その日が俗に言うバレンタインデーであることを、私はさんに話題を振られるまで気づけなかった。そういえばやけにチョコレートの商品が打ち出されているなと思っていたが、「はやりなのかな」程度に軽く考えていた。
 二人、ベンチに座って、ほうじ茶をいただく。彼女が水筒から出してくれた湯気のたつそれ。最近彼女は私のぶんまで折りたたみ式の小さなカップを用意してくれているのだ。舌と指先を温めながら、私は今し方知らされた事実に小さくため息をつく。
 なるほど。バレンタインデーということは2月も半ばということだ。季節は冬の、終わりの始まりとなっていた。そうか、冬も終わるのか。祭日の内容よりも季節の移り変わりに私の意識は寄っていた。


「失念していました」


 素直にそう告白すると、意外です、とさんは言った。


「ゲンさんは以前に甘いものが好きと言っていましたから、バレンタインデーはそれなりに楽しみにしているものかと思いました」
「確かにチョコレートは好きだが、この季節を楽しみにするほど熱心なわけではありません」


 それに私が一番好きなのはシンプルな、銀紙をむいて食べる板チョコだ。チョコレートの味を知り尽くしたいだとか、職人手製の一粒一粒手間のかかったものを食べたいという欲求は抱いたことはなかった。


「ゲンさんのことですから、今までバレンタインにチョコレートをもらったこと、あるんでしょう」
「……、まあ」


 手製のものもそうでないものも合わせて、バレンタインデーだからとチョコレートを貰ったことは幾度かあった。多くは女性からだ。
 意外なことに面識の無い人からも渡されることもある。見知らぬ少女から赤いリボンをかけられた箱を頼み込むように差し出され、断る理由が見つからず受け取ってしまったこともある。なぜ私に、という驚きとともにリボンを解く瞬間、さすがに背徳的な心地がしたのを覚えている。


「やっぱり」


 そういうさんは笑い混じりだ。


「やっぱりって。私はそんなにチョコレートを欲しがっているように見えますか?」
「そういう意味じゃありませんよ? ゲンさんは、かっこいいから」
「………」
「それにゲンさんは不思議な雰囲気のある人だから、こういう機会に思いを打ち明ける人もいるのかな、と。この時期ますますモテそうだな、って思います」


 かっこいい、頼りになる、優しい、モテそう。私を男性として魅力的だと褒める時、彼女はとても軽くそれを口にする。


「……その、あなたが言うモテるという表現が私は苦手だ」


 苦笑いも浮かばないくらい、心が引いていく。毎回、それらが恥じらう様子もなく告げられるので、私には心の無い世辞にしか聞こえないのだった。


「ごめんなさい、他に良い言葉が無いんです」
「いえ、言葉の問題ではなくて」


 初めて、はにかんだ笑顔で「かっこいい」と言われた時は私まで顔を赤くしてしまった。それは彼女が瞳に宿していた熱が伝わってきて、感化されてしまったからだ。彼女の表情、赤くなった頬が、私に訴えかけ、私の体まで熱くした。
 けれどあの時の熱はもう彼女にはない。

 変化を見せない彼女の顔で、褒め言葉を言われると、私は逆に冷めてしまうのだった。その心地よい言葉は嘘なのだろうなと、本当にかっこいいとは思っていないのだろうなと、心が遠のくのだ。


「あなたが、本気で言っていないのが分かるから」
「………」
「思っていないことは言わなくて良いのに、と思うんです」


 みるみる悲しげな表情になっていく彼女に、少しだけ可哀想だなという気持ちがわく。
 すっかり暗い顔色になったさんは指先を固く握りしめた。


「……あの、違います。かけらも思っていないことでは、無いです」
「そうですか?」
「でも、冗談っぽく言ったのは確かに、ゲンさんの言うとおりなんです。あまり本気になって口にするのは……、怖かったので……」


 そう言ってさんは自分の鞄に手を伸ばした。何かを取り出す音。振り返った彼女は肩の力を抜いて、どこか休らいだ表情だった。


「ゲンさん」


 はい、と返事しようとした私の唇の動きを奪ったのは紛れもなく彼女の寂しげな瞳だった。


「好きです」


 そして差し出されたのは小さな小箱。彼女の小さな手のひらには少し余る、チョコレート色の箱に渡る、赤いリボン。金色のシール。冷たい冬の風が、彼女の表情に髪をかける。


「今日は、告白しようって決めていました。バレンタインデーに告白とか、すごく、ベタですが」
「あ、え……」


 さんは顔の横の髪をかきあげる。見上げてくる瞳に、私らしくなく言葉がつっかえてなかなか出てこない。


「ど、どうして……、私を?」
「理由なら。たくさんありますよ。たくさん、優しくしてくれたじゃないですか」
「い、いつから?」
「それはわたしにも分かりません。気がついたらゲンさんが好きでした」


 好き。二度目の響き。彼女が感情を乗せてそんなことを口走ったのが信じられない。頸動脈はどくどくとうるさい音を立てていたが、私の顔からは血の気が引いていく。

 なんということだ。
 優しくしていたから、私を好きになったと言うのだろうか。私の優柔不断なお節介が、そんな気持ちを招いたのだろうか。さあ、と全身が冷たくなっていく。


「その……、あなたを勘違いさせるつもりは無かったんです。ただ、放っておけなくて」
「……はい」
「期待させたのなら、すまない」
「………」
「そういうつもりじゃ無かったんだ……」


 おかしな、自意識にまみれた表現になってしまうが、私は、彼女が私を好きになってくれるとは思っていなかった。かけらも、一瞬だって。


「ゲンさん、良いんです」


 絶句している私に、彼女は失恋を感じさせないくらい柔らかな声で喋った。


「ゲンさんがわたしをそういう対象に見ていないって分かっていましたから」

「むしろ綺麗にフラれたかったんです」

「だってゲンさんは、わたしの友達の好きな人ですから。だからちょっぴり辛かったんです」

「ゲンさん、今までありがとうございました。とても楽しかったです」


 楽しかったのは私もだった。存外に、友人のような師弟のような関係は心地よかった。だから私も真剣に、時には笑ってさんに接していたというのに、今となっては分かる。それが間違いだった、と。


「……チョコレートは、どうしますか。わたしが捨てた方が良いでしょうか」


 女性に自分で贈り物を捨てさせる。それを残酷だなと思う一方で、私は怖い、と思っていた。物理的な距離でなく、心の距離が思った以上に近づいていた事実が私の思考を硬直させていた。


「……、……受け取れない」
「はい、分かりました」


 頭が動ききっていない私を置いて、さんはベンチから立ち上がる。水筒、カップ、そしてチョコレートの包み。自分の持ち物を鞄に集めてから、目を合わせられない私に視線を落とす。


「ゲンさん、さようなら」


 別れを告げた彼女の息づかい。そこに悲哀はなくて、むしろ一瞬喜楽を浮かべたように思えたが、私は顔が上げられなかった。彼女が去って、もうここにはいないと確信が持てるまでずっと。

 こうして私とさんの関係は壊れた。さんが、「ゲンさん、偶然ですね」と笑みを浮かべて挨拶をすることもなくなったのだ。