夜の港で船に乗る。湿っぽい風に吹かれながら、眠りかける岸辺の街に別れを告げる。横に立つ相手は運命を感じる女性。それは旅立ちというより、逃避行にに似たシチュエーションだなと、私は現実逃避気味に考えていた。
 甲板の上。ずっと手をすり合わせていたさんが、たまらず上着のボタンを全て留める。シンオウの海風は冷たい。寒いですね、大丈夫ですか。そんな言葉が喉まででかかったが、結局声をかけることはできなかった。私にブレーキを踏ませたのは、やはり私とさんの関係がためである。
 こうして同じ船に乗り、共に旅立つ。きっと今夜は同じ船室で雑魚寝もすることになる。けれど私とさんは手を取り合って旅をするような甘い関係ではない。やはり、訳のわからない、戯言のような運命によって、傷つけた側と傷つけられた側なのだ。

 さんが不意に想いをぶつけてきたことは、まだ私にとって真新しい記憶だ。さんのことも、その周りの些細なこともまだ鮮明に思い出すことができて、私の心をざわつかせる。
 横に立つ小さな背中を見ていると、むず痒さ、申し訳なさ、戸惑い、失望。そんな気持ちたちまよみがってくる。けれども、何度その感情を辿っても、同じ答えが出る。私は、さんの気持ちを受け入れることはできない。


「ゲンさんは」
「はい」
「シンオウ地方の外に行かれたことはあるんですか?」


 小さくなっていく光を見送るさんは、やけにしんみりとして私に問いかけた。
 私は返答に困った。ゲンとして旅した場所はシンオウと、その外れの島々くらいだ。けれど身体感覚にも残る、前世の記憶。記憶の中で私は様々な土地を彷徨っていた。断片的ではあるが、匂い、温度、音、それから痛みまで刻み付けられた記憶たちは、夢と言い切るにはあまりにも情報量の多いものだ。
 ゆえに私は行ったとも、行っていないとも言い切れなかった。

 私が答えを出せずにいると、さんはそれをそのまま返事として受け取ったようだった。


「私は、初めてなんです。シンオウで生まれ、シンオウで育ち、シンオウで生きてきましたから」


 オルドランの城の中にあった姿がそんなことを言う。


「だから今、とてもどきどきしているんです」


 初めての冒険に胸を震わすさん。
 アーロンの元にたどり着けるかもわからない、ただミュウの噂にすがっての出発。どんな旅になるかさっぱり分からない。けれど、ひとりのポケモントレーナーとして、彼女の旅立ちを祝いたいと私の胸は震えていた。








 朝になったのに合わせ、船が加速したのだろう。大きくなった揺れに、私は目を覚ました。
 長旅用の船に備え付けられたベッドは、質素で固いものだった。柔らかく無い寝床など、私は慣れたものだ。だが、じきに起きてきたさんの顔にはわずかなくまと疲れが見てとれた。


「おはようございます」
「おはよう、ございます……」
「あまり眠れなかったんですか?」
「え、顔に出ていますか?」
「はい」


 さんは昨晩、初めてシンオウ地方を出ると言っていた。さん自身はジムバッジはいくつか持ってるもの長旅もきっと、初めてのことだろう。

 実際、ジムバッジ取得のために旅をするかしないかはトレーナーそれぞれだ。修行を兼ねて旅をするものもいれば、実生活を挟みながら、何回かに分けてバッジ取得のために腕を磨くものもいる。一つのジムへ出かけては、日帰りで家に戻るトレーナーも実際存在するのだ。

 これは案外気を使わなければならないかもしれない。私はさんに気づかれないようにため息をはいた。



 船内アナウンスで、もうすぐ目的地が見えてくると告げる。圧迫感のある船室、時に斜めに傾く廊下を抜けて、甲板に出たが、私は思わず後悔した。朝の海は眩しくて目に悪いのではないかと思うくらいだ。
 けれど吹き付ける風は大きくうねり、とても気持ち良い。ルカリオも共に柵にもたれながら風に吹かれれば、今までの悩みが多少、小さくも思えてきた。


「ゲンさん」


 さんに呼ばれ、見ると、船の揺れに気をつけながらたどたどしく歩いてきたさんに、紙カップを手渡される。こぼれないよう少なめに注がれたあたたかなコーヒーが、ふわりと香った。


「……、どうも」
「いえいえ」
「気を遣わせてしまいましたね」
「他意はないですよ。ただゲンさんも昨晩はあまり寝れていないようでしたから」


 疲れの残った顔で微笑まれると思う。私のことより自分自身の体調を大事にしてほしいのに。


「気づかれていましたか」
「船の上ですからね」
「いえ、そうではないのですが……」


 私自身は、割とどこでも寝られる人間だ。だから昨晩は船の揺れなどで眠れなかったというわけではない。さんのように、船出への期待感やわくわくした子供のような気持ちも、私にはない。

 夜の船室で、私も一人で考え込んでいた。
 つくづく思う。奇妙なことになった。いや、今までも奇妙な出来事に振り回されて来たが、ついにさんと二人、旅に出る事になろうとは。
 話の流れに逆らう気力はもう無い。考えに暮れて、朝も近づいた頃。最早もうどうにでもなれ、見届けてやろうじゃないか、キャメロン城とやらを。そんな思いが湧いてきて、私は匙を投げるように眠ったのだが。


「船が着いたら、お互い休憩をしましょうね」
「あ、でも船の次は列車に乗る予定ですが」
「列車ですか」


 さんはポケットからメモを取り出して、「少し歩くと駅があるとのことです」などと私に教えてくれる。キャメロン城までの道のりはしっかり調べてあるらしい。真面目な人だ。


「もう乗車券等は購入したのですか?」
「いえ。時刻表も印刷してありますが、駅に着いてからの方がいいかと思って、チケットまでは買っていません」
「ならどこかで休みましょう。一泊してもいい」
「でも……」
「船旅につぐ、列車の旅はおそらくかなり体力が要りますよ。ちなみに列車はどれくらい乗るんです?」
「2時間と、6時間半と、8時間です」
「もしやそれが二日目の旅程ですか?」
「はい!」


 閉口した。調べ上げてくれたことはありがたいけれど、さんという初心者が、おそらく一人で組んだ旅程なのだろう。
 あとで私も見せてもらって、一緒に考えさせてもらおう。城は逃げない。目的は二人で無事に城にたどり着くことだ。

 まあ、後ででいいか。旅慣れしていない彼女をサポートしたい気持ちは山々だが、私も、ゆっくりとやらせてもらおう。紙カップの底に残ったわずかなコーヒーをぐいっと飲み干す。


「コーヒー、ご馳走さまでした。私はどこかでバトルでもしてきます」
「バトル、ですか?」
「ええ。先ほど、案内板を見つけました。小さめのようですが、バトル用のフィールドがあるようなので覗いてきます」
「バトル、本当にお好きなんですね……」
「好きですし、今まで会ったことのないポケモンやトレーナーに会えそうで楽しみじゃないですか」
「はあ……」
「それに、旅費も必要ですしね」


 こう理由を並べ立ててみると、良いことづくめだ。私の胸は静かに踊り始める。旅に出たのなら、旅での出会いを楽しまなくては。
 けれど、ぽかんと、さんが口を開ける。
 

「ゲンさんって、本当にポケモントレーナーなんですね……」


 さんに向けられた、呆れたような表情。それは、むず痒い憧れや好意を向けられるよりずっと、気楽で心地いいものだった。