あのバレンタインデーが壊したのは、師弟に近かった私とさんの関係。そしてさんが「ゲンさん、偶然ですね」と笑んで会釈を交わす日常だ。
 逆に言えば、彼女の告白はたったそれだけを壊したに過ぎないのだ。

 だからこうして不意に角を曲がった瞬間に私とさんは会ってしまう。


「……っ」


 不本意ながら立ちはだかるようになったしまった私に、さんは大きく肩を揺らした。

 見上げてくる視線に映っているのは恐怖と嫌悪。この人もこんな風に顔を歪めたりするんだな。彼女にまつわる記憶を全てを含めても、今までに見たことのない色だった。
 アーロンの記憶に生きる彼女も、アーロンを恐れたり拒絶を示したりしたが、いつも根底にはアーロンへの尊敬が含まれていた。
 こちらを責め、不快感を示すような表情のさんは初めてで新鮮な心地がすると、私の暢気な性分は考えている。

 彼女が顔をしかめるのは尤もだ。同じバトルフロンティア内にいる状況がよくないのか、本日彼女とこうしてすれ違うのは三度目だった。
 想いを受け取らなかった男が数日の時間を空けずに、幾度と無く顔を見せるのだ。最初はただ気まずそうにしていたさんも、視線が冷たくなるというものだ。


「あの……」
「はい」
「さっきから、よく会いますけど……。何か用なんですか?」
「いえ。ただの偶然です」
「本当に?」
「本当に」


 彼女の告白で私たちの関係は確かにマイナスへ壊れた。けれど気味の悪い偶然は依然と続いている。
 今までの偶然を、本当に偶然と信じている彼女にしてみれば、今の状況を男に付きまとわれたくらいに思っているかもしれない。


「不快な気持ちにさせてすまない」


 直立するさん。彼女が動き出すより先に私は帽子を目深に被り、その場を立ち去った。
 大股で去り、そっと後ろを見るとさんも私を振り切るように大股で去って行った。


 さんとの関係が壊れたからと言って、私自身のトレーナー業をやめる道理はない。気晴らしも兼ねてこっそり施設に潜り込んだつもりだったが、結果すでに三度も彼女と鉢合わせた。見通しが甘過ぎたらしい。

 彼女と離れると、私も重い息を吐いてしまう。すると聞き手になると言わんばかりにルカリオがボールから出てきて、私を見つめた。


「さすがに。あんな顔をされ続けるのは疲れるな」


 綺麗にフラれたかったと彼女は言っていた。友達の好きな人だから辛かった、とも。その思いであえて私へ気持ちを打ち明けた。切り捨てようとした。なのにこうして幾度も顔を見せて、私はきっと彼女の失恋に追い打ちをかけているんだろう。

 私の顔を見て彼女が傷ついた表情をする度に、私も無傷ではいられない。やはり程々の距離が一番無難であった。「偶然ですね」と笑いあって、そのまま通り過ぎされるような、あの頃に戻りたい。そう思うが、あの時間を壊したのは他でもなく彼女の気持ち。私の意志ではどうしようも無かった。

 私は決して、彼女の不幸を願っているわけでは無いのだ。無いのだが。

 彼女の歪んだ顔が思い出され、私は明日の予定の変更を決めた。しばらくミオ周辺で静かにしていよう。手応えのあるバトルはしばらく出来ないが、トレーナー修行に専念すれば良いのだ。それでさんが不快な思いをしなければ、私も心穏やかでいられる。易いものだ。

 しばらく同じ場所にこもるなら、こうてつ島が良い。


「ルカリオ、明日はこうてつ島に行くか」


 ルカリオは鼻をぶるると動かして相づちを打った。


「厳しい修行になるが。楽しみだな」


 しかしその見通しすらも甘かった。



『……ばんどうろでポケモンが大量発生。このでんきタイプのポケモンたちが発するでんじはにより、一部地域において通信障害が発生している模様です。通信障害は……、………』


 こうてつ島に泊まりはじめて数日。私が自分とポケモンたちだけの世界に腰を落ち着けるなか、手持ちのラジオがそんなニュースを伝えた朝だった。
 こうてつ島の廃坑にけたたましく、電話のベルが鳴り響いたのだ。

 ここにいるのは気まぐれに入り込んだ、ポケモントレーナーたち。彼らは常に歩き回ってるから、特定の人物に向けて電話をかけたとは考えにくい。
 そもそも内線用の通信機だ。それも、坑夫たちが使うためのもの。

 暗い洞窟内で、その通信機はベルと共にランプを激しく点滅させる。
 鳴り止まない電子音に洞窟内のポケモンたちは神経を逆立たせ始めた。不審な電話だ。それを感じ取りながらも私はそっと受話器をとった。


「もしもし」
『もしもし』


 まさか。そう思いながら、どこかで私はその声を予期していた。


です』
さん……」
『はい。あの、今お時間よろしいですか?』
「まず伺いたいのですが、かけ間違えていませんか?」
『え……?』


 彼女の言葉が私宛でないことは、その声色が随分明るいことからは分かった。彼女はもう、親しげに私に話しかけてはくれないのだ。
 それを裏付けるように、私が名乗ると彼女は声色を変えた。


「私はゲンですが」
『え、ゲンさんなんですか? そんな……。どうして?』
「私も不思議です。実は私が今使っている電話、こうてつ島というところで、昔まだ鉱石を掘り出していた頃に使われていた通信機です」


 受話器越しに、息を飲んだ音が聞こえる。


『通信障害、ですね……。すみません、とにかく間違えました』
「いえ」
『それでは。失礼しました』


 冷たい声を切り捨て、電話は事切れたように音を発しなくなった。


「いくら通信障害でも、これは……」


 洞窟の中、私は妙な汗をかいていた。
 苦さしか残さなかったバレンタインデー以来、私と彼女を結びつける何かは、また力を増しているように思える。
 彼女の電話がでんじはの影響を受けて、こうてつ島のちょうど私の一番近くにある受話器へ繋がれた。この出来事を、偶然という生やさしい言葉で片づけて良いのだろうか。
 もはや、暴走という言葉がふさわしい。

 それから数日、胸の奥にざわつきを感じながら、手持ちの食料が尽きるまで私はこうてつ島の奥深くへ潜り込んだ。
 さすがに洞窟深部ともなれば、さんがふらりと訪れるということは無いようだ。あれから通信障害も発生せず、“間違い電話”もかかって来なかった。

 修行を終えて、体に疲れが溜まっていた。そして数日さんの回避に成功したことで、気が緩んでいたのだと思う。
 こうてつ島からの帰りの船で、また事は起こった。

 私は確かに、こうてつ島からミオへ繋がる連絡船に乗ったはずなのだ。何度も乗った船を間違えるはずがないのに、船はミオを遠くに捕らえたまま通り過ぎてしまった。


「船長、この船はどこに向かっているのですか?」
「何言ってんだ、コトブキシティ行きに決まってるだろ!」


 おかしい。ミオからまだしも、こうてつ島からコトブキ行の船など聞いたことがない。


「まさか兄ちゃん、間違えたのか?」
「そう、みたいです……」
「居眠りしてるからだよ」
「居眠り、ですか?」
「ああ。よく寝てた」


 居眠りしている間に、船がコトブキへ行き先を変えたというのだろうか。だとしたら説明がつくが、どうにも腑に落ちない。

 行き先はコトブキシティ。このまま行けば、私はきっとまた出くわすだろう。偶然にも、さんに。

 その予想は、くじ箱からはずれくじを引き当てるかのごとく、あっさりと当たった。

 夕陽に染まるコトブキシティ。呆然と立ち尽くしていると、停まった船から蹴り出されてしまう。薄暗い景色でコトブキシティの全容も掴めないまま、とりあえずポケモンセンターを目指して歩き始めたところだった。


「なんで……」
「………」
「どうしてここにいるんですか……」


 その人はこちらを、きっ、とにらみつけて道の向こうに立っていた。


さん」


 私が一歩近づくと、彼女は一歩後ろへ下がる。


「実は迷子なんです」
「迷子? 良い大人がですか?」
「はい」
「わざわざ、わたしの家の近くで?」


 そうか、さんの家はこの近くなのか。
 不本意な目的地に着いた船は、きっとさんの近くに私を連れていくのだろうと思っていた。が、まさか彼女の住む町へ放り込まれるとは思っていなかった。
 さんの疑いは尤もだ。が、私は嘘みたいな事実でここに立っているのも真実なのだ。


「はい。間違えてここに来てしまって、途方に暮れていたところでした」
「そんなの、っわたしが信じると思いますか?」
「事実だ。私にはそれ以外に伝えようがない」
「電話だって……!」
「あれは電波障害のせいでした」
「だとしてもおかしいです。電話がわざわざゲンさんに繋がるなんて……。狙ったみたいに、ピンポイントに」
「私もそう思う」
「ふざけないでください!」


 ふざけてなんかいない。嘘もついていない。事実しか、口にしていない。
 なのに状況はきつく締め付けられていく。


「わたしを責めているんですか。何か、お気に障ったなら、直接そう言ってください……!」
「そんなつもりは無い」


 私を責めているのは貴女の方だ。
 貴女が私を知る前から、私は貴女を知って、貴女と関わることを恐れていた。


「じゃあもう、もうこんなこと、やめてください……!」


 敵意に染まった瞳から、ぽろりと滴がこぼれる。


「それは、出来ない」
「どうして……?」
「もう私にはどうにも出来ない」


 ここが限界だ。
 私も、彼女も。


「……話します。なぜこんな事が起こっているのか、私が思い当たる事柄を全て話します」


 記憶のこと。私が隠す、己のことを。
 そしてこの呪いのような繋がりも。

 とうてい真実とは思えない内容だ。彼女はどんな反応を示すだろうか。


「でもまずは、私に何か食べさせてくれませんか?」
「え……?」
「言ったでしょう? 迷子なんだ、って」
「……、分かりました」


 彼女は私を警戒し、一定の距離を保ちながらも、すぐにポケモンセンターを経由して、小さなレストランへ連れていってくれた。