。この後のバトルのため体を温めると思えば良いのだ。私は空いている席を探した。空席はひとつ、彼女の横にあった。
ま、まあいいか。
しかし、今日の彼女はかなり熱心に本を読み込んでいる。コーヒーを飲みながら横目で見ているが全く気づかれない。どうやら相当おもしろい本を借りたらしい。横を通った際、パーテーション越しに上からのぞき込むと、本の頭、「天」の部分にミオ図書館所蔵であることを示すスタンプが押してあった。ミオ図書館で借りたなら、ミミロルは迎えに行ってやったのかな。あの一件を思い出すと今も苦笑してしまう。
時節頬にかかった髪を耳にかける。そうすると隠されていた端っこの赤い耳が姿を表す。こういう仕草を見ていると、この人も可愛い人だなと思ってしまう。
彼女が思い出したように机のカップをとった。片手で支えることとなった本が傾いて、ぺらりと表紙がこちらを向く。驚いた。さんは私と同じ本を読んでいたからだ。正確には私が読んでいる本の上巻を読んでいる。下巻は、今私が持っている。
奇妙なことが起きている。同じ日、隣の席に座った他人同士が、同じ物語の上巻と下巻を分けあって読んでいる。マニアックな本というわけではないが、特段流行っているわけでもない。旬はとうに過ぎた、けれど古典にはならない程度の古い物語だ。ぶわ、と毛穴が逆立った。
先ほどより注意しながら、こっそりと彼女を盗み見る。彼女は依然夢中になって読んでいる。
もうすぐ上巻を読み終わりそうだ。そう少し、はじめの方は物語が掴みにくく入り込みにくいのだが、半ばを過ぎてしまえば戻れなくなってしまうんだよな。私がポケットにしまっている下巻を差し出せたなら良いのだが。偶然に偶然が重なりすぎて、言い出しづらい。
私が巡り合わせへの感動と困惑の気持ちにまみれているうちに、彼女は慌てて荷物をまとめ出した。何度も腕時計を確認している。
読みふけってしまったのかな。私は苦笑いとともに駆け出す彼女を見送った。
完全に店から出たのを見計らって、私はポケットの中からあの文庫本を取り出す。この本はまだまだ読み返すつもりでいるが、今日で図書館に返してしまおう。私なら、買えば良い。それが彼女に手渡す一番の方法だ。
帰りを少し急げば閉館時間に間に合うだろうか。返却用のポストもあるが、物語の続きをじらされるのはたまらない。是非彼女にも私と同じように感動してもらいたいものだ。
お節介な感情を引き連れて心に決める。今日は少し早く帰ろう。
翌々日、陽の暮れた後。私はまた同じ店の飲食スペースにいた。今回も一杯のコーヒーと共に座っている。つい先ほどまでは本屋にいた。もちろん先日心奪われた本を買い揃えるためだ。
新しい本を迎えるのは久しぶりだった。本はあまり買わない方だから。私の蔵書はとても少なく、下手したらトレーナーズスクールに通う子供たちの方がたくさんの本を持っているかもしれないというくらいだ。必ず何度も読み返すと思える本だけを買っていたらこうなってしまった。
出版社、文庫名、作者名……。ゆっくりとその本の在処を突き詰めていったその先に、さんはいた。彼女は私の目の前で本を2冊、棚から抜き去っていった。
ああ、と声が出そうになった。彼女が持ち去って行ってしまったのは、私が買おうと思っていた物語、その上下巻ともだったからだ。彼女が去った後、私もその棚に近づく。なくなっていた。お店の人に在庫を確かめてもらったが、あの本は先ほど彼女のものになったあの2冊しかないようだった。
「取り寄せは……」
「在庫確認の電話をしたいのですが、今日はもう遅くて出版社の方も閉まってしまったのでまた明日になってしまいます」
「そうですか……。また来ます……」
いいさいいさ。私は古本屋を当たってみるから。古本でも風情を感じられる本が私は好きだし、あわよくば初版本などに会えるかもしれないしな。心の中でそう笑い飛ばしたが、私の胃の中居座っているのは明らかに落胆だった。
欲しいものが買えなかったのもそうだが、私の腹ににどげりのように食い込んだのはもう一つの事実。彼女は図書館で下巻を借りることなく、さっさと新品の本を買ってしまったということだ。せっかく気づいたその日のうちに返却したというのに。無駄な気を回してしまった。
古本屋で見つからなかったらまたミオ図書館で借りよう。彼女が持っていかなかったなら、今もあそこにあるはずだから。
店に来てからまだ口をつけていなかったコーヒーを煽る。が、うまく喉を流れていってくれない。はぁ、と重いため息が口をついた。
いや、彼女が購入を決めるほど気に入ってくれたのだから良しとしようではないか。私の好きな物語がまた一人多くの人に認知されたわけだ。当初の願いが叶ったのではないか。喜ぼう。
ふてくされた私のななめ向かいの席に座ったのは渦中の人、さんだった。本日二度目というのは希にあるパターンだ。少し驚いたが片手にはあの本屋の袋があって少し冷めた気持ちになってしまう。
彼女は頬を上気させた様子だった。包みを向かいのイスに優しく鎮座させ、コーヒーを机の上に置くとすぐに鞄を漁り出す。
取り出したのは天の部分にミオ図書館所蔵の印を押された文庫本だった。しかも下巻である。私が即座に返却した、下巻。
彼女はパラパラと駆け足にページを捲っていく。その目は展開を必死に追うものではない、気に入った、美味しいところだけを探し求める穏やかなものだった。きっともうラストまで読み終えたのだろう。買った上にこうして読み返しているのだから、相当に気に入ってくれたのに違いない。
ふ、と鼻から笑みが抜けていく。贅沢な人だ。私が求めるものを独り占めして。
彼女が持っているならミオ図書館の蔵書にも無いということだ。いいさいいさ。待つ時間が愛しさを高めるんだから。探し求めることで気持ちは募るものだから。私はその気持ちと付き合おう。
活字を追い続ける彼女を置いて私は店を出た。
「お客さん」
声をかけられては弾かれたように顔を上げた。ふくよかで目尻に少し皺の寄った女性店員がを見ている。
「は、はい」
「ごめんなさいね、8時半で当店のご飲食スペースは終了となります」
「あ、もうそんな時間ですか」
時計を見るとまもなく店員の告げる時刻になる。もう読み終わっているというのに自分は、時間を忘れて読みふけってしまったようだ。焦って本をしまい、カバンを取る。
「すみませんでした。ありがとうございます、もう出ます」
「それとね、お節介かもしれませんが」
彼女はそこで一旦言葉を切る。続きを告げることを迷っているようだった。
がどうかしましたか、と聞くと彼女は口を割った。
「あなたをじろじろ見てる男がいましたよ」
「え……?」
「それも一回じゃないの。何回もよ。あなた気づいてらした?」
「まさか。わたしを、ですか?」
「そうなのよ。お若いんだし気をつけるに越したことはないわ、自意識過剰と思わないで気をつけて、少し周りを意識してみてちょうだい」
それからその店員はに男の特徴を告げた。
少し長い黒髪で長身。しっかりとした体付きだけれど、けして太ってはいない。痩せ型。青いジャケットに中に黒いタートルネック。黒い帽子をいつも被っている。多分トレーナーよ、腰にモンスターボールがあったから。店員は最後にそう付け加えた。
「怖がらせてごめんなさい。あたしもね、悪い人には見えなかったんだけれど、何かあってからでは遅いから。人は見かけによらないって言うしね。思い過ごしや誤解だったらごめんなさいね」
「いえ……、ありがとうございます」