バトルフロンティアほど近くのお店。ここで仕事終わりのさんを意図的に待ったのは始めてのことだ。さんを待ちかまえる心境は意外に穏やかだった。一杯のコーヒーを飲み終え、今口は何も必要としていない。静かな呼吸だけで私は落ち着いていられた。

 さんとピジョット。一組のトレーナーを見てやることになってから早くも一週間が経った。自分に人に何か教えるにふさわしい実力があるとは思えないが、それ以上にさんとピジョットは放っておけない一人と一匹だった。
 目的を持って彼女と接すると、日々はまた違った表情を見せたのだった。同じくさんとの接触を避けられない日々とは言え、少なくとも、私を日常への違和感は薄れた。



「ゲンさん! お待たせいたしました」


 考えふけっているうちにバトルキャッスルから上がり、いつもの私服に身を包んださんが現れた。


「お疲れさまです」


 偶然ですね、と言わない彼女も珍しいと思いながら机の上にスペースを空ける。
 さんは向かいの席に座り、店員に「この方と同じものをお願いします」と手早く注文を済ませる。
 私もすかさず「すみません、私ももう一杯」とつけ加えた。


「渡した本は全て読めましたか」
「はい」
「何か分からない部分は」
「いいえ。大丈夫です、恐らく。基本的なことばかりでしたから」


 シンジ湖で彼女たちの手助けを名乗り出た後、まず私がしたことは現状の確認だった。彼女からさらに話を聞き、顔をつきあわせて図鑑をのぞき込みながら情報を示し合わせた。
 さすがにバトルキャッスルでの職歴があるからか、全くの素人というわけでは無かったが、話だけでは彼女の知識の程が分からない。なので次に私は数冊の本を付箋を貼った上で渡したのだった。


「基礎ばかりで退屈したでしょう」
「そんなことありません。基礎は大事です」
「そう、単純に思える部分が一番大事だったりする。それに基礎部分が全て揃っていることだけでずいぶん変わってくるはずです」
「……はい!」
「じゃあピジョットの覚えるとされる技、全て言ってみてください」
「はい! って、え……!」


 なきごえ、つつく、すなかけ……。彼女がプレッシャーに顔を赤くしながら暗記した部分を必死に挙げていくのを聞きながら、私はやがて運ばれてきた二杯のコーヒーを受け取った。


「……で、遺伝して覚えるとされている技は以上です」
「花まるです。やはりあなたはやればできる人だ」
「そんな……」
「遺伝技などはいつ必要になるかも分かりませんが、自分のポケモンを知っておくに越したことはない。自分をよく理解されると嬉しいのは人間も同じです」
「そうですね。ゲンさんのおっしゃる通りです」


 これで少なくとも知識の面で足りないということはなさそうだ。むしろひこうタイプのポケモンのケアなどはよく知っている方だ。バトルキャッスル勤めなのも伊達じゃない。複雑な複合タイプ同士の相性、例えばグレッグルやドラピオンについてもよく知っている。
 あと彼女側に補うものがあるとすれば、それは。


「やっぱり実戦経験、ですか」
「ええ。これまでのジム巡りやバトルの課程で主導権を握りきれなかったようなので。そこが最大の課題だ」
「ですよね……」
「知識はあるのにもったいない」
「それにキャッスルでたくさんのトレーナーさんのバトルを見てきたはずなんですが。いざ自分がと思うと、上手にできないんです。バトルは苦手です」


 でしょうね、と内心で呟く。バトルが苦手。それはさんの外見に何ら反していなかった。端から見ても、決してさんはノリノリでバトルを繰り広げる人には見えない。
 先行きを暗じ、さんの表情がかげる。


「これからバトルの練習になるんでしょうか」
「いや。それはしません。もし望むならお相手はいたしますが、あなたが望んでいるのはバトルで強くなることではなさそうなので」
「はい。わたしはただ、ピジョットを大切にしたんです」


 淀みなく、さんはそう言い切った。


「……私にはその感覚があまり分かりません。もちろんポケモンを大事にしたい気持ちは持っている。けれどただ大切にするだけでは、ポケモンの本当の気持ちは分からないというのが私の持論だ」
「………」
「ポケモンと同じ目的を持つこと、力を合わせることで、私と彼らはより心が通じ合う。そんな経験を重ねてきました」


 私がトレーナーとして生計をたてる一番の理由はそこにあった。
 ポケモンたちと同じ目的を持つことで、彼らとの繋がりを感じられるのだ。

 得意だから。バトルが好きだから。それ以上にわたしはポケモンとバトルを通じ心通わす瞬間に他では味わえない、おそらく幸せを感じているのだ。


「だからそれをしないのが、少し、もったいなく感じられます」
「その部分は……、自分でも不思議です」


 今度、さんは目の中の光を揺らしながら語った。


「わたしも、ピジョットの気持ちを知りたいとは思います。でもそれは一番大切なことではありません。
何より大切なのは、わたしの隣にいてくれるこの子を守ること。そう思ってしまうんです、……」

「続けて」

「……今まではバトルなどはこの子の自由に任せていましたが、ピジョットを守るためにはそれじゃいけないんですよね。ゲンさんが教えてくれました。だからわたしも、もっとトレーナーとしてしっかりしなきゃ、と今は思っています。ピジョットを守るため、と思えば頑張れます!
……あ、でも、ゲンさんが言うにはピジョットはわたしを“守りたい”って思ってくれているかもしれないんですよね。お互いがお互いを守りたいなんて、変ですね」


 変ですね、と言いながらさんはころころと鈴を転がすような声で笑った。そんなピジョットとのすれ違いが全く、嫌では無いようだった。


「ゲンさんは、そういう、ポケモンと人間の関係性だとかも深く考えているんですね」
「考えすぎてしまうだけです」
「でも、新しい視点を教えて貰ったみたいで、わたしはゲンさんの考えを知れてよかったと思っています」
「……今の社会ではトレーナーが、ポケモンをモンスターボールで捕まえるという図式が普通です。ボールで捕まえるという行為には、力関係を明確にしたり、ポケモンにボールという休む場所を与えると同時に主従を結ぶ、言ってみれば契約行為です。先に攻撃を加え、弱らせた状態の方が捕まえやすくなるというのは、力関係の証明とボール内の住み心地の良さを教えること、ふたつを同時に、かつ効果的に行ってい、て……」


 語りすぎただろうか。自分がいつの間にかボールで捕まえることへの解釈とかいう、どうでもいいことをべらべらと、しかも一方的に話していたことに気づき恥ずかしくなる。
 慌てて私は話題の軌道修正を行った。


「……つまり、人間とポケモンの関係で、守るために捕まえるというのは正直珍しいな、と。大抵はポケモンの方が力が強いわけですし」


 言葉を切って向かいの席を見る。するとさんは別段気にした様子がない。話題の中、消化不良も無いようで、平然とした顔をしている。こんなことを急に語られても、この人はいやな顔ひとつせずに聞くらしい。人が出来ているのか、本当に知識面では強いのか。どちらかは分からないが、私はこっそり安堵の息を吐く。


「なるほど。でも、わたしとピジョットの関係で、捕まえたという図式はあまり当てはまらないかと思います。寄り添ってきたのはピジョットの方なんですから。
守るために捕まえたというのも少し違うような気がします。わたしの近くにいてくれる限り、守り通したいな、とは思っています。すみません、トレーナーに不向きな考え方で」
「いいえ。でも、確かにトレーナーらしくない」
「……ピジョットとは何かしらの縁があったんだと思っています。このピジョットとならきっとボールがなくても、一緒にいられるんじゃないかと思う時があるんですよ」


 それは可能だろうな、とわたしは内心で相づちを打つ。
 人間がボールを持ったのは人間の歴史から言えば本当に最近のことだ。また、私はモンスターボールの無かった時代をよく知っていた。


「なんて言いながら、ボールが無い生活なんて想像も出来ないんですけどね」
「私もです」


 本当はこの後、外に出てさんとピジョットの様子を見るつもりだったが、ついつい長話が過ぎ、陽はすっかり暮れていた。外はゴーストタイプのポケモンの領分になってしまっている。


「そろそろにしましょうか」
「はい。遅くまでありがとうございました」
「いえ。さんも遅くまでありがとうございました」


 席から立ち上がると同時に伝票を取ろうとした。が、それは先に彼女の手にしっかりと掴まれていた。


「わたし持ちにさせてください。お世話になっていますから、これくらいは」
「ならお言葉に甘えます。お疲れさまです。では日を改めて」
「えっと、それはいつぐらいになるでしょうか」
「また然るべき時に会えますよ」


 この人と、私はどうせまた巡り会える。約束は要らなかった。





 然るべき時とはその次に訪れた気持ちの良い晴れの日だった。雪を被ったテンガン山がはっきり見えるほど澄み渡った青空の下で、さんは本を読んでいた。どうやら私が貸した本を読みなおしているらしい。紙のカバーがかけられてはいるが、本の天に当たる部分からはみ出した付箋は間違いなく私が貼ったものだった。


「っ、ゲンさん!」
「こんにちは」


 挨拶をすると私を見つけたさんはのどに熱いものを詰まらせたような、そんな表情をした。


「ど、どどうしてなんですか?」
「何がですか?」
「どうして今日わたしが早番だってご存じだったんですか?」
「もちろん知りませんよ」
「約束とかしてないですよね?」
「ええ、偶然です」
「そんな……」
「言ったじゃないですか。また然るべき時に会えますよ、って」
「……信じられません」
「でも実際あり得ましたね。こういうことだってたまにはありますよ」


 実際に起こった。それ以上に説得力のあることは無いと思うのだが、さんは納得が行かないらしい。しきりにくびをひねっている。


「どうしますか? 都合が悪いのなら、またの機会でも良いのですが」
「……お願いします。せっかくの偶然ですし」
「そうですね」


 釈然としない様子ながらもさんがボールを取り、主役で問題のピジョットは呼び出された。


「落ち着いていますね。最近私のところには来ていませんが抜け出した様子は?」
「今のところはまだ一回もありません」
「そうか……。まだピジョットがどう出るかは経過次第ですね。時間をかけて見て行きましょう」
「はい」
「じゃあ今日は……。いつものようにピジョットに乗ってみてくれますか」
「は、はい」


 まずは乗り方。バトルフロンティアを毎日行き帰りしているのだ。きっとさんが一番多くピジョットに接する時間に違いない。私も幾度と滑空するふたりを見てきた。
 彼女がピジョットにまたがる。私はそれを地上からゆっくり観察した。


「いつもこうですか?」
「そう、ですね」


 さんが見せてくれた乗り方は、ピジョットにまたがるというよりはしがみついているように見えた。


「少し力が入りすぎている。腰が引けています。背筋を伸ばして」
「はい」
「手の位置をもっと下にしてあげるんだ。ピジョットの呼吸が楽なように」
「は、はい」


 ひとつひとつ指摘されたように、体を動かすさん。ピジョットの首にしがみつく姿勢だったのが少しずつ、無理のない体勢へ近づいていく。


「まだ力が入っている」
「は、はい……」
「大丈夫。ピジョットの力はあなたが知っているはずだ」
「……っ」


 彼女の姿勢を正そうとする手は、いつの間にか出て、彼女のぬくもる背中へ到達していた。

 すれ違ったことはあった。肩がぶつかったことはあった。指先が、存在をかすめたことはあった。けれど手のひらで彼女を受け止めたのは初めてのことだった。
 言いようの無い感覚が左の手のひらに広がっていた。吸いつくようにひた、と引き寄せられて手のひらから何かが抜けていく、ぞくりとした寒気があった。代わりに彼女の体から与えられたのは痺れだった。指先の感覚を奪う、電気より優しくおぞましい痺れが私の腕を伝う、そして脳へ昇り私の表情を揺らし、思わず目を眇めた。全ての感覚は私の全身、その肌を粟立たせた。


「……空の上でピジョットが最大限の力を発揮出来るように、あなたも力を抜くんだ。飛んでみて、一周して戻ってきてください」
「はいっ」


 私の手肌から冷気を奪っていった、小さな背中。ピジョットが羽ばたき始めたことで揺れる背中を、そっと、押した。飛べ、と願って、押した。

 彼女は、今までで一番だというくらいピジョットと一体になり、その大鳥の主人であるかのように空を飛んだ。







「ピジョットがゲンさんに懐いた理由、分かる気がします。それに、わたしの同僚がゲンさんを好きになった理由も、ゲンさんがモテる理由も分かってきました」


 快晴の空にたったひとつあった雲まで飛んで、大きく一回り。そしてピジョットと無事に戻ってきた彼女は私を見ずに語った。
 モテる、という表現を気恥ずかしくなっているとそれを察したさんはさらに表情を深める。


「親切だし、優しいし、なんだか話しやすいですし」


 親切で優しい。話しやすい。彼女の中の私はそういった印象の人間らしい。親切も優しさも私には当てはまらない。けれど話しやすさは私自身も感じていた。
 彼女を相手にしていると、余計なことを喋らないという選択肢がいつの間にか消えているのだ。

 いつからか、私は抱いている。小さな背中の持ち主に期待を抱いているのだ。
 私とアーロンのことも。その他の記憶、生まれのことも。ルカリオとのことも、波導のことも。彼女ならモンスターボールの見解を話した時のように、なんでもないという顔で聞いてくれるのではないかという、期待を。


「それにゲンさん、かっこいいんですもん」


 彼女がはにかんで私を見る。かっこいい。それは私に当てはまらない言葉なのに、さんに言われたその時はなぜか、私も顔を熱くさせてしまった。