朝一番、インテレオンはモノクルを磨きます。指先から水を滲ませて、レンズを傷つけないよう指先で優しくこすります。それからお嬢様に貰った専用の白いハンカチで汚れを拭き取ります。長年生きることによって落ちて来た、インテレオンの左目の視力をサポートするそのモノクルはお嬢様からの贈り物です。いつぞや、インテレオンが左目だけを時々眇めることに気が付いたお嬢様が、ガラルの中で一番の職人を訪ねてインテレオン専用に作らせたものでした。だからインテレオンの鼻筋にもぴったりとかかるのです。
まだ顔を出したばかりの朝日にレンズをかざし、ほこりひとつないことを確認して、インテレオンは大切なモノクルをいつもの場所に座らせてやったのでした。
左目の具合がよくなり、辺りがくっきりと見渡せるようになると、インテレオンはまだ誰も起きていないお屋敷を見て回ります。太陽の昇る方角を見ると、今朝の空には雲ひとつありません。変わりやすいガラルの天気ですが、晴れることを肌でも感じ取ったインテレオンは庭の水やりから今日という日を始めたのでした。
お庭に適切な量の水を行き渡らせるのは、インテレオンの習慣です。あくまで日々の慣わしであり、仕事ではありません。インテレオンがお庭を日々気にかけているのはお嬢様のためです。お庭の花が萎れているとお嬢様が悲しそうな顔をしますし、反対にお庭の花が代わる代わるに咲けば、微笑んでくれます。いつの日か、お嬢様が困った顔でお部屋から飛び出してきたことがありました。お嬢様の困った顔は次第に泣きそうな顔になり、うずくまってしまったのですが、それでも水を得て輝く花々を見て、涙ながらに微笑んでくれたのでした。それ以来、インテレオンが今以上にお庭に気を配るようになったのは言うまでも有りません。
お嬢様の涙と微笑に思いを馳せていたインテレオンを、少女の声が振り向かせます。
「インテレオーン」
お庭への入り口から彼を呼んだのは、お嬢様ではありません。ちいさいおじょうさまです。その名の通り、年若い少女です。
「はーやーくー!」
朝方にちいさいおじょうさまがインテレオンを待つ。その理由はたったひとつ、朝ごはんのためです。ちいさいおじょうさまはお腹がペコペコなのでしょう、ゆったりと歩いていたインテレオンの手を掴むと、ダイニングルームへと引っ張ったのでした。
キッチンには近所の夫人が来ていました。昔は家政婦として働いていて、お屋敷のことも、お嬢様のことも昔から知り尽くしている夫人です。夫人はすでに朝食を揃えてくれていました。パンとチーズ、フルーツと紅茶。メニューはいつも変わりません。インテレオンもポケモンですが、同じものを食べます。
これも随分前の話ですが、インテレオンが人間の朝食に興味を示した時、周りの人間たちはとても驚きました。ポケモンが人間と全く同じ食事をするなんて、と。今でこそ人々はポケモンと一緒にカレーを食べますが、当時はかなり珍しいことでした。けれどお嬢様が、凛と、言い放ったのでした。「食べたいなら一緒に同じものを食べれば良い」。以来、パンとチーズとフルーツ、それに紅茶をインテレオンは朝食にいただくのでした。
中でも一番インテレオンが好きなのは紅茶でした。熱々の紅茶はインテレオンは飲むことができませんが、香りと色味をたっぷり楽しんだあと、少しぬるくなった紅茶に目を細める。それもインテレオンの日課でした。
「あ。ホシガリス、またきてる!」
おじょうさまの言う通り、今日はホシガリスがテーブル下に来ていました。そして黒くて小さな瞳に光を揺らして、インテレオンのチーズを物欲しそうな目で見るのです。
こういう時、インテレオンは快く朝食をポケモンたちに分けてしまいます。パンもチーズもフルーツも、お腹をすかせたポケモンがいるとインテレオンは簡単に明け渡してしまいます。インテレオンには他にも食事を調達する術があるからです。ですが、紅茶だけは誰にも譲ったことはありません。
テーブルの下にチーズをころり、転がしてやると、インテレオンは再びティーカップを手に取りました。
「インテレオンはほんとーに、紅茶を飲んでるとこがかっこいいよね」
ちいさいおじょうさまの言葉に、インテレオンは目を細めました。紅茶だけは死守する理由もやはり、お嬢様がある日言った何気なくティーカップを傾ける、インテレオンのことを褒めたからです。インテレオンてば、紅茶を飲んでいる姿がとっても様になるのね。お嬢様のはそんな、優雅な言い回しでしたが。
「……あれ? チーズ、持って帰らないの?」
ちいさいおじょうさまが、ホシガリスにそう聞きました。確かにホシガリスは出て行く様子がありません。インテレオンから受け取ったチーズはホシガリスには少し重たいくらいで、十分お腹を満たせるはずなのに、まだ黒くて小さな目を潤ませてインテレオンを見ています。その様子にちいさいおじょうさまも首を傾げています。
けれどインテレオンはすぐに気がつきました。ホシガリスは何か困っている、そしてインテレオンに助けを求めている、ということに。インテレオンが立ち上がります。
「待って、わたしも行く!」
ちいさいおじょうさまは慌ただしくフルーツと残りの紅茶を口の中に詰め込むと、どこかへ向かうホシガリスとインテレオンの背中を追いかけたのでした。