彼女、さんはそう悪い人じゃない。むしろこの世で平和に暮らす、至って善良な人だ。ただ私には戸惑う理由があるだけで。
「ゲンさん」
バトルキャッスルの受付を終え、通された先で、私は見事さんに当たった。相変わらず、見えない糸で手繰り寄せられたかのような的中率である。
「こんにちは。一度だけ、試してみようかと」
「あ、あの! 来てくれてありがとうございます……!」
「いえ」
私は帽子を一瞬取って挨拶をした。
彼女も豪華絢爛の廊下を背景にキャッスル式の仰々しい礼をした。
「なんだかかしこまった場所ですね、あまり落ち着かない」
「そうですね、わたしも気恥ずかしいです。普段の姿を知られていると特に」
「それで私はどうすれば?」
「はい、ご案内いたします」
さんは私からボールを受け取ると専用の台座に乗せた。よく慣れ、指先まで洗練された手つきだ。初めて見る業務中の彼女は普段よりも凛々しかった。
「ゲンさんは攻撃に秀でたいわゆるアタッカーとなるポケモンが多いんでしたよね。でしたらやっぱり長所を伸ばして生かしましょう」
そう言って彼女が提示したカードは純粋な手持ちの強化だった。今日はお試しだ。私は彼女の提案を鵜呑みにした。
「じゃあそれで」
「かしこまりました。……お待たせいたしました。それでは、いってらっしゃいませ。ご健闘を」
彼女は手続きを終えるとスカートの裾をつかんでのお辞儀という、また過去の人間と重なるようなことを繰り返した。
バトルフロンティア序盤に集うは烏合の衆。それはこのバトルキャッスルでも同じようだ。私は難なく第一戦を終えた。
さんはボールの中のポケモンに何を施したのだろう。出てきたポケモンは相手のポケモンと明らかに力の格差があった。その分相手は持ち物を得ていた。
「キャッスルポイントを使った戦略、か」
能力や立ち回りだけの勝負じゃない、ここでしか通用しないルールを用いたポケモンバトルとは。私はまだ、この施設の神髄に触れられていない。
お試しのつもりが早くも手応えを求め始めているのだから、やはり私にはバトル好きの血が巡っているのだろう。
一周するまでにさんにもう少し話を聞こうと決めて待機用の部屋に戻ったのがだ、そこにさんはいなかった。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ」
別の係員になっていた。同じ服装の女性が笑みを浮かべて待っていた。
「ポケモンを回復いたします」
係りの人間はローテーションで回ってくるのかとも思ったが、終日私の担当は彼女。さんは戻って来なかった。
その日の夕方。彼女はピジョットに引きずられるようにして道の向こうから現れた。ピジョットを見やると黒に澄み切った光が映り込んだ瞳とピタリと目が合った。
「あ、ゲンさん」
名前を呼ばれると、肩が揺れてしまう。そうか、もはやこういう段階なのか。
さんとすれ違うことに対してはすでに諦めた私だが、彼女から声をかけられ捕まってしまうのは未だ慣れない。
「よく会いますね」
今更なことを言ってさんは近づいてきた。
「今日は来てくださってありがとうございました。初めてのバトルキャッスル、いかがでしたか?」
「冷や冷やしましたがなんとか一周、クリアしました」
「本当になんとか、でしたか? 余裕だったって聞きましたよ」
「誰から?」
「わたしの後にゲンさんのお手伝いをした人間がいましたよね? 彼女です」
「ああ。皆さんでそういう挑戦者の話とかされるんですか」
「しますよ。腕の立つトレーナーさんはそれだけで話題になります。施設側の人間もバトルが好きな人間ばかりですから」
それもそうか。ここはシンオウ中、いや世界中の腕を試したいトレーナーの集まるバトルフロンティアなのだ。
「あ、でもあまり人には言わないでくださいね。みんな悪意は無いんですが、噂ってそれ自体あまり良いことじゃありませんし」
「バトルキャッスルだとああいう風に人がついてくれるんですね。他の施設よりすごく丁寧だと思いました」
「はい。トレーナーさんのコンディションを支えますと、不思議とバトルの雰囲気も変わってくるんですよ。バトルキャッスルのルールも独特ですが、トレーナーさんに100パーセントの実力を発揮していただきたいですからね」
「はあ」
「彼女、わたしから引き継いでゲンさんの担当になった人。あの人、わたしの同僚です。よく気が利くでしょう」
「そう、ですね」
「とても優秀なんですよ」
聞きながら私はやはりバトルタワーが肌に合うなと考えていた。彼女たちに丁寧に世話されて気持ちよくなる男も居るだろうが、私は出来る限り自分のことは自分でしたい質だった。
「またバトルキャッスルに来てくださいますか?」
「それは、分かりません」
こういうところで私というものは社交辞令が言えない。また行きますよ、なんて言って後でそれが嘘になると思うと気が引けてしまうのだった。
「すみません。キャッスルにはキャッスルの癖がある。今までバトルタワーに専念して来ましたから、また行くことがあるとすれば私は1から戦略を練ってからです」
「そう、ですよね」
「えっと、行ってみて良かったです。今日はありがとうございました。良い体験が出来た」
私が小さく頭を下げると彼女はふるふると頭を振った。
「こちらこそ。ありがとうございました」
言葉のシンプルさと、表情から溢れたものが、全く釣りあっていない。なぜここまで笑顔になれるのだろうと、不思議に思ってしまう。そんな表情をさんはした。
底抜けに親切なタイプなのだろうか。無邪気なんだろうか。普段からよく笑うのだろうか。私は彼女の笑顔に勘ぐりを巡らせた。さんの笑顔は嘘では無かったが、あまりにあらゆる感情に溢れていたことが、私の記憶に焼き付いた。
真の理由を知るのは、その半月後だ。
彼女が私を認識したことが大きかったのだろう。さんは私を見つけると必ず挨拶をするようになったし、通りがかりの見知らぬ男では無く、ゲンという名のトレーナーとして接してくれるようになっていた。
私を見つけると花開いたように笑うのだから、懐かれているのだと思った。
「本当によく会いますね」
それがさんの口癖だった。今まで横に座っていても後を追いかける形になっても、私が前を歩いていても、気づかなかったというのに。調子の良い人だ。よく会いますねと微笑まれる度に私は内心で苦笑いを繰り返している。
さんはパートナーのピジョットの話、同僚や友人の話をちらりちらりとよくこぼす。私は無視など大人げないことはしなかったが、代わりに常に無難な相づちをした。話の続きを聞いたり、深入りなどは絶対にしなかった。
なんとなく、さんが自分の話をほとんどしないことには気づいていた。
「ゲンさん、これを。受け取ってください」
彼女が取り出したのは手紙だった。厚口の紙にレースの模様が押された、可憐な手紙だった。あまり戸惑うことなく受け取ったのは、ほぼ直感で、さんの書いたものでないことを悟ったからだ。そして彼女の持ち物がまとう雰囲気をすぐに感じ分けられる自分に驚いた。
「貴女からの手紙ではありませんね」
「はい。私の、同僚です」
それとなく中身は察しがつく。その手紙は丸さの無い私の手に包まれると、内に秘めたものの壊れ易さが際だった。
「ゲンさん、私の同僚と会ってくれませんか?」
私は想い想われといった出来事に長けている方では無いが、何が待ち受けているのかは分かった。
「その方は」
「はい」
「私がバトルキャッスルに行った日、貴女の後に私についてくれた方ですか」
「そうです。この手紙を書いたのは彼女です」
さんの願うような声を聞いて、私は眉が自然と寄っていくのを感じていた。
彼女が私を強引に引き留めた理由、私の名前を知っていた理由、バトルキャッスルの感想に合わせて同僚のことを口にした理由。見知らぬ私へあまりに多くの感情を溢れさせた理由。いろんな要素が一つなぎに繋がっていった。
「……分かりました。ありがとうございます。これの返事は貴女ではなく、この手紙をくれた方に直接伝えたい」
「はい」
「なので、近い内に会わせて貰いたい」
「はい、よろしくお願いします」
私を縛る善良な人は、私が手紙を胸ポケットにしまったのを見届けると、深く頭を下げて去っていった。
その後、手紙の差出人と私は一度だけ会うことがあった。私を見ていることしか出来なかったという彼女は、望みが薄いと分かっているようだった。暗い面もちで、涙ながらに一目見た瞬間から私が好きであるということを言った。
「あ。ゲンさん」
声をかけられて私は、やあ、とだけ返事をする。
「今日はクロツグさん、お休みですよ。息子さんとの時間を過ごされるそうです」
「ここの方は皆そういう情報を共有しているのか?」
「それは……、どうでしょう……? わたしも今回たまたま知っているだけなので」
同僚の話、友人の話はもうされない。ひとつの恋を費やして、今までより近づいた、私とさんが残された。
「貴女は意外と情報通だ」
「いつも話を聞く側なんです。自分のことが上手く言えないから」
さん。至って無害な、この世に生きる一人の人間。けれど私には戸惑う理由がある。
彼女と私を結びつけたひとつの恋心はもしかすると。その続きは、ただの邪推に過ぎない。