白熱灯の明かりが壁のシミを照らしだす。机にかけられた布のレースに、それを汚れから守るプラスチックのクリアシート。さんが連れて来てくれたのは時間の経過を感じさせる小さなレストランだった。

「本当に、お腹空いてらしたんですね」

 私は返事をしなかった。いや出来なかったのだ。赤いソースのパスタが口いっぱいに詰まっていて返事どころでは無い。

「あ、すみませんでした、食べてる最中に。どうぞゆっくり食べてください」

 水を取ろうとした私をさんは制止する。決して笑顔では無いが、彼女の警戒の視線がだいぶ崩れた気がした。その綻びから滲んだもの、それは慈愛の類なのだろう。
 せっかくの食事。ゆっくりと味わうべきなのだが、さんへの弁明のため私は急いで口の中を空け、飲み込みながら答える。

「ずっと、修行続き、だったもので」
「そうだったんですか。でもまさか、修行中ずっと何も食べないなんてことは無いですよね?」
「もちろん。ただ私がよくやるのはこうてつ島に籠もるというものなので、あまり日持ちしないものは持ち込みません。こうやって、好きなだけ食べて水を飲めるのは久しぶりなんですよ。すごく生きてる心地がします」

 今度こそさんの目は丸く見開かれる。あっけらかんという様子で私を見る。彼女のフォークはすっかり止まっていた。

「なんでしょうか?」
「いえ。その……、もっと、禁欲的な人だと思っていましたから。ゲンさんはいつも何かを堪えているようで」
「私は人並くらいは食べますよ。体は資本ですから。……イメージを壊したかな」
「そんなことはありません。むしろ……、いえ、なんでもありません」

 瞳の奥を揺らし、何かを堪えているようなのはさんの方だ。けれど深追いすることは出来なかった。
 向かい合って座る私達だが、彼女は私へ恋心を抱き、私はそれを破り捨てた間柄だ。その事実は彼女と、私の胸を傷つける。

 先ほどまで向けられていた軽蔑の視線を思い出す。あれに、私は一種の心地良さを覚えていた。私の存在を認めながら、けれど決して近すぎない。彼女が私を褒めたり、優しくされる度に私はむずがゆい気持ちになっていたのだから、期待されないことが安らぎだったのだと思う。
 だから甘ったれたことを言うのなら、さんが程良く私を嫌いになっていれば良いのにと思う。あくまで、程良く。こんなことを考えるなんて。これでは少なからず、彼女との日々が楽しかったみたいだ。

 もっと、ゆっくり食べよう。食べ終わったら、彼女に話さなければいけない。ぐっと胃が重くなった気がしてとりあえず、水を飲んだ。





 あの後話題も無く、さんと過ごした中では今までで一番静かな食事だった。お互い黙々と食し、今は食後のコーヒーが運ばれ、机の上に伝票が伏せられる。気の重さを感じながらもそれとは別に、体は口直しを要求している。私はコーヒーを煽った。さんは一口つけたっきりだ。

「あの、そろそろ……」
「そうですね。話すのは構わないんです。ただ……」
「ゲンさん」

 彼女にしては堅く、強い口調で名を呼ばれる。

「言い逃れは聞きたくありません。おかしな言い訳も、聞きたくありません。理由があるんですよね? なら、聞かせてください。真実を話してください。そしてなるべくなら今日で終わりにしてください」
「………」
「終わりにしてくれるなら、わたしは出来る限りゲンさんに協力しますから」

 返事はしかねる。終わりに導けるのなら。私だってそうしたい。

「真剣に、正直に話すことは約束しよう」

 私に守れることがあるとすれば、それだけだ。

「どこから説明しようか……。さんは、前世を信じていますか?」
「……、はい?」
「すまない。実際胡散臭い話なんだ。私は前世は信じていない。ただ、今回は前世と仮定しよう。その方がきっと分かりやすい」

 前世という言葉でさんは見事に顔をひきつらせた。そのくらいの反応は予想をしていた私は顔色を変えず、話を続ける。

「幼い頃からそうでした。私には前世と思われる記憶がいくつもあったんです。様々な時代、様々な人としての人生の始まりから終わりまでが私の中には残っています。
 だから私は早熟で、年の割に達観したような口を利いて、少々嫌みな少年でした」
「ちょ、ちょっと!」

 会話を遮ったのはもちろんさんだ。

「ちょっと待ってください。ごめんなさい、えっと……前世とか関係してくる話なんですか?」
「先ほど話した通り、私は真剣に、正直に話しています。信じられないかもしれない。信じてくれなくてもかまわない。けれど、聞きたいと言ったのは貴女なのだから、せめて最後まで聞いて貰いたい」
「……、分かりました。あの、最後までちゃんと聞きますから。それは大丈夫です。ただちょっと、予想外のところから話が始まって、混乱したというか……」

 さんは言葉を濁しながらそわそわと髪を直した。おそらく自分を落ち着けるための癖なのだろう。

「あの、大丈夫です」
「ありがとう」

 すぐに感謝の言葉が出てしまい、私は諦めのように確信する。
 この荒唐無稽な話を、私は誰かに、最後まで聞いて貰いたいと思っていたのだ。もしかしたらさんに話せる日が来るかもしれないと、期待まで持っていたのだ。
 最後まで聞いて、それからさんがどんな反応を示すかは分からない。けれど、私の秘密を知る人間が一人増える。その事実だけは、今夜必ず叶うのだ。

 この古ぼけたレストランで過ごす夜が、私の人生における重要な夜である。そんなこと、目の前のさんは欠片も知らないのだろう。これからも知ることはないだろう。ぼんやりと向かいの小さな姿を見ながら私は話を元に戻していく。

「……私は前世の記憶を多く引き継いでいます。様々な時代の記憶がありますが、その中で一番はっきりと残っているのが」

 吸い込む呼吸が揺れた。この男の名を声に出すのは、今夜が初めてだからだ。

「アーロンという、男の記憶です」
「アーロン……」
「はい。いつの時代の人間かははっきりしません。何せ全く違う文化で生きていた男なので。かなり昔のことなのは確かです。ポケモンはいるがモンスターボールがありませんし、まず、電気の無い時代です。
 彼は波導使いを生業としていました」
「波導使いというのは……?」
「ルカリオの固有の技として、はどうだんというものがあります。これが不思議なことに、必ず当たる技なんですよ」
「はどうだん……、波導の弾という意味なんですね」
「そう。アーロンの記憶で見る限り、この世の全ては固有の波導を発しています。そしてルカリオはそれを感じ取ることが出来ると言われている。アーロンもこのルカリオを相棒として連れていました」
「ルカリオ……、ゲンさんもルカリオをパートナーにしていますよね」
「……アーロンと私はよく似ていて、互いを知る人が見たら、親子か生き写しか、生まれ変わり。そんな風に言うでしょう」
「前世、ということですか?」
「つまらない言い方をするならそうです」
「えっと……」

 くだらない意地を張った言い方がさんを混乱させたようだった。

「すまない。私はあまり認めたくないんだ。私は私。アーロンとは別の人間だと思っているから。けれど、私とアーロンに不思議な繋がりがあるのも事実なんです。そこは分かってくれますか?」
「……、はい」
「アーロンが生きていた時代は決して豊かな時代ではありませんでした。けれど友人がいて、相棒がいて、そして愛する人がいました」
「………」
「と言っても彼の片思いでした。二人は最後まで通じ合うことは無く、恋人同士にはならなかったのですが」

 話の流れはさんも掴んでいるようだった。押し黙り、堅くなった表情は、血の気を無くしたように青白かった。
 私は真剣に、素直に、けれどどこか淡泊に、決定打となる言葉を告げた。

って言うんです。その人の名前」

 沈黙は数分あった。何か、気を紛らわせるようなことを言った方が良いかもしれないと私が思った時だった。さんがようやく口を開く。一度は何も言えずに唇は合わさり、再度開かれる。

「前世だからって……、そんな……」

 全くもってその通りだ。私は内心同意する。

「今までのことはアーロンのせいだと言いたいんですか?」
「思い当たる理由があるとしたら、それしか無いんです。私とアーロンが極似しているように、アーロンの傍にいた“”と貴女も似ているんです。一目見た時から私が気づくくらいに。名前だけじゃなく、本当にそのまま……」
「そんな、もし前世があるとしても、普通の人なら前世なんて忘れて生きてます。関係無しに生活しています。どうしてわたしとゲンさんだけがこんな……」
「アーロンが、不思議な力の使い手だったからだと私は思っています」
「波導、ですか?」
「はい。アーロンは波導使いとして、とても力が強かった。国に仕えるレベルには波導の達人だったようで、人生の終わりはオルドラン城で一つの国を統べる女王に仕えていました。それに……」

 ああ、と嘆息しながら私は思い出す。アーロンの力の強さを示すにはうってつけの記憶に。

「それに、アーロンはその力を使い、戦争をひとつ終わらせたんです」
「波導ってそんなことも出来るんですか?」
「正確にはアーロンだけの力ではなく、世界のはじまりの木に住む幻のポケモン・ミュウと力を合わせて行ったことです。結局アーロンはそこで死ぬことになるのですが。力を使い果たして、波導の力に飲まれて。けれどそういう、一つの大戦を終わらせるほどの力はあるようです」
「………」
「私が貴女を追いかけるような真似をしてしまったのは本当に、故意のことでは無いんだ。不快な思いをさせたことは謝る。けれど、私にもどうしようもないことなんだ」

 さんとバトルフロンティアで出会ったこと。人の口からさんの名を何度も聞いたこと。彼女と様々な場所で何度もすれ違ったこと。図書館で、さんの持ち物を見つけた。同じ時期に同じ本をそれぞれ読んだ。小さな恋の橋渡しを受けた。ピジョットが私たちを繋いだ。そして貴女は私を好きと言った。
 どれも私が望んだことではない。

「アーロンさんが……、わたしとゲンさんを繋げてるとして、何か目的があるのでしょうか?」

 会話が途切れる。けれどその間に、私の話した荒唐無稽の語りをさんは少しずつかみ砕いているようだった。

「分からない。アーロンにはさんを強く求める気持ちがあると思うが……。真意は分からない」
「本当に、どうしようもないことなんでしょうか……?」
「さあ。でも今の私には、こうして貴女に素直に打ち明けることくらいしか方法が無かった」
「………」
「すみません、巻き込んで」

 謝罪は本心からの言葉だった。女性らしい華奢な体を精一杯に動かし、バトルフロンティアで仕事をして、ピジョットを相棒として可愛がって……。そんな普通に生きているさんを見かけたことは、悪いことでは無かったと思う。アーロンの横にいた、決して楽ではない生き方をしていたさんが報われたような気持ちがするのだ。
 私がいなければこの人の平穏な生活は続いていたのだ。私はコーヒーを飲もうとしたが、カップはすでに空だった。

「事情が本当なら、ゲンさんを責めるつもりは無いです。でも……。すみません、なんだか頭がごちゃごちゃして……」
「……誰かにこの話をしたのは初めてでした。でもきっと何も変わらない。明日も、明後日も、その先も。きっと迷惑をかけると思う。私に出来ることならします。だけどどうにもならないことがある事情は、知っておいて貰えたと思う」

 彼女からの質問が無くなって、私から進んで話したいことも無くなって。私たちのやりとりは行き詰まりを見せた。時刻は日付変更へと迫っていく。

「そろそろ……」
「そう、ですね」
「答えは出なくて当然です。私も分からないことだらけですから。聞いてくれてありがとう」

 私が席を立つ。けれどさんは動かない。カップに溜まってまるで泥水のようになったコーヒーを見つめるばかりだ。

さん……?」
「あの、……ゲンさんは、わたしと顔を合わせる度に苦しかったんでしょうか……?」
「いや、楽しいこともありましたよ」

 私の返答はすぐに真意を見抜かれて、さんは席から私を見上げ、こう言った。否定はしないんですね、と。





 修行による肉体的な疲れとさんと対面して己のことを打ち明けた精神的な疲れ。両方が私にひどく重くのしかかり、私は二日目の休暇を迎えていた。
 遅い昼。部屋の窓を開けて風を浴びる。けれどそれ以外は何もしない。
 無理矢理、何かをしようとは思えなかった。前後不覚、注意力散漫。そんな状況で相棒たちをバトルの場へ出したいとも思わないし、私自身も怪我をしそうだ。休みたい時に休める。それもポケモントレーナーの良いところだろう。

 その夜、私宛の電話があった。ヒョウタくんから来た、頼みごとがあるから来て欲しいとの連絡に二つ返事をしてから、私ははた、と気づく。

 ミオからクロガネシティに向かったら、コトブキを経由するじゃないか。コトブキに家があるとこの前教えてくれたのはさん自身だ。

「やってしまった……」

 後悔してももう遅い。さんのことだから、バトルフロンティアで勤務しているであろう時間に通りがかっても、ひねくれた遠回りをしても、何かしらに導かれ、私とさんは出会ってしまうのだろう。
 仕方がない。ヒョウタくんからの頼まれごとを頬っておくわけにも行かず、私はいつもの通りに家を出た。



 彼女と出会う偶然は、もう予想の範囲内だ。
 クロガネシティへと通り抜けようとした道に、ピジョットの羽を柔らかな手つきで撫でるさんが立っていた。
 私が土を靴底を擦ったわずかな音でまずピジョットが顔を上げ、そしてさんが私を見つける。

「ゲンさん……」
「……、やあ」
「会えると思っていました。今日はゲンさんを待っていたんです」

 ゆっくりと歩み寄ってきたさんに違和感を覚える。何が違うのかと思ってよくよく見ると、いつものさんとは服装が違うのだった。
 バトルフロンティアで見かけるロングスカートが揺れる制服、そしてそこから家へ帰っていくゆったりとした私服。そのどちらとも違うさんの服装。しっかりとした靴、飾り気のないカバン。これからどこかへ出かけるようだった。
 私の予想を裏付けるようにさんは言った。

「ゲンさん。わたし、旅に出ようと思うんです」
「旅、ですか」
「はい。シンオウ以外を旅するのは初めてなので、少し緊張しています」
「シンオウから出るんですか。それじゃあ随分遠くまで……」
「そうなりますね。でも、わたしには頼れるピジョットがいますから大丈夫です」

 なんと声をかけたら良いのか分からない。謝るべきなのだろうか。しかし彼女が旅を決めた理由が私とも限らないだろう。
 どうしようもなく、旅支度をした彼女を見下ろしていたわたしにさんは視線を合わせる。

「ゲンさんも、一緒に行きませんか?」

 そう言って差し出されたのは、シンオウの港から出発する船のチケット。そして見たことも聞いたこともない急行列車らしき名が印字されたチケットだった。
 丁寧に二枚ずつ揃えられたチケットを手に、さんは眉を歪めて微笑んだ。


「アーロン伝説の残る、オルドラン城へ」