私は早く気づくべきだった。日々の変化に。私と彼女の距離が今まで以上近くなっていることに。
同じ地方で暮らしていた、同じくバトルフロンティアに通う者同士だった、日々すれ違っていた、バトルフロンティアでない場所で会うこともあった、同じ物語を好きになった、彼女が必要となるものを持ち合わせるようになった。そして。
「あの」
目が後ろについているという訳では無いが、その声が彼女から私へ向けられたものであることは瞬時に分かった。わたしの近くを通りかかる彼女の気配というものは、馴染みを覚えながらも注意すべき対象だった。もう覚えてしまった声。足音のリズム。呼吸。たまに髪の毛が揺れる音まで拾える人。間違いなくという人だ。
「すみません、あの。そこの……」
視線が私の背へ刺さっているのが分かる。隣に座っても気づかなかった彼女が私を見つけたというのがまず驚きだった。
すぐに良くない予感が走った。
私の勘というのはそれなりに当たる。当たるというより、予感を無視して良いことがあった試しが無いのだ。
私は聞こえなかったフリをして、足を進めた。
「ゲンさん!」
なぜ、彼女が私の名前を。
しまった、と思った時にはもう振り返っていた。彼女の顔が安心したように綻んでいる。まっすぐに私を目指して、そして目の前で止まる。呼吸を忘れている私の、目の前で。
「突然すみません」
「なぜ、私の名前を……?」
「やっぱりゲンさんと言うんですね。勝手にすみません、あなたを知ってる人からお名前を聞いたんです」
どうやら本当に私の名を知っていたわけではないらしい。私は一種のかまかけに引っかかったらしい。
無意識に帽子の鍔を触ってしまう。
「あ、わたし、と申します。ここのバトルキャッスルで働いています、以前はありがとうございました」
その以前がいつを指しているか分からなかった。バトルタワーで会ったときのことか、ミオ図書館の件か、それとも。
私が彼女を意識してきた時間と、彼女が私を知る時間にはかなりの差があった。私はいつも彼女に気づくが、彼女は全く無邪気に私の近いところを過ぎて行く。それが“いつも”だった。
「お忙しいところすみません、ちょっと、個人的なことなのですがお願いしたいことがありまして」
「すみません、私は忙しいので」
彼女が親しげに話しかけてきたところ申し訳ないが、逃げよう。そう思った。
私の勘は未だ警告の色を発している。他人行儀に会釈をし、私は背を向けようとすると彼女は悲しげな顔をする。小さな体が詰め寄ってきた。
「あの、ちょっとだけで良いんです」
逃げきれないのは分かっていた。たとえ今日振り切ったとしても、私はどこでだってこの人に会ってしまう。
早く気づくべきだった。私と彼女は徐々に近づいて来ている。
偶然同じ時代に生まれた。偶然同じ地方で暮らし、偶然同じ場所に通うようになった。と思えば、彼女の存在は偶然で片づけられないほど急激に私と距離を詰めてきた。彼女の情報が耳に入るようになった、彼女とすれ違うようになった、彼女が助けを求める場面に居るようになった。
今まで、彼女に会おうとか会いたいだとか思ったことは一度も無かったのに。私の願いを無視して、私は彼女にどんどん絡めとられていく。
「……すみません、また後でお願いします」
「いえ、そこまでのことじゃ無いんです。ほんとにちょっとのお願いが」
「すまない」
私は早口に店名を告げて、強引に去った。
少し、受け入れるための時間が欲しかった。
彼女が仕事を終える時間はだいたい分かっていたけれど、私は早々に待ち合わせの店に入った。バトルに身が入らないのは分かっていたので、夕方までの時間を大人しく自分を落ち着けるために時間を使うことにした。
深いため息が出る。私は落ち込んでいた。
無邪気に親切さを振りまく前に早く気づくべきだった。同じ物語の上下巻を持ち合わせた時は「ああ、そんなこともあるんだなぁ」と暢気に考えていたが、あの辺りで警戒するだけの材料は揃っていたように思う。偶然を偶然だと笑っているうちに、彼女との関係は順当に進んでいたのだ。
後悔に浸っているうちに陽は暮れて、無邪気な呪いは気まずそうに私の向かいへ座った。
「すみません、お待たせしました」
「……お疲れさまです」
「いえ、そんな」
不思議な心地がした。散々近づきながらも、こうして対面するのは初めてのことだった。そしてアーロンの記憶の中にも、こうして自主的に向かい合ってくるという人は居なかったから。
指先は冷えきっている。私は腹をくくった。
「それで、私にどんな用が」
「あ、あの……、本当に大したことじゃ無いんですが」
「はい」
「たまにはバトルキャッスルへ来てくださいね、と言うつもりでした」
「………」
「すみません、それだけなんです」
絶句した。知人から私の名を聞いて、あんなにも強く引き留めたのだから何かと思えば、中身はなんてことない、ただの勧誘だったのだ。
「すみません、すみません……。わたしがもっと、軽い感じで声をかければ良かったんですよね、すみません」
言葉にしないが内心で頷いた。
「すみません……」
「いや……、私もすまなかった……」
彼女が訴えるような表情をしていたから相応の話があるんだろうと思っていた。こんなことならあの場で話を聞いて軽く流せばそれで済んだというのに、こうしてさんと対面の機会を私はわざわざ用意してしまったらしい。
ちょっとした悲劇だ。私が身構えたがために、ここまで出向くことになった彼女も合わせて悲劇だ。
「どうしてそれを私に?」
「それは、バトルキャッスルに来て貰いたいから、ですね」
身も蓋も無い。
勧誘の一言には多すぎる量のコーヒーが、私達を座席へ縫いつけていた。
ため息はこらえた。ただ息を吐くごとに腹にためた力が抜け出ていった。
「……私は攻撃を畳みかけるような、タイプで言うとアタッカーとなるポケモンをよく育てる傾向にあるのですが」
「は、はい」
「そんな私でもバトルキャッスルはまともに戦えるだろうか?」
私もヘマをしてしまって情けない気持ちだが、彼女もまた可哀想だ。そう思って話を振ってしまった。
こうやって中途半端に優しくするから、私はこうして彼女に名前を知られるまで来てしまったんだろうな。今日の出来事は、女性をぞんざいに出来ない私の自業自得なのだろう。
「っはい、大丈夫です。キャッスルポイントをやりくりすると聞いて、難しい印象を抱かれる方がいらっしゃいます。けど、わたしはポイントの使い方によって自分のポケモンの戦い方を伸ばして作り上げていくことが可能だと、考えて貰いたいんです。なので是非、いらしてくださいね」
「そうですか」
「は、はい……」
気軽に分かりました、行きますとは言えず、私は曖昧に笑った。
「……あ」
向かい側から見られていると思ったらさんは小さく声を上げた。小さく漏れた声は何かにひらめいた時の色をしていた。
「すみません、思い出しました。ゲンさんの顔、どこかで見たことあると思っていたんですが」
本日二度目のひやりとした瞬間だったが、彼女は事も無げに続ける。
「バトルタワーで一度、助けられていたんですね。ゲンさんは覚えてないと思いますが」
「いや、覚えている。貴女がたまたまバトルタワーにいた時のことですよね」
「そ、それです。全く気づいていなくてすみません。となると、バトルタワー、忘れ物のこと、景品所、なので今まで3回もお世話になっているんですね」
私との接点を指折り数えて彼女は微笑む。また私は曖昧に笑う。私がこの人の近くにいた瞬間は3回どころじゃない。けれど、彼女はそれを知ることなく私の葛藤も知らず、今日目の前に座っている。ますます己が滑稽に思えた。
「具合でも悪いんですか?」
「そんなことは。顔色でも悪いだろうか?」
「いえ。分かりません。まだゲンさんを知ったばかりですから。でも難しい顔をされているな、と」
「少しだけ、悩み事が」
「ああ、悩み事ですか、……」
しばらく黙った後、さんは恐る恐るといった風に口を開いた。
「悩み事って一人で抱えがちで、実際他人が悩んでいる気持ちを分かりきることは出来ないんですが。ゲンさんの悩みはきっと、たった一人で抱え続けなければいけないものじゃないと思います。そうじゃなければ良いなと、思います」
「………」
「わたしの、経験上のお話です」
今日で会うのが4回目の他人として、さんはそう言うまでに留めた。