広げた手のひらの向こう、目の前の相手を見据える。やる気十分のレントラーが、好戦的に尾を揺らした。その奥で、ルクシオのトレーナーの男がフィールドに集中力を注いでいる。

「ゆくぞ、ルカリオ」

 ルカリオが腹に力を入れるように、腰を落とす。いつでも動き出せるよう構えたルカリオ。対して、こちらを窺うように左右への歩み続けるレントラー。勝機は見えている。だが逃さぬよう、向こうが動き出すまで待たせる。ルカリオは冷静だ、場の空気に対しても飲まれず落ち着いている。
 ほどなくしてレントラーとトレーナー、両方の空気が動き出す。来るぞ。気配を嗅ぎ取って、流れをなぞりながら始めの一手を決める。

「ボーンラッシュだ!」






 初手にボーンラッシュは上々の選択となった。飛び込んできたレントラーの牙を受け止め、そのまま流し、近い距離のままメタルクローを確実に当てることができた。
 近い距離から受けたメタルクローは、かなりレントラーの意表をついたらしい。レントラーの動揺を、トレーナーも立て直すことはできなかった。その瞬間から、バトルの流れは私とルカリオのものになったのだった。

「ありがとうございます、良いバトルでした」
「こちらこそ。対戦ありがとうな! 悔しいけどアンタのルカリオには圧倒されたぜ!」
「いえ、あなたのレントラーも。流れに乗せたら怖いタイプだなと思ったので、気が抜けませんでしたよ」

 お互いの健闘をたたえ、そして賞金を受けとる。が、その金額に驚いた。相手が壮年の男であることを見ても、相場の倍はあったからだ。

「こんなにいただいて、良いんですか」
「ああ、もちろんだ。レントラーもオレも、足りないものを学ばせてもらった。取っておいてくれ!」

 恐縮してしまうが、旅する身となった今は有難く受け取らせてもらった。旅する身であり、さんというこれ以上迷惑をかけたくない相手もいる。もう一度、丁重にお礼を伝え、私はルカリオたちを休ませるために船上のフィールドから下がった。

 観戦席に座るさんは、ピジョットをボールから出してあげている。ともに海風を浴びながら、羽の様子を見てあげているようだった。
 席に座りながらも背筋がきちんと伸びていて、私が近づけばすっと音もなく立つ。洗練された動作からバトルキャッスル職員らしさを感じたが、この民間の客船では少し浮いていた。

「お疲れ様です。やっぱりお強いですね、ゲンさんは」
「それほどでもないさ」
「船の上でのバトルなのに事も無げに三連勝されてるじゃないですか」
「こうてつじまには私たちも船で向かうからね」
「こうてつじま?」
「私たちの馴染みの修行場です」

 暗く、静かなこうてつじまの洞窟に想いを馳せる。あそこに、また戻りたいと思う。だが、旅の結末も全く見えない今はあの馴染みの洞窟、そこで過ごした日常がいやに遠い。嘆息しそうなのを飲み込んで私は帽子を深く被り直す。

「古風なお二人さん」

 そう声をかけてきたのは、先ほどのレントラーを連れたトレーナーだった。

「先ほどはどうも。レントラーは大丈夫ですか」
「ああ、すっかり回復したさ! さっきのよく鍛えられたルカリオを、息子にも見てもらいたくてな!」

 言われてみると、彼の一歩後ろに男の子が立っていた。男の子はルカリオ、そしてさんの横に堂々と座すピジョットに熱い眼差しを向けている。

「ルカリオがすごいってお父さんに聞いて来たけど……。お姉さんのピジョットも、かっこいい!」
「ありがとう。ピジョットもそう言われて嬉しいと思います」
「なぁ、お連れさんもポケモントレーナーなら、ぜひタッグバトルを申し込みたい」
「お姉さんもバトルするよね?」
「いや、この人はバトルは……」

 は、と口を噤む。さんのことなのに、私が答えることではなかった。さんは特に気にした様子もなく、申し訳なさそうにしている。

「すみません」
「ええー? こんなに立派なピジョットを連れているのに?」
「ピジョットも、気乗りしないようですので」

 少年は子供らしく口を尖らせ、名残惜しそうにピジョットとルカリオから離れていった。
 賑やかな、しかし微笑ましい親子が去っていくのを、さんは優しげな視線で見送っていた。

「古風なお二人さん、って言われてしまいましたね」
「私のせいでしょう」

 私は年齢不詳と揶揄されることが度々あった。普通に生まれ、普通に暮らし、普通に振舞っているつもりだ。が、何せ記憶という人生経験を幾重にも持っている。それゆえに見た目と中身が一致していないと見抜かれることがあるのだ。
 そんな私といると、さんの職業柄上品な振る舞いも古風と呼ばれてしまうようだった。



 下船後。得た賞金は、まずは昼食に使った。贅沢をするつもりはなかった。だがシンオウとはかすかに雰囲気を変えた、あたたかな港町の風に飲まれて気分が一遍に高揚したこと。それにさんも目の奥に、知らない土地への好奇心をたたえていた。
 船で雑魚寝をして、硬くなった体を落ち着けたい。そのためにも、目に入った飲食店に私たちは入ったのだった。

 椅子に体を預け、互いに深い息を吐く。

「船旅、なかなか疲れましたね」
「はい、まだ揺れているような気がします……」

 さんに同意だ。一晩中揺られて、揺られている方に体が慣れてしまったらしい。しかと広がる大地にまだ、違和感がある。
 とにかく何か食べて落ち着きたい。お店のおすすめを二人分頼んで、まず運ばれて来たドリンクを口につければ幾分か気分が安らいだ。

 体を休めながら、この奇妙な旅路の付添人を見る。いや、旅を始めようと言い出し、私を焚きつけたのはさんだ。なので私の方が付添人というのが正しいのだろうか。
 疲れを滲ませた彼女は沈黙したまま、たどり着いた新たな街を視線でなぞっている。運ばれて来た温かな料理も「食べましょう」「はい」とやりとりは短く、黙々と食べ始めた。

 さんとの距離は難しい。さんと、どこまで近づかずにいるか、離れずにいるか。迷う私に対し、さんは堂々として見える。
 話すことを謹んで旅をするより少しくらい話したいと思うのは、もう少し楽に構えていたいというのは恐らく私のエゴなのだろう。

「……アーロンの話を、さんにもするべきなんだろうね」

 船の中、夜の間中考えていたことだった。
 今やさんはや、唯一アーロンのことを共有できる人物だ。ヒョウタくんにも、トウガンさんにも言ったことがない。彼らの人柄を尊敬しているが、だとしてもアーロンのことは話せないだろう。非常識的であるし、わざわざ話す理由もない。今に生きる私に過去のことは、関係ないはず、だった。

「そうですね。アーロンさんのことは、知っておきたいです」

 アーロンさん、と呼ばれて、蘇る。在りし日の彼女は、頑なにアーロン殿、とこちらを呼んでいた。それが何度、私の心をくすぐって、嬉しくももどかしくもさせ、乱したのだろうか。
 違う。私がそう感じたのではなくて。アーロンがそうだった、というだけの話だ。

 しかし姿も声も同じだなんてのは反則だ。自分もほとんどアーロンと瓜二つなくせに、彼女の容貌を恨みたくなる。

 目に入ってくるのは食べかけの食事、フォークを握りながらすっかり止まってしまった自分の手。手が動かないのに、心臓音はうるさい。

 やっぱり、やめておこう。

「……やっぱり、やめておきます」
「え」

 そう言ったのは私ではなく、さんだった。さんは申し訳なさそうに笑っている。

「心の準備をさせてください。わたしにも関わるお話になりそうですので」
「そう、ですね」

 店を出る前に洗面所に立って驚いた。鏡の中の男が、汗をびっしょりかいていたからだ。
 自分の有様に動揺する。と、同時に改めてアーロンにとってのさんは特別な存在だったことを思い知る。
 だが汗を拭ったあとの自分の顔色は青い。そう簡単に他人事のように語れるのなら苦労してない。ため息が出る。前途多難だ。

「ゲンさん」

 店先で私を待っていたさんに、そう呼ばれ、思わず胸を撫で下ろした。私はゲンだ。「はい」と返事をすると、ずっと揺れを覚えていた体が急に現実を思い出して、深い安心を覚える。

「では、行きましょうか」
「あの、その前に」

 旅の再開を申し出るとさんは私を引き止めた。手を揉み、恥ずかしげにしている。

「さっきは、思わず断ってしまったのですが」
「さっき?」
「船の上で申し込まれたタッグバトルのことです」
「ああ」

 さっきと言うには時間が経っていると思うが、さんにとっては地続きの話だったらしい。

「やっぱりやりたいと思います、ポケモンバトル。だからその、シングルももちろんやって行きたいですが、またダブルバトルの機会がありましたら。ゲンさん、わたしとタッグを組んでくれませんか?」

 さんとのタッグバトルか。僭越ながら、バトルについて多少教えた身でもあるので、気負うものはある。彼女にはバトルタワーで会うようなトレーナーほどの腕前はない。
 だが、瞬間的に抱いた印象は良いものだった。
 彼女とピジョットを交えてのポケモンバトル、面白い予感がする。やってみたい。

 恐る恐る、と言った様子で私の返答を待っている。その恐れっぷりは、私に断れても仕方がないと真剣に考えているようで、ふ、と息が溢れた。私はそんなに冷たい人間ではないのに。

「……では、ピジョットとのチームワーク、私にも見せてもらおうかな」
「っ、ありがとうございます!」

 みるみる笑顔になったさん。タッグバトルを了承することで、どこか見られると期待していたものを、さんは存分に見せてくれるのだった。

 笑ってくれたらいいのに、と思って起こした行動で、素直に笑ってもらえるのは気分の良いものだ。あの”さん”は、こうではなかったな。思い出しかけてまた、蓋をする。

 困ったものだ。迂闊に記憶を辿ろうとすると、すぐにアーロンがさんに抱いていた思いまでもが私の手を離れて蘇りそうになる。
 ひとまず今は蓋をしているそれ。だがオルドラン城を目指す限り、蓋はいつか外さなければならないだろう。何かに徒らに刺激されこじ開けられることもあるだろう。無闇に開かれるよりは、自分の手で開けて中身を見つめたいと思う。