ムックルのはばたく音。湖面を風が滑る音。木々が空へ手を降る音。シンジ湖を満たす静寂という音の中、私は目をつぶる。


「ルカリオ。気持ちがいいな」


 はい、という返事が響く。
 バトルエリア周辺で少し財布に余裕を持たせた私はシンジ湖への小旅行を決めた。ミオから近かったのもあるが、生命の眠るような静けさを持ったシンジ湖から神聖さを私は感じており、かねてからお気に入りの場所であった。

 昼寝をするには少し肌寒いが、冷たい風を受けて体が自発的にとくとくと脈打ち、自らを熱し始めていた。深く呼吸をすると体の中まで洗われるようだ。

 こんな、自由気ままな時間を過ごしているとますます独りは生き易いという考えが凝り固まってしまいそうだ。
 自分と自分についてくれるポケモンたちだけの生活が私は今でもとことん気に入っている。しかしこれ以上独り好きになってはまずいなと内心思っているのだが、私を人々の元へ引き留める存在は未だ現れない。


「責任だとかが果たせないというわけではないんだがな」
『何の話ですか』
「今の時間がとても好きだという話だ」
『私もです』


 こういう時の話し相手となると、私はなんだかんだとルカリオを選んでしまう。彼の実直な心持ちが私にはこの湖のように気持ちよく感じてしまうのだ。彼もまた私の心を洗う存在だった。


「具体的な旅の計画は何も無いんだが。……このまま、シンオウのみっつの湖を巡るというのはどうだろう」
『旅ですか』
「シンジ湖はまだしもエイチ湖まで行くのは骨が折れるだろうが」
『……旅はしたいです。私はゲン様と世界の隅々まで見て旅をしたい』


 嬉しい答えにルカリオを見ればその赤い瞳と通じ合う。互いに微笑み合ったが、しかし、とルカリオは続けた。


『しかし私は、今起こりつつある事からゲン様が逃げる必要は無いと思うのです。逃げずともゲン様あなたなら、答えを手に入れられるはずです』


 ルカリオからの励ましの言葉に心動かされながらも私は自分自身が腹立たしかった。


「……おまえの目に映る私は情けない主人だったか」
『いいえ。ゲン様の苦悩は簡単に分かちあえるものではありません。人に言えないその苦しみを抱えるあなたを、誰も情けないとは思わない!』


 簡単に分かちあえない、人に言えない。その言葉が私へ刺さる。
 言えば信頼を損なうような私の事情、他者に伝えたとしても理解を得られないであろう私の思想。私が過ごしてきた今までとは常に、そういった自分と人々の距離、二つの折り合いを探すことの連続だった。
 そして小さな背格好が思い出される。妙に近くをすり抜けていった、あの笑顔が私の目の前をちらついた。

 その時、第三者の気配は私たちの横の茂みから現れた。辺りの木の葉を揺らしこちらに近づいてくる。
 茂みの向こうにいる者の姿は見えないが、目をつぶって波導を見ていたルカリオは気を緩めた。敵では無いのだろう。私もなんともなしに目をつぶると、すぐに正体が分かった。つい数日前に親しんだ気配だった。


「ピジョットか」
『はい』


 小さくため息を吐きながら立ち上がる。予想通りに茂みから姿を現したのはあのピジョットだった。
 予想外だったのは、ピジョットが運んできたことだった。くちばしに絡めた女性物のカバンと、それを追うさんを。


「あ、ゲンさん! すごい偶然ですね!」


 この空気の冷たいシンジ湖においてさんは汗だくになっていた。
 ピジョットのくちばしに絡まったカバンヒモ。困った様子のさん。察するにピジョットに荷物を奪われたように見える。


「大丈夫ですか」
「すすみません、大丈夫です!」


 こら、ピジョット返しなさい、引っ張らないで。どうしてそういうことをするの。ね、いい子だから。どうにかなだめすかそうと言葉をかけるさんだが、ピジョットは気にも止めず私の元へ近寄ってくる。


「ピジョット。主人を困らせてどうする」
「あの、ゲンさん。大丈夫ですから。わたし、何とかできます」
さんこそ心配しないでください。――ピジョット。私が今まで黙っていたのはあくまで主人に内緒で私のもとへ来ているのだろうと思っていたからだ。でもこれはやりすぎに見える」


 彼女だってトレーナーだ。カバンの中には大事なものから人が扱わなければならないものも当然入っているだろう。
 さんの身長では背伸びをしないとカバンに手が届かない程度の高さで持っている辺り確信犯なのだろう。


「おまえは賢い。さんにカバンを返せるな」


 少し声を落として言い聞かせると、ピジョットはカバンを彼女の手の届く範囲まで下げた。さん、と呼びかけると呆然としてた彼女はハッと意識を取り戻す。恐る恐る近づいて、ピジョットからカバンを取り戻した。


「あ、ありがとうございます……。さすが、フロンティアに通う腕前の、トレーナーさんです、ね……」
「どうしたんですか?」


 カバンを取り戻したはずなのに彼女の声は暗い。暗いどころか言葉が途切れ途切れだった。具合が悪いのだろうか。うつむいてしまった彼女の顔をのぞき込んでから、私はうろたえた。


、さん?」


 彼女は泣いていた。房になって実る果実にような、大粒の涙をこぼしながら彼女はか細い声でこう言った。


「ピジョットを、盗らないで……っ」







 シンジ湖から一番近い店を探して入ったそこは、古ぼけた食事どころ。使い古し角がすっかり丸くなった焦げ茶色の木の机とイス。加湿用のヤカンがストーブの上でしゅうしゅうと息を吐いていた。無骨だが、私の好きなタイプの店であった。
 出てきた食事に手はつけないものの、さんは今は落ち着いた様子だ。先ほど彼女を困らせたピジョットは今は従順になり、彼女の横で羽を休めている。


「これだけは分かって欲しいのだが、私は貴女のポケモンを盗ったりしない。人のポケモンを盗ったら泥棒だ」
「そう、ですよね。すみません、わたし、気が動転していたんです。本当、いきなり泣いたりして。失礼しました……」
「大丈夫。分かっているよ」


 まだ少し腫れている目が悲しげに伏せられた。自分を責めているようだった。こらえるように出されたお茶を一口飲んでから、さんはぽつりぽつりと語り出す。


「最近ピジョットが抜け出しているのには気づいていました。ゲンさんに、お世話になっていたんですね」
「ええ、まあ」
「元々あまり私の指示を聞かない子なんです」
「まさか、誰かから貰ったポケモンということは……」


 その誰か。私の頭に浮かぶのはアーロンだ。心揺らす私とは反対に、さんはごく自然に首を横に振る。


「いいえ。この子は近所にいた野生のポッポでした。子供の頃すごく懐かれて、毎日足下に寄ってくるので、親に勧められてわたしがトレーナーになりました」


 ピジョット、もといポッポのことを語り始めたさんの赤い目は少し穏やかになり、遠い光景を見つめるようになる。


「小さい頃はすごく好戦的で。ボールから抜け出すことはしょっちゅう。野生のポケモン、トレーナー、誰彼かまわずポッポの方からバトルを仕掛けてしまうんです。わたしの手持ちのお金が無いのにどんどんバトルに持ち込むので本当に毎日冷や冷やしていました……」


 でもポッポはちゃんと勝ってくれるんですけどね。困り顔ながら愛しげに横にたたずむピジョットの羽を撫でた。


「無事にピジョットに進化を遂げてからは満足したのか、かなり落ち着いていたんですが……。わたしが『ピジョットに乗って空を飛ぶにはバッジが必要だ』と教えると、今度はジム巡りの旅に……」
「ピジョット自ら? 貴女を連れ出した?」
「はい。本当に昔から賢くて、我が強くて。何を考えているのかよく分からなくて。トレーナーを必要としていないみたいに強い。なのに、わたしの傍にいてくれるのが本当に不思議です。最近わたしは、ピジョットをプレゼントみたく感じています」
「プレゼント?」
「はい。神様からの贈り物みたいだな、と」


 言うことを聞かないことは多々あるというのに、実力の伴わないトレーナーの横を離れずにしっかりとついているピジョット。身にそぐわない存在を、贈り物だと表現するのは女性らしい考え方だと思うが私もそうかもしれない、と少しだけ思う。また、同じくピジョットを使役していた男の記憶が浮かび上がってくる。


「野生の頃に出会ったのは嘘じゃないんですけど、ゲンさんの目にもいただいたポケモンのように見えたみたいですね。わたしもそうじゃないかと思う時がよくあります」
「それで、盗らないで、と」
「はい……。すみません、思わず出てしまったんです」
「いえ」


 再び頭を下げだしたさんをなだめる。当のピジョットは素知らぬ顔で、彼女の横でたたずまいは堂々としたものだ。


「まず、貴女はピジョットが何を考えているか分からないと言ったが、その辺りはあまり深刻に考えなくても良いだろう。きっと、主人を守りたいんじゃないかな」
「守りたい……?」
「私はそう感じた。もちろん私の勝手な考えだが」


 一口お茶を啜る。先ほどまでうなだれていた彼女は、意外にも興味津々な様子だ。


「続き、聞きますか?」
「っはい、ぜひっ」


 まさか尊敬のまなざしを向けられるとは思わなかった。私にピジョットのことを教えてほしいと彼女の目は語っている。私を苛む事象を知らずに偶然ですねと声をかけてきては、世間話をして。無邪気な人だと思っていたが、彼女が私に向けている感情を今初めて知ったのだ。トレーナーとしての尊敬。彼女はそういう風に自分を見ていたのかと思うと新鮮な気持ちがした。


「……ポケモンにも様々な戦う理由があるが、強くなって何かを守られるようになりたいと思うのはとても自然な理由だ。先ほどピジョットに進化した後、好戦的な面が落ち着いたと言っていましたよね。進化は一定のレベルに成長をしないと訪れない。最終進化を終えて、ピジョットは自分がある程度のレベルに達したことを実感したのではないだろうか」
「確かに、わたしの周りでは一目おかれるくらいにピジョットは強くなりました。トレーナーはへっぽこなのに、とよく言われましたが」


 そこが問題なのだ。私はさんに向き直る。


「意志が強く、賢い。良いピジョットです」
「あ、ありがとうございます」
「でも、貴女がちゃんと制御しないとゆくゆくは何かしらの事故が起きてしまう。ボールを抜け出てしまうのは本当に良くない」
「おっしゃる通りです……」
「ピジョットに貴女の力を分からせ、きちんとした信頼関係を築かなくてはならない」
「力を分からせる、ですか……。でもわたしは実際にトレーナーとしての腕前は本当に無いんです」
「腕前は磨いていけば良い。貴女には知識があるはずだ。そして貴女は努力のできる人だ」


 私はその点においては彼女をよく知っていた。
 モミさんというトレーナーから本を借りて勉強をしていた。見知らぬ人の噂から聞く彼女の評価はいつも「まじめ」だった。バトルキャッスルで私の担当したさんは落ち着いて初心者の私をリードしたのも、勉強と経験のたまものだろう。
 もちろんピジョットへの愛情も足りている。


「でも……」
「でもじゃない。貴女はいざという時ピジョットを守りたくないのか」


 一瞬で、彼女の顔つきが変わった。


「トレーナーは力を貸して貰うだけの存在じゃない。パートナーとなったポケモン育て、守ることができるのはトレーナーだ」


 ピジョットのことを語る毎に彼女の目の色が変わっていく。当然自信はついてこないようだが、やらなければ、というやる気と責任感が宿ったように私には見えた。
 そうきっと、ピジョットに引きずられるままの彼女は知らなかったのだ。旅を通していくことで知る、トレーナーの役割を。


「ピジョットにいつまでも責任を負わせてはいけない。それはいつか貴女でもなく、周りの人間でもない。他ならぬピジョットを傷つけることに繋がる。だから貴女は今のうちにしっかりとピジョットとの関係を見直すんだ」
「……、分かりました」
「はっきりとした返事をください。やりますよね?」
「……はい!」


 力強い彼女の決意の声。それは、記憶の中のあの人を含め、初めて聞いた声色だったように思う。


「……って、返事をしたのは良いのですが、わたしにできるでしょうか……。どうやって」
「ああそれは」


 ルカリオ。申し訳ないが、三つの湖を目指す旅はまた自由を得たらにしよう。
 私は苦笑いとその言葉を吐き出した。


「私が教えます」